人の心
「なんかいい事でもあったのか?」
「あら、わっかるー?」
帰宅したカズハに声をかけるヒシバはいつも通り夕食の支度をしてくれている。
成長がようやく止まったせいもあってカズハは彼に合わせたエプロンなんかも作ってあげたのでそんなものを当たり前のように、そして嬉しそうに着けて台所仕事をするヒシバは何となく可愛い。
料理の方も最近腕を上げたな、とカズハも目を見張る出来栄えだ。
程よく焼けた肉には深い味わいのソースがかかっていて、これは葡萄酒にも合いそうだ。……っていうかこのソース、あれだな、こないだ開けて飲みきれなかった葡萄酒使ってるんじゃないかな。
グラタンの作り方をカズハが教えたおかげで野菜たっぷり、チーズたっぷりのグラタンもオーブンから出てくる。
スライスした昨日のパンにはニンニクを一旦擦り付けてからバターを塗ってカリカリに焼いてあるので焼き立てでないことは全く気にならない。
カズハが気に入っているサラダはフレッシュ野菜よりも温野菜であるというのもよくわかっているらしい。
「ほい、葡萄酒の新しいやつ。明日休みだろ?」
「わ! 何? 買ってきたの?」
綺麗な赤紫の葡萄酒の瓶がトン、とテーブルに置かれてカズハの目が輝いた。
凄いな、こういうのかんっぺきな主夫というのよね!
「飲み過ぎるなよ」
悪戯っぽい視線を送ってくるヒシバに「ちゃんとセーブしてるでしょ!」とカズハが口を尖らせる。
「うん! 美味しいー」
出来上がっている料理はどれも美味しい。
カズハが葡萄酒の入ったカップを傾けながらちょっと深めの息を吐く。
ついでに今日あった出来事も話して。
つまり、総司令官と一緒に昼食を食べたことだ。
おかげでなんだかやけに気分がいいし、すっきりしたような気がする。
「そうか、よかった」
「何、どっちが?」
ふわふわした気分のままカズハがヒシバに尋ねる。ヒシバはうっとりと目を細めてカズハの方を幸せそうに眺めている。
「うん?」
ヒシバの問いはどことなく甘い。
「だから、美味しいって言ったのと今日総司令官様と話をして楽しかったって言ったのとどっちに『よかった』?」
こてん、と首を傾げるカズハに。
「……この酔っぱらい」
ヒシバはさらに笑みを深くした。
ふわふわしたまま食事を終えて、ふわふわしたまま寝室に入ったカズハの後ろから黒猫がついていく。
ベッドに倒れ込むように寝転がるカズハはそれでも酔いつぶれているわけではなく、ただただ楽しそうだ。
ベッドの上でころんと転がりながらベッドに飛び乗って来た黒猫を楽しそうに眺める。
「……うふふ。なんだかね、話を聞いてくれる人がいるのって、本当にありがたいんだなぁって思ったら嬉しくて。もちろんあなたがいてくれるのも嬉しいのよ?」
そう言うとカズハが手を伸ばしてヒシバの白い額の模様を撫でる。
黒猫は機嫌良さそうに喉を鳴らし、横になったカズハの頬に頭をすり寄せてくる。
「私って結局とっても幸せ者なのね。いつもそばにいて理解してくれるヒシバがいて、そのヒシバはとっても素敵な人になって守ってくれるし、美味しいご飯も作ってくれるし……気持ちの行き場がないなぁって思う時には今日みたいに話が通じる人が黙って話を聞いてくれるでしょ? こんな風に満たされるのって……贅沢だわ」
「……にゃう」
くたっと気持ちよさそうに力尽きたカズハの隣でヒシバは小さく鳴くと寄り添うように丸くなった。
カズハの寝息が安定し始めてしばらくして。
黒猫がベッドの上で頭を上げた。
ふい、と開けっぱなしのドアの方に顔を向けてその向こうにまだ明かりがついていることに気づく。
ふう、とため息のような息を吐いて、むくりと起き上がり、一つ伸びをしてベッドから軽やかに飛び降りると、そのまま人の姿になり……寝室の外へ。
「……美味そうに飲んでたな……」
ぼそりと呟くと、先ほどまで座っていた自分の席に座り直して空になったカップにまだ瓶に残っている葡萄酒を注ぐ。
「ちゃんとセーブして飲む」と言っていた通り、カズハはカップに二杯飲んでそれ以上は勧めても飲まなかった。
あれが彼女の限界なのだろう、とすぐに分かった。本人曰く「これ以上飲むと、美味しいからじゃなくて勢いで飲んじゃうがらお酒に失礼」なのだそう。
「……相変わらず面白いやつ……」
そう言いながらヒシバはカップに口をつける。
口元には穏やかな笑みが浮かんでおり、黒い髪が動きに合わせて肩からはらりと落ちた。
これが酒場であったなら女性が……場合によっては男性でも放ってはおかないかもしれない。
一人で飲んでいる割にはとても楽しそうにヒシバはカップを口に運び、笑みを浮かべる。
帰宅したカズハが楽しそうだと反射的にこちらも嬉しくなる。その逆も然りだが、やはり楽しそうに帰ってくるカズハが一番同調しやすい。自然にこちらも暖かい気分になるのだ。
カズハは普段、比較的心が固く閉ざされているタイプなのだと思う。
大抵の人間は思ったこと、感じたことがすぐに心に表れる。聖獣の能力の一つとしてそうやって心が映し出す当人の感情は余すことなく感じ取ることができるのだ。
なのに、カズハの心は読みにくい。
時々心が見えなくなるのは……たぶん何かで塞ぎ込んでいる時だ、とは思う。
うっかり目を離すとついさっきまで水面に浮かんでいた小さな花びらが、一瞬で暗い水の中に沈んでしまったかのように見失ってしまうのだ。
水面に残る波紋を頼りに心のありかを探そうと細心の注意を払っても、見つけるのが難しい。
そのくせ、当たり前のように笑って見せるのだから……本当に手強いと思う。
何かを隠しているような笑顔ではないのだ。本当に笑っているように見える笑顔で笑う。……あれは、自分で自分を騙してさえいるのではないかと思うほどだ。
だいたい。
ここまで周りから理解されない環境で生活しながら何が「贅沢」だ。何が「幸せ者」だ。
もっと上手く生きて行けばいいのに、とさえ思えてしまう。
でも、そんなふうに言ってふにゃりと笑うカズハの笑顔はそれでも……本物だった。
今日は、きっと彼女にとって普段抱えている脆い心を癒してくれるとてもいい息抜きの機会だったのだろう。
そんな機会に恵まれたこと自体は本当に喜ばしいことだ。
そんな話を聞くにつけ、自分の心もほっと一息ついたようで、気持ちが和らいだ。彼女の心がいくらか緩んで、あたたかさがじんわり伝わってくるようで、嬉しくて話を聞くことに専念してしまった。
しばらく前、夜の公園を今にも泣きだすんじゃないかと思うような顔をしながら通りすぎていく彼女を見守っていた日のことを思い出す。
まだ心を感じ取ることなんかできない筈のチビだったオレでもあの顔を見たら容易に想像できた。
ひどく沈んだ顔色はまるで涙を堪えてでもいるかのようだったが……そのくせ絶望している訳ではなく、何かを嘆く訳でもなく、ただ辛いことに耐えながらじっと嵐が過ぎるのを待っているような、そんな……どこか強い目をしていた。
ふと。
昔、我が主人が人を好きだと言った理由の一つを思い出したのだ。
『人間ってさ、弱いだろ? あんな脆弱な生き物がさ、あの敵に立ち向かうんだぜ? で、自分の大切な人を失ってもなお仲間の為に闘おうとなんかするんだ。何処にそんな力があるって不思議に思えるくらい、強かったりするんだよな』
そう言って笑う主人は『だから俺はそんな人間を守ってやりたい』とも言っていた。
最初は人間になんか興味はなくて、気高い竜族を支えるための聖獣であるということに誇りを持っていたのに、いつの間にか人間の弱さの中に秘められた心の強さに惹かれるようになった。
カズハを見た時に真っ先に思い出したのは久しく忘れていた亡き主人のそんな言葉。
そして、彼女の心を思うとどうしても寄り添いたくなったのだ。
今は亡き主人に「オレもあなたが惹かれると言っていた心の持ち主を見つけましたよ」と言いたくなったのだ。
ふと、開けっぱなしにしている寝室のドアの向こうで、ベッドの上で丸まるようにして眠っているカズハに目をやる。
ちょうど窓にかかったカーテンが開いていて月明かりが入っていて彼女の周りがふんわりと明るい。
そんな光景に目を細めながら。
「その総司令官様とやらじゃなくてオレが全部癒してやれたらいいんだけどな……」
柔らかい呟きは、小さなため息に混ざるようにして消えた。




