編集者萩紀夫の事件メモ
なぜかモテる陰キャの自覚なきラブコメ。
さっきからベル音が鳴っている。自分のスマホの呼び出し音だ。
アイフォンは鞄のポケットに入れたはずだ。だが、今は会社のPCの作業チェック中で手がいっぱいである。
自分のスマホの呼び出し音を聞くことは、滅多にない。つまり、連絡を取り合うような友達は少ない。仕事のやりとりなら、メールかラインか会社の内線だし。スマホに登録された連絡先の数はたかが知れている。
だから、この電話の用件は、きっと大したものではない。しばらく放っておけば、発信者は自分を捕まえるのを諦めるだろう。
ところが、電話の主はいっこうに諦めず、呼び出し音は鳴り続いた。
一体誰がかけてきたのだ?この僕に何の用だ?
前回。つまり、この電話より前にかかってきた時は、母親からだった。
その時は、仕事を部屋に持ち帰って、ひとり夜食を食べていた。かけてきた理由は、母親が僕の30と数歳の誕生日を祝うためである。
「あんた、仕事はどうなん?新しい仕事は慣れたかい?仕事辞めると聞いた時はずいぶん心配したけれど、次が見つかって本当に良かった。」
「ああ、うん。まあ、なんとかやってますよ。」
それは、僕がちょうど温めたカツ丼を口にしたタイミングだった。
誕生日を祝ってくれるというのに文句言うもんじゃないが、僕はこっそりため息をついた。母の話はきっと長い。ようやくありつけた今日のご馳走、つまりカツ丼弁当は、電話が済んで食べる頃には冷え冷えだろう。
電話口で、母親は僕を祝うと言いながら
「おめでとう」のセリフが2、3秒。
で、残りの10分以上は「早く結婚しろ。」だの「次はいつ帰るか?」だの「お前の知り合いの誰だれは結婚して子供できた。」など等、ちくちくと僕を責める話がながなが続くのだ。
まあ、こうやって誕生日を祝ってくれる唯一の存在なわけだし、有り難いと思わなきゃいけない。
この年になって、ケーキやプレゼントやキャンドルが欲しいもない。が、僕には発泡酒と、母親の「おめでどう」にかこつけた僕への愚痴と、なんとか滑り込んで手に入れた「仕事」が手元にある。ついでに冷えたカツ丼弁当付きだ。
この不景気のご時世だ。僕はまあ、幸せな方ではないか。
母親の前にかかってきた電話の用件はセールスだった。そのさらに前のは間違い電話。
そう、僕の私用スマホの「電話の呼び出し音」が鳴るのは、大抵はロクでも無い用件だ。
呼び出し音はまだ止まない。どうやら「セールス」や「間違い電話」では無さそうだ。親からかかってきた線も捨てがたい。
平日のこんな時間に?ひょっとして親戚からの急用だろうか?
僕やようやくPCから目を離し、鞄のポケットを探った。
飴色に輝くなめし皮のこのビジネスバックは持ち主の若造(この職場では年寄り扱いだが、業界人としては新人)には不釣り合いな高級品である。バックは最初の就職の際の両親の就職祝いだ。
スマホがまだ鳴り響いている。呼び出し音が切れる前に、発信者の確認ができた。
「木野理央、先生」
(やばい)
僕は一気に青ざめた。
「木野理央」は本名ではない。僕が担当している、ミステリー作家のペンネームだ。
僕は、一応編集者の肩書を持っている。ほとんど名前だけの肩書で、時々自分が編集を兼任していたことを忘れている。他にも、社内ネットワークの構築とかいろいろ技術的な仕事を受け持っていて、こっちがメインの仕事なのだが。
「木野理央先生」は僕が担当する唯一の作家である。
彼女は僕が初めて編集者を名乗ることになった作家であり、付け加えると、担当してから世に出た作品はまだない。
先生は、こちらから連絡しようにもなかなかつかまらない。たまにメールか社宛て電話がかかってくるが、滅多に連絡もこないから、最近は諦めモードだ。僕も、他の仕事で忙しいし、無駄足踏むと分かっている案件に時間を割くのは気が向かない。
そうは言っても、「木野先生」は、僕が担当する記念すべき第一号の作家さんだ。僕のスマホの連絡先に登録された人間は、上司や先生のほか数名だけ。
(プライベートに仕事は持ち込まない主義だと、僕は自分に言い訳しているが…)
先生の名前がスマホのアドレスに登録されているのは、それだけ彼女を「特別扱い」しているからだ。
まあ、僕にとっての「特別扱い」にどれくらい価値があるかは、この際置いておこう。私用メールに登録されているのは、たんに宴会の席で先生に無理やりアドレス交換させられたからだからが。
「木野先生」からこのタイミングでかかってくる電話なら、それはやはり「ロクでもない用事」だろう。だが、この電話は彼女を捕まえる、またとない機会だ。
僕は、慌ててスマホのロックを解除した。
「萩紀夫くんだよね。お願いがあるんだ。」
彼女の声を聞くのは1ヶ月ぶりだ。
前回はこちらから提案した依頼を、彼女が数日内で返信することで会話が終了したはずだった。その後、返信がないのでこちらから何度もコンタクトを試みたが、捕まえられなかった。
この声の調子と今までの彼女の行動からいって、電話の内容は僕の提案の返信でないだろう。あの提案書は時間をかけて一生懸命用意したものなのだが…。そして、実は提案について検討すらしなかったことへの「お詫び」でもなさそうだ。そんな気遣いを彼女から期待することは「諦めるべきだ」と、担当してから最初の2ヶ月で学んだ。
もちろん、僕がなかなか電話に出なかったことを、彼女は気にしてもいないだろう。こちらの都合は一切お構いなしな彼女は、いつだって「自己中」なのだから。
「はあ、どんなご用件でしょう?」
僕は急いで、頭の中に浮かんだ「彼女が却下した数々の提案の恨みつらみ」を忘却の彼方へと追いやった。取り返せない費やした時間なら、思い出さないに限る。
(俺は編集者だ。まだ実績がないので、一応ではあるが。)
これから新たな彼女のわがままな要求に応えるべく、この先の仕事がリモートで行えるように準備をしないといけない。
僕が「木野理央」の編集者になったのは半年前だ。転職してから1年半。それまでの俺の肩書は、セキュリティーシステム担当だった。
転職前の就職先は大手の家電メーカーで、白物家電を扱う技術者として働いていた。
最初に家電メーカーで働き出してからの半年間。僕は転職について本気で悩んでいた。
それに対する周りの反応は、決まりきったものだった。
「安定した職を投げ出すなんて、馬鹿げている」
僕の悩みにまともに相手にしてくれる人は、当時いなかった。
それから10年。僕はいよいよ転職に向かって本気で動き出す。
が、やはり同業者で相手にしてくれる人はいなかった。
かつての日本で栄華を誇った白物家電は、今や斜陽産業である。配属部門の行先は誰の目にも不透明であり、「先が見えている人」も「他人の心配をできる人」も、どこにもいなかったからだ。
僕がシステム担当として出版業界に再就職できたのは、ここの人間がそれだけネットワーク技術に不案内だからだろう。僕が今まで学んできたのは「新素材の家庭使用時における安全評価方法」と行った類のものだ。ネットワークについての知識は独学だし、パソコンは趣味程度に知っているだけだ。ここの人事部はそのことを見抜いていなかったと思う。
もっとも、僕は今の職場で「技術に詳しい人」として結構重宝されている。「技術」と言っても外部委託のSEとの打ち合わせに同席したり、所内のパソコンの設定を手伝う他に、ワードやエクセルの使い方がわからないと呼ばれたり。はては、コーヒーメーカーの修理をしたりする、いわゆる「何でも屋」を指しているのだが。
人生とはわからないものだ。
親元にいた学生の頃は、恋愛小説の類を両親に隠れてこっそり読むことは僕の背徳的楽しみだった。
「そんなものに時間を使わないで勉強しなさい。」とは当時よく言われた言葉だ。
そんな親不孝だった趣味が、今や飯の種になっている。
木野のデビュー作「熱海急行殺人事件」が世に出たのは2年ほど前の話だ。
これは若者読者を中心になかなかの話題作に成長した。既存のドラマとのコラボで同タイトル名のドラマが一話完結でテレビ放映までされている。今でもドラマの撮影場所が、マニアの若者相手に観光に一役かっていると聞く。
「熱海急行殺人事件」について、まず一つ言っておかなければならない。
そもそも「熱海急行」などと言う列車は存在しない。
そこは「伊豆急行」の間違いだろう。なぜ誰も訂正しなかったのか不思議でしょうがないのだが、木野先生がゴリ押ししたに違いない。
このドラマがもしシリーズ化されたら本当にそのうち「熱海急行」が走るのではないか?僕は密かにそう考えている。新型車両は厳しいかもだが、「既存の急行のプレートを付け替えてダイヤを改正する」くらいなら可能かと思う。
ちなみに、「熱海急行殺人事件」のストーリーはこうだ。
上京した「にわかリア充」が「葉山のお嬢様」を弄んだ末に、逆上した彼女に刺されて殺される。死体は「熱海の廃墟ホテル」に放置され。その事件を、若いカップルの刑事が解決する、という話だ。
僕が一押しするこの小説のくだりは「般若の形相をしたお嬢様に、にやけた男が命乞いするシーン」なのだが、これに同意してくれる同業者は少ない。
彼らによれば、ヒットの理由は、「たいして活躍しない、イケメン刑事」と「煌びやかで一途な(最後には般若になる)お嬢様」にあると同僚は説明する。
一応若者の部類に入る僕だが、この解説には納得していない。
が、ともかくヒットを受け「木野理央」のことを「売れっ子作家」と呼んでいるが、続編はでてない。
熱海急行を担当した元祖編集者は既に退職し、僕は会ったことがなく引き継ぎも書類上のものしかない。「熱海急行殺人事件」の2匹目のどじょうを狙って、社では新しい担当が入れ替わりに2人ついたらしい。2人とも「木野理央」のことを悪く言わない。「気さくで話をしていて楽しい人」というのが元担当者たち(2人とも女性)の印象だ。
木野先生は彼女たち編集担当を連れ「物語の舞台になりそうな観光地」巡りをよくしていたと聞く。メンバーの全員がこのバカにならない拘束時間を大いに楽しんだ。だが、俺の直属の上司にあたる男性編集長だけは、それを良しとしなかった。何しろ「気まぐれなで盛大なお茶会」の末に世に出た作品がまだ無いのだから。
つまり、彼女の次の担当はたらい回しにされていた。その挙句に「片手間の仕事」の一つとして編集担当が僕に回ってきたのだった。編集の肩書に浮かれていた僕は、そのことに気づくまでにずいぶんと時間を無駄にしたわけだが。
僕が納得がいかないのは、編集作業を引き受ける代わりにセキュリティーシステム担当の仕事で免除されたものが一つもないことだ。おまけに先生相手の仕事が増えたのに手当ては増えてない。唯一増えたのは「兼 編集者」と言う肩書だけだった。
「半島から見た三宅島の写真を撮ってきて欲しいのよ。誰か連れて行ったらいいわ!今時には珍しく経費で落ちるんだから、感謝しなさい!」
(なんなんですか、開口一番わけのわからない要求は。僕は今日システムのアップデートに伴う確認作業で忙しいんです!)
文句の言葉が出そうになるのをグッと堪える。考えてみれば、いよいよ作品に取り掛かる気に先生がなったということだ。希望が湧いてきた。僕は高い声で返事をした。
「半島から三宅島を眺めるって、伊豆半島から島の写真を撮れば良いんですか?どんな写真がお望みですか?(でも、海の風景素材なら、わざわざ撮りにいかなくてもネット上にいくらでも転がってるじゃないの?探すのが苦手ならググって差し上げますよ。その方が時間の節約になる。)」
最後の台詞はなんとか飲み込む。とりあえず話を最後まで聞いてみるべきなんだろう。口答えするのは、今は得策でない。待てよ、今「経費で落ちる」と言ったよな?
散々先生には振り回されてきた僕だが。ここだけの話、先生は僕のことが結構お気に入りなのでなないかと思っている。部署の誰かがこんなことを言っているのを小耳に挟んだ。
「萩さんて、木野理央先生に気に入られているよね。」
そう言ったあと、
「彼って単純で生真面目だから、先生にメッチャうまく使われているよね。」
と、その子は付け加えていたが。
先生には申し訳ないが、残念ながら僕のターゲットは年下だ。
思うに、30代はまだまだ若手のたぐいで脂が乗るのはもっと先のことだ。親をはじめとして、周りから「そろそろ身を固めろ」とせっつかれる機会も多くなったが、今みたいな独身生活には仕事と趣味に打ち込める気軽さがある。でもいろいろ言われるうち、ふと彼女や家庭が欲しいなと思うことも最近はないでもない。付き合うなら若くて可愛い子がいいな。二十代前半でも、まだいけると思う。
「モデルと一緒に写っている海辺の風景写真が欲しいの。本当は私が一緒に行きたいのだけど、ちょっと今出れないのよね。代わりに誰か別の人と行ってきて。」
電話越しに先生の声が響いた。きっと写真を見ながらストーリーを考えるつもりなのだろう。自分の撮った写真が作品のインスピレーションになるだなんて、ワクワクするではないか。
「モデルですか、なるほど。やっぱり男のコート姿は外せないですか?『熱海急行』のドラマの刑事さんが着ていたの黒いコート、格好良いって評判になりましたものね。ところで、先ほど言われた経費と言うのはどこまでカバーされますか?」
これから先生が書くものは、編集者としての僕の第一号の仕事になる。いい話を書いてもらって、それを作品として世に送り出すのだ。そのためにヒーロー役の写真モデルをすることくらい、やぶさかではない。頭の中のギアが回り始めた。
が、やや間が空いて先生は言った。
「別に君がモデルの写真は好きに撮ったら良いんじゃない?私が撮って欲しいモデルは女性よ、女の子。萩紀夫くんの周りに誰かいるでしょう?!本当は私が海岸に行ってモデルになりたいのだけど、時間が空かないから。だから、誰か代わりの子が島を見ている風景の写真を頼んだよ。」
僕は、少しムッとした。
「そんな簡単に海辺で女の子を捕まえられるわけないでしょう?3月は泳ぐ人もいないから、海辺の観光客はわずかです。それに、歩いている人に声をかけたら僕が不審者になるじゃないですか?今時は個人情報や肖像権が厳しくて…」
先生の無茶振りにはまいるが、それでも(よくわからない案件ですね)と否定はしなかった。よくわからないが先生にとっては大事らしい、と言うことがわかっているからだ。
「だから、さっきから言っているように「女の人」を誘ってから一緒に連れて行くの。交通費は2人分出るから。モデルへの謝礼も用意する。2人で行って彼女と島の写真を撮ってきて。編集長には私から説明しておく。」
ようやく僕は、用件を理解した。先生の依頼は相変わらず奇妙なうえに唐突だ。だが、この案件は今まで受けた用件の中ではちょっと楽しそうだった。なんたって「兼 編集者」の面目躍如だ。先生のインスピレーションを書き立てる最高の写真を撮ってやろうではないか!
「分かりました!日程を調整します。ちなみに、僕はむかし写真部だったんですよ。三脚もカメラも私物で良いのを揃えられます。レンズもいろいろ持っていきましょう!」
僕は写真撮影を大いに請けあって、電話をきった。こうなったら最高のモデルを連れて伊豆に行こう!写真部OBの腕がなる。カメラ機材には心当たりがある。撮影技術だってまあ悪くないはずだ。きっと先生を唸らせるような絵が撮れる。だが、肝心のモデルの女の人となると…
つまりこの場合の手順はこうだ。
・一緒に行ってくれそうな女の人を探しだす。
・その女性を伊豆撮影旅行に誘う。
・さらにその人から旅行&撮影のOKを貰う。
これを期日までにこなして全てクリアしないといけないと言うことだ。なんだか、自信なくなってきた。僕は一瞬、その女の人のモデルに「母」を思い浮かべた。先生の代わりのモデルなんだし、親孝行も兼ねて温泉旅行もいいかなとも思うが。だめだ。そんなことでは職場の笑いのネタになってしまう。いやいや。グラビアアイドルとまでいかないが、『熱海急行』のヒロイン「葉山のお嬢」くらいの年齢の女性がいいだろう。母の次に考えたのは職場のスタッフ。だが、どうもピンとこない。相談できそうな編集長は席を外している。
(これから一人前の編集者になるんだぞ!自分1人でもやれるはずだ。)
僕は思い直した。母も編集長に頼るのも最後の手段だ。思うに、気の強い女性陣スタッフは葉山のお嬢様とは雰囲気が違う。まあ正直言って、誘いづらいのもあるが…。そうなると、プライベートで探すしかなくなるわけだが…困った。とびっきりのモデルになるような子を見つけなくてはいけないのに、思いつかない。伊豆半島に僕と一緒に行ってくれそうなのは、誰だろう??
格好つけながら、スマホを通話から連絡先アプリに切り替えた。ラインの友だちリストを上へ下へと眺める。チェックするフリをしているだけだ。連絡先も友達リストも数は知れているから。頭に浮かぶのはせいぜい2人くらいか。いや、やっぱり1人しか思いつかない。
真木サワに会ったのは、居酒屋での宴会の席だった。その打ち上げには、職場のスタッフのほか木野理央先生も呼ばれていて、僕は新しい先生の担当としてお披露目された。いつになくご機嫌になり、飲みすぎた僕は気が大きくなったのだと思う。宴もたけなわになったころ、隣の席で飲んでいたグループの女の子たちを口説いていた。ナンパなんてしたことのない僕にしては珍しいことだ。その場にいた女性数名とラインを交換したが、その後、唯一やりとりが続いいるのが彼女だ。歳は、確か20代とかいっていたか。もっとも、2回ほどデートしたものの、クリスマスの予定を僕から誘うはずが直前になり流れてしまった。僕の「会えない言い訳」のラインには既読がついたきり返事は来てない。以来こちらからも連絡をせず、気がつけばもう3月だ。お互い「忙しい理由」なんていくらでもある。余計な仕事が増えすぎたせいで、あれから暇なんて全くできない。彼女とは結局、ずっとそれきりだった。
いくら思い返して考えたところで、仕事の写真撮影に猶予はない。何せ急がなくてはいけない。僕は一度伏せたスマホを取り上げ、意を決して文章を打ち始めた。人生何が起こるかなんて本当にわからない。あの宴会の席での軽はずみな行動が、今の僕の唯一の可能性を作るとは。
僕が時間をかけてようやく書けた文章は、彼女にご無沙汰の詫びを入れるでもなく、用件だけの軽い内容になった。唐突に一方的な要求である。しかも出発の日程が急ときた。あんまりかなと思ったが、迷ったのちそのまま送信ボタンを押した。こんなひどくぶっきらぼうな内容の連絡に、彼女は返事をくれるだろうか?
冷静になって考えてみたら、ダメな気がしてきた。断りの返信ならラッキーな方だろう。すでにブロック済みでも不思議はない。
何ヶ月も連絡しなかったのは僕の方なのに、勝手なもので自分が一方的にフラれた気分になってくる。僕は、現在唯一頼みの綱の彼女に無視されることを想定しておくべきだろう。同時進行で、他にもあたっておいた方がいい。
いろいろ心配する間もなく、サワの返信がすぐにきた。
「来週末ですか?その日、空いていますよ。売れっ子作家さんのための業務のお手伝いなんですね。喜んでモデルになりますよ!」
僕は喜んで、サワの優しさに安堵した。文章に添えられたスタンプのウサギが「OK」の文字を上げている。僕はスタンプのウサギの顔をまじまじと見つめる。じつは記憶が曖昧で、彼女の顔が思い出せないでいた。
次の週末、僕らは品川駅のホームで待ち合わせした。サワに会うのは数ヶ月ぶりのことだ。彼女はベージュのワンピースにグレーのコートを羽織っていて、ピンクのスカーフはフワフワだ。彼女はとびきりの笑顔だった。元気そうな彼女を見ていた僕は、仕事とはいえ撮影旅行にちょっとウキウキしてきた。今日の彼女は、いちばん素敵かもしれない。
列車がホームに到着して、僕らは「伊豆急行」に乗り込んだ。目指すは熱川駅。その先にあるのは、島の見える海岸だ。
僕は列車での移動中、持ち帰った仕事のいくつかをやっつけるつもりでいた。先生に横槍の仕事を入れられたからと言って、本来の業務を免除されたわけではない。社のデーターベースとの接続テストをして、それからクラウドにあがっている原稿の数々にひたすら目を通した。30本は今日中に判断しておきたい。隣に座るサワはそんな僕に話しかけることもなく、仕事の邪魔をしなかった。大人の対応である。そういえば、クリスマスの予定を反故にしたことを責めなかった点もたすかる。彼女はホームで買い込んだファッション雑誌を読み、僕は作家の卵の小説にひたすら目を通した。側から見たら2人のやっていることは似通って見えるのかもしれない。
今は3月の上旬。河津桜のシーズンは終わり、もうすぐ卒業旅行シーズンを迎える。特急の乗客の数はまばらで、僕らは黙って列車に揺られながら黙々とそれぞれ作業をこなしていた。小田原駅が近づき、海が見えた。ここからは海沿いをひたすら走る。目標の熱川駅はまだまだ先だ。
春の海が眩しくて目を閉じた。気づけば、少し眠ってしまったらしい。再び目を開けた時、窓際の席で目を瞑るサワの姿があった。彼女の茶色い髪は外からの光に反射して、列車の動きに合わせて揺れている。彼女の白い手は読みかけの雑誌の上におかれ、シルバーのブレスレットは光っていた。
僕らは熱川駅で降りた。海岸までは歩いていく。駅のお土産コーナーには金目鯛の煮付けがパウチに入って売られている。大きさによって値段が大きく違うわけだが。それを見た僕は、太っていて優秀だった元同僚やヒョロヒョロして再就職先に奔走する昔の仲間の顔を思い浮かべた。元同僚が特別優秀だったのは彼の目方と関係あったのかな。そんなことを考えながら、僕はどうにかここまで生き残ってきたわけだと思い返した。旅行は時間軸や見方を変えるいい機会を与えてくれる。
2人で歩いて、三宅島をのぞめる海岸についた。3月の風が冷たい。浜辺も海も広々としていたが、波乗りを楽しむサーファーが数名のほかは人影がわずかだった。俺は砂浜にカメラバックを投げ出すと三脚を立て、ホコリ臭いカメラを取り出した。
「何それ、凄いですね。」サワが珍しそうに覗き込む。
今回の撮影のために大変だったのはカメラ用のフィルムを探し回ったことだ。最後に撮影した学生の頃はいくらでも近所で手に入ったのに。銀塩カメラの時代はデジタルにとってかわり、馴染みの現象所が店じまいしていた。
いやいや、技術の最高峰はまだまだフィルムカメラにあるはずだ!次々と写真を撮ったのち、僕は大事にしまってある魚眼レンズをバックの奥から取り出す。周りのモノを広く写り込ませてしまうこのレンズを使える機会は都会の日常にはあまりない。だが、いま目の前に広がるのは、どこまでも広がるような波打ち際。
海が僕のカメラを待っている。このレンズが腕を振るうのに、またとない非日常の風景だ。
レンズを替え、リモートシャッターを試し、絞りを何パターンか試す。
僕は島とサワをモデルにシャッターを切りまくったのち、意気揚々と先生に「任務完了」のメールを送信した。
「添付ファイルが確認できないよ?」木野先生からの電話がすぐにかかってきた。
「画像の添付はしてませんよ。写真は現像してからプリントをそちらに送ります。」と答えると
「まさかフィルムカメラを持って行ったの?もう、とりあえずスマホで撮った写真を今から送って頂戴。」と呆れられた。
言われてみればそうだ。先生はフィルム写真を撮影して来いとは一言も言っていなかった。はしゃいでいたのは僕の方だったようだ。
慌ててスマホで写真を撮りなおす。サワは嫌な顔一つせずに、再び笑顔で写真に収まった。
メールに写真を添付して、先生に送る。「なかなかいい写真」と、お褒めの言葉を期待していたのに、帰ってきた返信はあんまりだった。
「ずいぶん霞がかかっているね。もっとキリッとした冬のような写真は撮れないもの?」
相変わらず先生はムチャクチャをいう。今は冬じゃないし、天候を選べる日程は与えられていない。指示が出たのはつい先週のことだ。春の半島は雲はがかかり、半島から見える島は霞んでぼやけていた。
先生好みの晴天になるまで、これから晴れやしないかと1時間ごとの天気予報をチェックした。が、これからさらに雲が増すとある。今日ここで待っていても仕方ない。今日の写真はこれが精一杯だろう。
ふと、もう一泊するのはどうだろうかと思った。天気予報によれば、明日は快晴とある。
先生に明日の撮り直しを提案すると、ラッキーなことに了承された。素泊まり分は経費で出るらしい。サワだけ帰そうかと思ったが、予定は空いているからと明日もモデルになることにOKしてくれた。宿の確保も急だったが、家族経営のこじんまりした旅館がひとつ見つかった。豪華なホテルではなくても彼女は気にしないと言う。夕食分くらいは僕が自腹でもとう。それくらいのお礼しないとサワに悪い。僕は海岸近くのホテルで夜景の楽しめるディナーを予約した。
午後から暇になったので、彼女の提案で「バナナワニ園」を見学することにした。サワはブーケンビリアのカーテンをくぐり、僕は花に囲まれた彼女を再びシャッターに収めた。笑顔である。彼女は次に「ウツボカズラ」のアーチをくぐってから、葉の変形したツボの中をチェックし始めた。
「きゃー見て見て!虫が入っているよ、ほら!」
俺はうろたえた。そんなものは見たくない。食虫植物の捕食シーンに興奮するだなんて、ありえないぞこの女…
2人して更に園内をぶらぶら歩きながらワニを眺める。ワニの恐怖にちょっと飽きてきた。園を出る頃に、サワははお土産コーナーの売店でバナナソフトクリームを買ってかぶりついた。
彼女は子供のようにはしゃぐ。僕も思いのほか楽しめた。
レストランに移動する途中で仮面歴史館に立ち寄った。館内はひんやりとしていて、壁一面が面で覆われている。案内の解説を聞きながら、一面一面を鑑賞した。笑っている面、恐怖に怯えた顔の面、不思議そうな表情の面。お面には魂が宿るという。どれも本物の人より表情が豊かに見てとれるのは不思議だ。
白い女の面がいくつも並んでいる一角があった。いちばん左が美しい顔の小面、その隣が髪を振り乱し我を忘れた面。美しい乙女が心を病み、嫉妬に狂い般若になりゆく様を彫った面々だった。いちばん右にあるのが角をはやした鬼の面。狂気はついに女を邪鬼へと変貌させたのだ。僕はその面を見て『熱海急行』のあのワンシーンを思い出す。
「葉山のお嬢様が復讐に燃えて行相を鬼へと変えるシーン」
やはり、スタッフがなんと言おうと、小説のいちばん秀逸な場面だと思う。
仮面歴史館を出てホテルの展望台へ移動した僕らは、2人してアワビの踊り食いをいただいた。火に炙られて悶え苦しむアワビを「踊っている」と表現するのはなんとも残酷な表現である。火で炙られ右へ左へと身をよじるアワビに追い討ちの酸っぱいレモン汁を振りかける。一層と激しさを増した踊りは間違い無く魂の叫びだろう。アワビに人が認識できる「面」がなかったのは幸いだった。アワビはとても美味しかった。
サワは旅行中、ずっと絶えない笑顔みせていた。そこまで喜んでくれて僕も嬉しい。しかし、いくらなんでも喜びすぎではないか??
「今日は素敵な誕生日になりました。お祝いしてくれた萩さんのおかげです。素敵な30歳を迎えられそうで嬉しいです。今だから言いますね。クリスマスは連絡くらいくれるかと思ったのに。あの時はちょっと寂しかったわ。」
サワは屈託のない笑顔を満面に輝かせた。
(これは…ちょっと。まずいのではないか?)
僕はここにきて、うかつだった自分に初めて気づいた。取り返しのないことをした気がしてきた。
彼女に何か勘違いをさせてしまったかも知れない。
「誕生日」がいつかなんて覚えてなかったから、今日が彼女にとって大事な日だと知らなかった。風景写真を撮るのは急に決まったことだし、取材日に今日を選んだのは偶然だった。実を言うと彼女の歳も今知った。
断っておくが、そしてこれは自明なことだが、僕はとても真面目な人間だ。自分をとても硬派と思っている。確かに妙な依頼内容ではあったが、ここに彼女を誘ったのは本当に業務だからであり、今だって「仕事中」だ。仕事に託けて女性をたぶらかす気などあるはずもない。彼女をこんな形で喜ばす気などなかった。誤解なんだ。
僕は固く決心した。今夜は「紳士」として振る舞い、旅館でお互いのへやに戻ったら、僕らはそれぞれの部屋で休む。僕はこのさき彼女に指一本触れない。ここで読者の期待には添えず申し訳ないが、明日写真を撮ったら彼女とはこれきりだ。彼女から連絡が来ても、社交辞令以外は返さないほうがいいだろう。
口の中が乾いている。僕はこれからどうしたものか。
萩は手のなかにあるお猪口の杯をいっきにあけると、手酌で酒を注ぎ足した。
萩の頭の中を何かががぐるぐると回りだし、人々の顔が次から次へと浮かび上がった。噂話をしている会社のスタッフ、疲れた顔の元同僚たち、近頃会う機会のない親戚の顔、学生時代のクラスメイトの笑い声。
記憶のどこかにしまってあった彼らの表情は、今や張り付いたように固定されて、面となって萩の目の前に陳列される。深く広がる、ひんやりとした世界を作りながら。
お面の数はさらに数を増し続けた。『熱海急行』を演じた役者のヒロイン、黒いコート姿の刑事や苦悩に顔をゆがませる令嬢。それに、居酒屋で出会った女たち、その輪の中には僕に微笑みかけるサワの姿がある。記憶の一角を占めるのは、浮かんでは消える、おんな、オンナ、女の顔。
その目は僕を見つめたり、はたまた無視して前を通り過ぎたり。僕に微笑んでいるように見えても、どこか冷たい目。そう、彼女らに惹かれながらも正直な話、僕は女というものがよくわからない。
ふと、恐ろしげな鬼の顔が目の前に浮かんだ。さっき仮面歴史館で観たあの面だ。
そういえば、鬼は元々とても美しく可憐な少女なのだ。
「どうしたの。ねえ、だいじょうぶ?」
話しかけてきたのは、サワだった。萩はぼんやりと彼女を見かえしたが、心の中はざわついたままだ。サワは心配そうに顔を覗き込んでいる。その手にはおしぼりを持って差し出す。
自分がひどい顔でもしているのかと思ったが、どうやら違うらしい。いつの間にかお猪口を落として、酒をこぼしていたようだ。
「酔っているんじゃない?飲むのはそれくらいにしておいたら?明日も仕事でしょう?」
ドジ踏んだのは、僕が飲み過ぎたせいと彼女は思っているようだ。
何を言っているんだ?酔ってなんかいないさ。ちょっとこの状況に動揺しているだけだ。
萩はお猪口を拾った。徳利を傾けたが、酒が出てこない。ようやく、全部飲んで空であることに気づいた。
でも、ちょうどいいタイミングだ。早くここから抜け出そう。
「食後のデザートは、まだだったかな。」
そう言いながら、萩はウエイターを呼ぼうとして、今度は徳利を落とした。
自分の右手が震えている。
「もう、部屋で休みたい。」
自分の顔から消えた笑顔は取り繕れないままでで、表情はこわばっている。仕方がないので、海を見下ろすフリをして、彼女から顔を逸らそうなどと考えた。萩は右手の震えを左手で抑えながら立ち上がる。ホテルは海側に面している。
「レストランの窓から見下ろす海の景色は、さぞや綺麗に違いない。」
日は沈み、辺りは暗くなりかけていた。美しいオレンジの雲の筋。空との境が曖昧になる海岸線。サーファーは、もう帰ったようだ。海岸に人影は見えない。沖でチラチラと光っているのは漁船だろうか。人のいない海岸には波が打ち寄せては返し、ごうごうと音を響かせている。
ふと見下ろせば、波打ち際に黒い影のようなものが漂っていた。岩場から剥がれて流れついた海藻か、ただの錯覚か。影はまるで、ドラマのイケメン刑事の着ていたあの黒いコートのようではないか。
その影は遠目に小さくてハッキリしない。萩はその黒い影に目を凝らし見続ける。他にするべきことが思いつかないからだ。
血の気が、すうっと引いた。あの影は、やはり海藻ではない。
萩は飛び上がり、慌てて声を上げながら海岸に走り出していた。行きがけにホテルの従業員に叫けぶ。
「人がいる、海に人が。人が波に漂っていて、動かない。」
やがて人が集まり、周りが騒然としはじめた。
誰かが救急車を呼び、やがてパトカーも到着した。
黒い影は、海藻でもただの服でもなく、コートを着た男だった。到着した警察官が人払いをしたため、顔はよく見えなかったが、若い男のようだ。結局、彼は助からなかった。
救急車が男を残して引き払い、現場を追い払われると、萩は手持ち無沙汰になってしまった。
今日1日の出来事が、酔いとともにすっかり吹き飛んで、萩は自分が出張中だったことを思い出す。とりあえず会社に電話をかけると、幸い編集長が出た。スマホとは、このような緊急時にこそ役に立つ使い方をするものだ。
「海岸で仏さんが上がったようです。」
そういいながら、萩は自分に舌打ちをした。
まるで刑事ドラマのセリフじゃないか?他に、もっとマシな言い方ってものがありそうなのに、慣れ親しんだ表現だからつい口に出てしまう。
電話口の編集長は僕の話が冗談ではないことを何度も確かめた。
ようやく納得すると、今度は興奮を隠せない口調で聞き返してきた。
「殺人事件か?」
(もうちょっと言い方ってもんがあるでしょう?人のことをとやかく言えませんが)。
僕は亡くなった若い男に心底申し訳ない気持ちになった。
「ちゃんと取材してこいよ。こんなこと滅多にあるもんじゃないから。」
心の中では編集長に反抗を試みたが、結局他にすることも追いつかないので萩は男の死について取材することにした。
(殺人事件の小説の取材に行って本物の死体を見てしまう。なんてベタな設定なんだ。人が死んでいるんだぞ!俺より若くて将来のあった男が死んだ。
こんな若くていい男死ぬなんて、一体何があっだんだ?)
サーチライトに照らされた若い男の亡骸を前に、警察は事務的にテキパキと作業を進めている。入れ替わり人が呼ばれてご遺体の前に近づき、手を合わせては遠巻きに輪を作った。観光客を除いては皆、男が誰だか心当たりがあるらしい。みな集まって何か話をしている。
亡くなったのは、この辺に住む男だったのだろうか?住民らしき人たちは詳細を教えてくれなかったが、萩はなんとなく彼らの周りにいて、様子を伺った。「ああ」とか「本当にね」と言った声に混じり「自殺」という言葉が聞こえてきた。
単なる不幸な事故だろうと想像していた萩は、「自殺」という言葉に面食らった。
(自殺?あんな若い男がなぜ?)
「自殺」と言う言葉を聞いて、萩の感覚が再びコントロールを失って回り出す。加えて、止む事のない波の大音量を聞き続けたせいだろうか。萩の中のタガが暗示にかかったように簡単に外れる。気付けば、萩は半狂乱で夜の暗い海岸を彷徨っていた。
「どうして逝ってしまったんだ。若い君が自分から未来を立つほどの理由はなんなんだ。どうしようもなかっただなんて、そんなこと無いはずだ。何か答えてくれ!」
萩は、暗い海に向かって叫んでいた。
どれくらいの時間ここにいたのか?遺体は既に運び出されて、すべてはきれいに片付けられていた。海岸に残っている者はいない。男を弔うものもいない。
自分に死んだ男を投影させて、海に吸い込まれそうになる。一歩、また一歩沖に向かって歩いていく。ズボンが波にあらわれて、砂に埋まった足が重くなった。疲れて膝が折れると、打ち寄せた波に胸まで叩きつけられた。僕は、身を投げた男の魂を呼び戻しにきたのだろうか?それとも、自死した昔の恋人の魂に呼ばれたのだろうか?
僕が今の半分の年齢の17歳の時、高校2年生の僕にとびきり可愛い彼女ができた。しかも告白してきたのは彼女の方だった。彼女との2人の時間は夢のように過ぎていき、実際それはあっという間だった。2人で一緒に帰るようになってから2週間経った頃、僕は繋いだ彼女の手を引き寄せてキスをしようとした。彼女ははにかむと、僕の手を解いて行ってしまった。2人きりで会ったのはそれが最後になった。次の月に彼女は引っ越した。親の都合で急に決まったことらしい。
引っ越し当日、実は僕はこっそり彼女の家を訪ねている。家の前まで行くと、彼女が家族に混じってテキパキと動き回るのが見えた。泣きそうな彼女の顔と青白い頬。僕は遠くから眺めただけで、結局そのまま何も伝えずに帰った。いつかまた会えると信じて。またいつでも会えるとすら、その時は思っていた。
成人してから久々に同級生と飲む機会を得て、僕はその時に彼女が既に亡くなっていたことを知った。彼女がどうして死んだのかも分からない。「自殺」らしいとだけ聞いた。
彼女と過ごした若い時間は駆け足で通り過ぎた。僕らが束の間付き合っていたことを、同級生の誰も知らないほどに。そして、彼女はあまりに慌ただしく人生を終えた。彼女は、自分で人生を終わらせた。
僕の名を呼ぶ声がする。何度も何度も僕に向かって呼びかける。海の方から聞こえてくるのは、彼女の声か、亡くなった男の声か?
波は容赦なく轟音を響かせては叩きつける。
呼びかける声も、波の音のように鳴り止むことがない。
だが、声の主は近くにいて実体があった。なのに姿がよく見えない。夜の海は暗すぎるのだ。
声の主は俺の袖を掴むと、僕を力一杯引っ張っていった。ホテルのエントランスまで力ずくで連れてこられた時、明かりの前でようやくその姿をみとめた。僕は声の主をぼんやりと眺める。
青ざめて焦るサワの姿がそこにあった。僕は自分の状態が異常であることを彼女の表情を通して理解した。
「自分の命を大切にしないなんて、生まれてきた自分がかわいそうじゃないか。どうしてもっと、大切にしない?何も言わずに1人でいってしまうんだなんて、あんまりだ。」
僕はずぶ濡れになりながら、嗚咽していた。
気づけば、萩は知らない部屋にいた。そこは、今夜予約していた旅館だった。扉の向こうに、見覚えのあるズボンとシャツがハンガーに吊られている。シャツとズボンは誰が洗ってくれたのだろうか。サワが?僕は、サワの好意に甘えて丸くなって目を閉じる。灯りは僅かだ。
カーテンを引いていない部屋は、ガラス一枚隔てて黒い海の世界へと広がり、黄泉の世界へと繋がっている。サワが僕に言ったことは正しかった。きっと僕は、飲み過ぎたんだ。
ブレスレットをつけたサワの手が、僕の背中をさすってくれる。僕はサワにキスをしたようだ。「ガツン」と大きな音が頭に響いて、歯と歯が当たった音がした。手と首が、白く光を反射しているのが見える。背中をさすっていた彼女の手を取り、耳元で意味をなさない何かを呟く。僕は何をしているのだろう。見上げる彼女の瞳は揺れている。これはきっと、愛を囁くと言うことだろうか。
彼女のうなじを見つめた。ただそれだけ。
視覚刺激は拡散を始める。視覚から触覚へ、聴覚へ、味覚へ。指で触れ、唇で触れる。女というものは恐ろしい。僕の知らない僕の身体を知っている。僕の意思で制御できるのは、触れるその前まで。そこから先は意味をなさない。
つぎに目覚めると部屋はすっかり明るかった。昨夜カーテンを引かなかったのだろう。
体が硬い。首をひねると、僕の隣に微笑みながら眠るサワの姿があった。
(これは、とてもまずい状況だ。)
サワが目を覚ます。口元をほころばせながら、僕を見つめる。
僕は聞かずにはいられなかった。
「僕、君に何かしたかしら?」
次の瞬間、サワの表情が一気に曇った。
(やばいぞ。とにかく、謝らないと。)
「ごめんね、本当にごめんね。僕、ちゃんとつけたかな?」
彼女は呆気にとられ、次の瞬間、完全に怒り出した。
(どうしよう。昨夜何をしたんだっけ?こんな時に、精一杯の誠意とは、どうやって示せばいいのだろう。)
「もし万が一のことがあったら。ちゃんと僕、全部責任を取るから。」
彼女は泣きながら平手で僕の頬をぶっ叩いた。怒りはそれでもおさまらず、リモコンが飛んでくる。それから、部屋にあったあらゆるものが飛んできて、ついには浴衣一枚で部屋を追い出されてしまった。
身体とは正直で困ったものだ。こんなに酷い状況だというのに、頭はいつになくスッキリ冴えている。
部屋に入れてもらえないので、仕方なく温泉に入ることにした。その間に、彼女が落ち着いて機嫌を直してくれたらいいのだが。
1人朝風呂を浴びながら、さっきよりもマシな、お詫びのセリフを用意する。しかし、部屋に帰るとそこにサワの姿はなく、荷物もなくなっていた。
スマホが鳴った。サワかと思って慌ててでる。
それは彼女からでなく、編集長からの電話だった。
「天気は快晴かい?今日こそは、いい写真は取れそうかい?」
(サワは…モデルは、多分もう帰ってこない。)
「助けてください」
僕は編集長に全部ぶちまけると、ついには泣き出してしまった。編集長は黙っていたが、気体が爆発するような破裂音が聞こえてきた。なんの音だろうか。
今朝は1人、海岸に出た。海はスッキリと晴れ渡っていた。きっと先生が満足するような風景写真になるだろう。モデルがいないことを除けば…。三宅島新島や大島ははっきり映っている。
仕事がまだ残っていた。取材の続きをしようと警察官に尋ねたが、あっさり袖にされてしまった。
何事もドラマのようにはいかない。とりあえず出来る限りのことをすることにする。
これで何度目かのシャッターをきり、撮り終えたフィルムを郵送で現像所に送る。宛先を先生の家に直接届くよう指定した。
郵便を送って店を出ると、お土産屋の前でコーヒーを飲んでいるおばちゃんと目があった。
彼女には、見覚えがある、昨日の現場の輪の中にいたひとりだろう。おばちゃんは僕を認めると、向こうからこちらに近づいできた。僕は引っ叩かれて腫れたた左頬を隠すように左を向きながら、おばちゃんから話を聞くことにした。おばちゃんの話の内容は、僕の取材力なんて吹っ飛ぶくらいの圧倒的情報量だった。
亡くなった男は地元の人間で、一人娘を海の事故で亡くしたらしい。その後、離婚して精神を病んでしまい、男の地元である東京に身を寄せているはずだったこと。男の実家は、聞き覚えのある地名だった。そうだ、先生の住んでいる街じゃないか。一通り話し終えると、おばちゃんは最後に僕に聞いてきた。
「昨日一緒にいた彼女はどうしたの?」
僕は唾を飲み込む。
おばちゃんは優秀な情報屋だ。人は働きに対して報酬を受け取るべきだと、僕は常日頃考えている。だから、おばちゃんが望むような話をでっちあげることにした。
「実は彼女と式場を探しているんです。神式でのお勧めはどこですか?」
「それなら来宮神社がいいわよ。きっと素敵な式になるわ。」
おばちゃんは、まあるい顔をして満足げに答えた。
暗くなるまで歩き回った僕は、荷物をまとめに旅館に帰ってきた。少しだけ期待していたが、サワはやっぱり旅館には帰ってない。帰りの急行列車に乗り込んでから、僕はようやくスマホを立ち上げた。着信履歴が2通。サワからではなく、先生から電話だった。話をする気になれなかったので、先生の電話にずっと出てなかったのだ。先生の方からかけてくる、しかも2回も。とても珍しいことだ。
僕はメールで、箇条書きにおばちゃんからの情報を送信した。
「お菓子のお土産を2つ帰ってこい。」
先生から返信が返ってきた。
次の日曜日、僕は指定された駅にお土産の一つを持って先生を待った。もう一つのお土産は、すでに会社でスタッフに配ってある。先生は喪服姿であらわれた。先生の後についていくと、ついた場所は、自殺した若い男の実家だった。
どうやって家を知ったのかといぶかったが、お悔やみ欄を調べて年齢と日時と場所で当たりをつけたという。皆の情報収集能力には目を剥くばかりだ。自分がいろいろと情けなくなってくる。
男の成仏を祈って、仏壇に一生懸命手を合わせる。男の写真の隣には、小さな女の子の写真が飾ってある。僕が聞いたおばちゃん情報は、半分正しかった。
男は2人姉妹の父親だったそうだ。父親である彼が子供たちを連れて3人で海辺に遊びに行った時、小さな妹が波に流されて亡くなったという。男はよく海を散歩していた。結局、自殺だったかは分からない。遺書はないから、波にさらわれた、単に事故による水死かもしれない。
弔問を終えて、先生と二人で近くの喫茶店に移動した。編集長が先に来て待っている。先生に合わせて、これから仕事の打ち合わせだ。小説の方で進展があるのだろう。編集者の僕としては、いい傾向だ。
「葉山のお嬢様の過去を書くことにしたわ。被害者に会う前の、純粋で幸せだった頃の彼女の話よ。」
(それはいいかもしれない。お嬢様の幸せだった時代。般若になる前の。読者はそこで本を閉じ、先を読まなければいい。そうすれば彼女は永遠に輝いたままだ。)
先生は鞄から封筒を取り出すと、写真を机の前に広げた。現像所から先生の家に届けられた、僕が撮った写真の数々だった。
「どれも本当にいい写真ね。これとこれと、ここの写真を私がもらうわね。あとは萩くんにお返しするわ。」
写真から顔を上げると、先生はちらりと僕を覗き込んだ。心なしか憐むような、同情するような目をしている。
隣で座る編集長は、明らかに口元に抑え切れない笑いを浮かべている。目も笑っているようだ。
僕は、はたと悟った。ポーカーフェイスを装いながら。
(編集長、僕とサワのことを先生に喋ったでしょう。それってひどくありません?)
先生は言葉を続ける。
「来宮神社には行ったの?大楠が有名なのよね。電話が通じなかったから何度か旅館に問い合わせたのよ。フロントのおばちゃんが人づてに聞いた話だと、あなたのことを教えてくれたわ。」
(おばちゃんの情報拡散力、恐るべし!彼女は主役級の大活躍だ。力量が凄すぎて、却ってお話の信憑性が成り立たないかもしれない。)
僕の前言を撤回しよう。
(人は働きに見返りがあるべきだが、報酬は金品にすべきだ。のちのち誤解や、あと腐れのないように。)
僕は、もうここを出たい。このあと、行くあてはないけれど。幸い山ほどある仕事が僕を待っている。
僕は目の前に広げられた写真を片付け始めた。
自分が撮った写真に目をやる。光り輝く海、ぼんやりした風景に浮かび上がるサワの笑顔。笑顔、素敵に輝く笑顔。俺とのツーショット写真もあった。
(いつ、こんな写真を撮ったっけ?)
まるで恋人のように風に戯れる二人。2人とも、とても幸せそうじゃないか。
僕は中座すると、アプリを立ち上げてサワに送信することにした。
「とても楽しかったです。もし許してくれるなら、僕との旅行にもう一度付き合ってくれませんか?一緒に行って欲しい神社があるんです。」