満月
♪愛香『満月』
この曲を聴くと思い出す。
懐かしい青の乗用車。
車内には『満月』が流れる。
後部座席に座る俺。
隣にはテーマパークのパンフレットを広げる母。
運転席にはサビを口ずさむ父。
家族3人。
何気ない休日の一幕。
いつかこの日常がなくなるなんてこと考えたこともなかった。
だが10年経った今、父はいない。
9年前、父と母は離婚した。
原因は分からない。
まだ子どもである俺には理由も知らされず、その間の記憶もほとんどない。
ただ憶えているのは、父の怒号と母の充血した目。
離婚した理由はどうでもよかった。
ただ当たり前だと思っていた日常がいつの間にか失われて、心にぽっかり穴が空いたような喪失感が生まれた。
家に帰っても食卓を囲むのは二人だけ。
その日から少し耳が遠くなった。
〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
テレビをつける。
毎週放送の音楽番組。
いつもならチャンネルを変えるが、懐かしいメロディが聴こえたのでそのまま聴き入る。
食器を洗い終わった母が気になって尋ねてきた。
「優斗、その曲好きなの?」
あの頃から母が父の話題に触れることがなくなった。
まるで最初からいなかったかのように。
「いや、別に」
そんな母に『子どもの頃によく聴いた』なんて言えるわけがない。
俺は即座にお笑い番組に変えた。
母はもうこの曲を忘れてしまったのだろうか。
〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
お風呂から上がり、冷蔵庫からお茶を取り出す。
「ねぇ、これどういうこと?」
コップにお茶を注ぎながら聞き返す。
「何が?」
母が既に開けられた封筒を手渡してきた。
中身を見ると学校の成績表だった。
今日は成績書類が届く日だったか。
「これ以上点下がったら塾行かせるから」
そんな金無いくせに。
「勉強が出来ないと、お金稼げないのよ?」
「別にそんなお金欲しいわけじゃないし」
金があったら幸せなのかよ。
「お金は大切なの。優斗も結婚したらいっぱいお金がいるのよ」
結婚?お前らの喧嘩を肌で感じて、結婚に夢見るわけねぇだろ。
「お母さんは優斗に幸せになってほしいだけなの」
母さんは今幸せなのかよ。
「お母さんだって、若い頃いっぱい貯めたから今こうやって過ごせてるの」
なんでそうやって父の存在を避けるんだよ。
「離婚しなきゃもっと楽だったでしょ」
言ってしまった。
恐る恐る顔を上げると母は唖然としていた。
「ちょっと外の空気吸ってくる」
何と言い続ければいいのか分からず、瞬時にお茶を飲み干してリビングの窓からベランダに出た。
耳を澄ませると遠くの方から鈴虫の鳴き声が聴こえる。
なんで言ってしまったんだろう。
母を傷つけたかった訳じゃない。
家が貧乏なのを攻めたかった訳じゃない。
ただ……。
空を見上げると雲ひとつ無い空に満月が輝いていた。
さっきの音楽番組が中秋の名月をテーマにしていたことを思い出す。
やり切れない思いを紛らわしたくて、イヤホンをつける。
『満月』を再生した。
サビに行く直前で母がベランダに入ってきた。
部屋に戻ろうとも思ったが、より気まづくなりそうな気がしたので遠くを眺めたまま音楽を聴き続ける。
「ねぇ、何聞いてるの?」
母が自分の耳を指すジェスチャーを見せた。
「あぁ……」
俺は一旦曲を止め、両耳から外したイヤホンを渡す。
「ありがと」
再生する前に少し音量を下げた。
「再生っと……」
母は目を綴じて流れる曲を聴く。
さっきの、母はどう思ってるんだろう。
怒ってるかな。それとも……
母は少しばかり聴いた後、目を開けイヤホンを外した。
「この曲は」
そう言ってイヤホンを手渡す母の目には少し涙が浮かんでいた。
自分だけ幸せだった世界に固執してるなんて、子どもだな……。
でも……
「部屋戻るね」
母がベランダから出ていった後、イヤホンをつけ再生する。
聴こえる音は鮮明だった。