04 カントリーロード
永里はまるで生まれた時からずっと住んでいる実家を語るかのようにクジラの体内とそこからの脱出方法について事細かに教えてくれた。
このクジラには胃が二つある。
一番目の胃は今俺達がいる胃袋で、海水と一緒に飲み込んだ流木やら船の残骸やら魚やら何やらがごちゃ混ぜになっている足元を浸している。胃液と海水が混ざった浅瀬は膝小僧までの深さで、歩くのはしんどく、泳げるほどの水深はない。
天井までおよそ20メートル。幅30m、長さ100mの広々とした楕円形の空間は床や壁からじわじわとねばついた液が分泌されていて、それが海水と混合されて消化液になるのだ。
海水で薄まっているせいで第一胃の消化液は効果が弱く、数日に一度の大量分泌期だけ小島の上に避難していればほぼ無害だ。
二つ目の胃は俺達がいる第一胃の奥にある小部屋ほどの広さの胃。
第一胃で溶かされなかった餌は胃液の流れに流されてこの第二胃に流れ着く。
第二胃に餌がたまってくると強力な胃液が分泌され、デロデロに溶かし尽くしてしまう。
事実永里が大腿骨と思しき骨を一本第二胃の小部屋に投げ込むと、松明の明かりの中で骨は煙を上げ一瞬で粘液に溶けた。
ゾッとする。目を疑う溶解力だ。
世界一強力な溶解液・王水に溶ける金の動画を見たことあるが、それだってここまで強くはなかった。
「どんな胃液だよ。強酸か何か?」
「人類が知らない未知の酸だけど、酸そのものは弱いよ。ただいわゆる魔法がかかっているから、およそ全ての物はああやって溶ける」
「胃の出入口にはバリア。アホみたいに強い魔法の消化液まである。これでどうやって脱出するんだ」
「目には目を、歯には歯を。魔法には魔法を、だ。少し待ってくれ、脱出に必要な道具を取ってくる」
そう言って永里は松明片手に小島を出て、広大な胃液の海にじゃぶじゃぶ踏み入り暗がりに消えていった。
それを見送り、しばらくは言われた通り大人しく待っていたのだが、すぐに体がムズムズしてくる。
俺がいるのは廃材の山。つまり宝の山だ。俺は廃車置き場にドライバーとレンチ片手に乗り込んで、使えもしないバッテリーを解体して取り出して集めて自分の部屋にずらりと飾って父親にクソほど怒られた逸話を持つ男だぞ。ゴミ山漁りは本能だ。
家主が不在の間に家探ししてしまおう。へへへ。
胃液の海に浮かぶ小島は六畳ほどの広さだ。錆びた真水精製装置、松明を立てかけるぐらぐらした骨の柱、魚を干してある棚などの隙間に何かの動物の皮が敷いてある。寝床だろう。
小島の素材は溶けかかった骨やら弾力性のある海綿、海藻、流木、正体不明の鱗のようなものまで色々だ。どれもこれも胃液に溶かされ輪郭と色彩を失っていてイマイチ収集欲がそそられない。俺は虫食いの四つ葉のクローバーは集めない派なのだ。
寝床の皮を捲って下を覗いてみると、一冊のメモ帳があった。
裏表紙にはご丁寧に「永里 杏」と書かれている。
これはちょっと勝手に見るのはまずそうだ。自衛隊員のメモ帳なんて機密事項の塊だろう。
だが流石に見ざるを得ない。堂々と置いてあればそこまで気にならなかったが、床下収納に隠されていると中身が気になる。
どうして隠しているのかな? 何かやましいところがあるんじゃないですか?
例え中身を見ても見なかったフリをすれば問題あるまい。
まだ永里の松明の明かりが戻ってきていない事を確かめてからこっそりメモ帳を盗み見る。
最初の数ページはクソ面白くもない自衛隊の秘密作戦行動覚え書きが綴られていたのだが、途中から様子が変わる。鱗クジラの絵や胃内部の見取り図、胃液分泌周期についての所見ばかりになった。このあたりから胃の中に閉じ込められたのだろう。同情する。
文面は終始淡々としていたが、端っこや余白に落書きも目立った。デフォルメされたしましま模様の謎触手生物の絵だ。キモカワイイというヤツだろうか? どこかのニッチな土産物屋で売っていそうなデザインだ。
ところがページを捲っていくと少しずつ様子がおかしくなっていく。
最初は余白に小さく書き込まれていただけの触手生物がだんだん大きくなっていくのだ。クジラや脱出方法についての考察や図説にも見たこともない奇妙な文字や、眺めているだけで気が狂いそうになるいびつな幾何学模様が混じりだす。
ポップに描かれていた触手生物も描き込みが増え、生々しいリアリティが増し、キモカワイイからカワイイが剥ぎ取られていく。
最後は両開きのページいっぱいに怖気を誘う禍々しい縞模様の触手生物が描かれ、もはや一文字も日本語が混ざらない奇天烈な記号がびっしり余白を埋め尽くしていた。
ページを捲るほどに背筋が冷えていく。これは一体――――
「その絵、美しいだろう」
「!?」
背後から聞こえた声に俺は飛び上がり、慌ててメモ帳を閉じた。
びっっっくりした!
振り返ると、永里が粘液滴る牙とも短剣ともつかないものを持って亡霊のように立っていた。メモ帳に集中し過ぎて彼女が戻ってきたのに気付かなかった。
ちらつく松明の明かりが影を作り、短剣にまとわりついている悪臭のする粘液が赤い血のように見える。
「あ、その、これは、悪気はなくて、」
メモ帳を放り出して両手を挙げ、弁解する。
柔和な微笑を浮かべた永里をもう普通の目では見れなかった。
筋骨隆々の大男よりも、今はこの薄汚れ瘦せこけた小柄な女性が恐ろしい。
話し方は理路整然としていてマトモそうに見える。しかし彼女は本当に正気なのか?
「そんなに怖がらなくても」
「そ、えー、あ、勝手に見てごめんなさい……」
「それぐらいかわいいイタズラだ。気にしないさ。私達は運命共同体だろう?」
永里は言葉通りなんでもなさそうに軽く流し、運命共同体を強調してきた。
小島にちょこんと座って一息つき、ブーツを脱いで底に溜まった胃液を捨てている永里から体が勝手に少し距離を取る。
そうだ。いかに精強な自衛官といえど、何カ月もたった一人クジラの中に閉じ込められて正気でいられるのか?
巨大な生き物の体内に閉じ込められる閉塞感。脱出不能の恐怖と絶望。乏しい食料。全てを呑み込む暗闇。じわじわ溶かされ消化される焦燥。
じわじわ苛まれ精神を削られて、永里はとっくに狂っているのかも知れない。一見正常に見えるだけで。
逆にこれだけ過酷な環境で正気を保っていられるなんてそれこそ正気じゃない。
誰がこの孤独と暗闇、そして絶望に耐えられるだろう? 俺だって今でこそ未知へのワクワクが勝っているが、明日、明後日になれば分からない。いや太陽の出ないここでは日にちすら曖昧だ。気が狂うような静寂と終わりの見えない時間の流れに負け、本当に気がくるってしまったとしても不思議ではない。
「さて、脱出計画を話そう。私達のいる胃は頑丈で破壊不能の結界で包まれている。それはいいね? 胃の外に出られるのは胃液で溶かされたドロドロの粘液だけだ。ただ例外もある。このクジラは悪食でなんでも食べるんだが、人間が好きでね」
「え」
俺達はいま人間好きの悪食モンスターの体内にいる……?
永里お前どうしてこんな最悪の情報をそんなにウキウキ語るんだ。
「胃の中、厳密には第二胃に人間が一人入っていればそれで満足してしまうんだ。第二胃に人間が入り込むと、その人間をなんとしてでも逃がさないように結界が集中する。第二胃を極めて強力な結界で固め、代わりに他の結界が消えるわけだ」
「……つまり?」
「第二胃に人間が一人入っていれば、もう一人は自由になれる。だから二人いないと脱出できないんだよ」
その言葉が終わるかどうかのタイミングで俺は身を翻し逃げ出した。
冗談じゃない。やっぱりコイツ狂ってやがる!
この息のつまる牢獄で虎視眈々と生贄がやってくるのを待っていたんだ。一人でずっと。正気を削りながら。
永里の計画は分かった。俺を第二胃に閉じ込め、強力な魔法の酸で溶かされている間に自分だけ逃げるつもりなのだ。
逃げようとした俺だったが、廃材の寄せ集めで作られた小島は足場が悪く、粘液のせいでよく滑る。慌てて飛び出したのが裏目に出て転んでしまった。
頭から粘液に突っ込み、口の中の生臭いねばつきを吐き出しながら急いで立ち上がろうとする。その俺の腕を、小さくほっそりした手が万力のようにがっしりと掴んだ。
「あ」
捕まった。
死んだ。
蛇に睨まれたカエルの気持ちが痛いほど分かった。
頭が真っ白になる。
終わった。
死んだ。
「大丈夫か? これで粘液を拭うといい」
ところが、俺を力強く助け起こし胃液の浅瀬から引っ張り上げた永里はあっさり俺を捕まえていた手を放し、心配そうに布切れを渡してくれた。
んん……?
なんか……何?
何を企んでいるんだ?
永里の行動が理解できない。
自分がなぜ生きているのか理解できない。
命知らずの冒険野郎の呆気ない最後とばかり思ったのに。
「言い忘れたがこの小島は滑りやすいから気を付けるように。先に言えば良かったな。怪我は?」
「ああいや、大丈夫だ……俺を捕まえないのか?」
「は? 捕まえる? どうして、ああ。第二胃に君を閉じ込めて私だけ脱出する計画だと思ったのか。怖がらせてしまったようだね、すまない。そんな事はしない。絶対に。安心してくれ。君に危害を加えるつもりはないんだ、ほら」
心底申し訳なさそうに謝った永里が俺の足元に松明と短剣のようなものを投げて寄こし、両手を上げて無抵抗を示す。
不安そうな永里の顔を見ているうちにゆっくり誤解は解けていった。
俺を罠にかけるつもりなら舌先三寸で丸め込んで第二胃に誘導すれば良かったのだ。わざわざクジラの消化メカニズムや脱出方法を丁寧に説明して警戒させる必要はなかった。永里は口が回るし頭もいい。俺を騙すのはきっと簡単だった。
「あー、悪かった。俺の勘違いだったみたいだ」
「分かってくれて何よりだよ。君に嫌われるのは心が痛む」
「ああ、まあ、うん。それで、俺を生贄にするんじゃないなら脱出方法ってのは?」
気まずくなって先を促すと、永里はおずおず俺の顔色を窺いながら説明を続けた。
牙のようであり、爪のようであり、折れた剣のようにも見える白い象牙のようなモノを顎先で指して言う。
「その歯を使う。それは空間歯舌、いわゆるマジックアイテムだ。空間をなぞる事で二つの三次元平面を四次元的に接合して、あー、つまりワープゲートを作れるんだ」
「ワープゲートを作れるだあ? そんなのがあるなら簡単に脱出できただろ! ……いやそうはいかないからここに閉じ込められてるのか」
「話が早いね。それは私には使えないんだ。だが君なら使えるはず。強く握りしめて切っ先で空間をなぞってみてくれ」
言われるがまま空間歯舌というらしい折れた短剣のような道具を拾い、柄のあたりを強く握って空間を丸くなぞる。
すると驚くべき事に虚空に丸い穴が空いた。横から覗き込んでみると、数メートル先に同じような虚空の穴ができている。
「よしよしよし、やっぱりだ。君なら使える。見てくれ、これを使って脱出するんだ」
永里は嬉しそうに手を叩き、骨の欠片を虚空の穴に投げ込んだ。投げ込まれた欠片はもう一方の穴から飛び出し、胃液に落ちて波紋を作る。
好奇心に負けて指先を入れると、反対側の穴から指先が出た。
指先を引き抜いてぐーぱーしてみるが特に異常は感じない。
頬をつねればちゃんと痛い。夢みたいな本当の魔法だ。
こんなの見たことない。
「永里」
「ん?」
「これ欲しい。くれ」
「いいよ」
「いいのか!?」
交換条件を出されたらいう事なんでも聞こうと思っていたらあっさりくれると言う。
なぜ。やっぱり永里は狂っているのでは?
こんな俺好みの超貴重ワクワクアーティファクトを無条件で引き渡すなんて脳みそのネジが外れているとしか思えない。
「どうせ私には使えないし、気持ち悪いしね。見たくもないぐらいだよ。近くにもおいておきたくないね。
とにかくそれを使ってワープゲートを使って脱出するんだが、ゲートを開けるのは計算上5mまでなんだ。このクジラの体は分厚い。胃壁周りは7~10mの厚さがあるから、ここでゲートを開いても肉の中に出て肉圧で押しつぶされて死んでしまう。だから体皮が薄いところに移動してゲートを開く必要がある。
手順はこうだ。まず坊坂くんに第二胃に入ってもらって、」
「待った」
永里の流れるような説明を俺は途中で遮った。
色々説明してくれて大助かりだが、ずっと引っかかる部分があった。
説明そのものは恐らく正しいのだろう。
クジラの胃の結界やワープゲートは目の前で実演して見せてくれ、証拠も十分。話に矛盾はない。俺を罠にかけているようにも思えない。転んだところを助けて、親切にしてくれているし。
だが。
「なあ、色々と詳しすぎないか? どうしてそんなに魔法とかクジラとかに詳しいんだ」
「変かな? 私はここに居て長い。時間をかけて調査すればこれぐらい」
「いいや分からないね。クジラの体の厚さなんてどうやって計る? 自分が使えないワープゲートアイテム、空間歯舌だっけ? の性能がどうしてそんなに詳しく分かるんだ? 説明書がついてたわけじゃないだろ。永里はそりゃあ頭がいいんだろうさ。自衛隊のエリート、強く逞しく賢い! でも限度ってもんがある。なあ、永里はどうしてここまで詳しいんだ?」
「…………」
永里は沈黙した。
困り顔で黙り込んで、俺の顔をじっと見つめてきた。
彼女には怪しい部分が多い。未知の生物の腹の中で数カ月安定して生き延び、脱出方法まで見出したのは話が出来過ぎている。優秀という言葉では片づけられない優秀さだ。
メモ帳の怪物はなんなんだ? あれほど生き生きと描かれた妄想の産物は有り得ない。描き込まれた奇妙奇天烈な記号は?
彼女は何を隠しているのだろう。
長い沈黙と葛藤の後、永里は溜息を吐き、メモ帳を拾った。
「確かに君とは運命共同体だと言ったね。説明しておこう。つまりこれは自画像なんだよ」
永里はメモ帳の触手怪物のページを俺に開いて見せた。
「私はこの女性を凛々しく、可愛らしく、美しいと思う。人類の女性が同性に魅力を感じるようにね。ナルシストと笑っても構わない」
永里は愛おしそうに縞模様の触手の集合体の絵を指先でなぞる。
「宇宙人。異世界人。平行世界人。好きに呼んでいい、私はそういう存在だ。想像してみて欲しい、君がこういう異界の触手生物にされたとして、そのままで満足できるか? 人間に戻りたいと思うだろう?」
メモ帳を閉じた永里は堅い決意を秘めた瞳でまっすぐ俺を見つめ、きっぱり言った。
「私は元々こういう生き物だったが、人間にされてしまったんだ。だから新大陸の奥地に行き、元の姿に戻りたい。それが、それだけが私の望みだ」
永里杏
永里杏