まずは足場固め
朝ご飯を食べて片付けて、簡単に家の掃除をする。
借りた家は小さくて、寝室と、ちょっとした居間があり続きの台所がある。一応もう一つ小さい部屋があってここは本来は客室として使われる部屋であろうと思ったけれど当面は趣味の作業部屋にしようかな、と裁縫道具や少しずつ溜まってしまった布地やリボン、釦などをしまっている。
一人でやっていくことを考えると、こんな可愛いサイズの家に住めるというのはラッキーだと思う。大きい家は掃除や手入れが大変だ。
多少ドアの建て付けに緩みが出ていたり窓枠に傷みが出ていたりとかはあったけど、昨日のうちに大体直した。こういうものは早めに直してしまえば簡単な手入れ程度の労力で済む。
というわけで。
「出かけよう!」
小さなお城を後に、今後の生活圏を探検に出かけるというのは楽しい。
カズハはドアに鍵をかけると颯爽と歩き出した。
「こんにちは。すごくいい匂いですね!」
家から一番近い場所に小さなパン屋を見つけてカズハが声をかけると窓から人の良さそうな男が顔を出した。
店内にパンを並べているタイプの店ではなく、店についた大きめの窓で店主と対面して必要なものを買うタイプのパン屋だ。
こういうタイプのパン屋は色々な種類のパンがあるわけではなく、毎日の食事で食べるベーシックな数種類のパンだけを扱っているので客が品物を見ながら選ぶという必要がない。
「ああ、こんにちは。あれ、この辺の人?」
五十代くらいの主人が笑顔で答えながらカズハの顔をまじまじと見る、ので。
「はい! 移住してきたばっかりなんです。この通りの外れに家を借りました!」
思いっきりの笑顔を作って答えると主人の顔も綻んだ。
うん。こちらの笑顔が本物であれば、笑顔は伝染するものなのよね。
なんて思いつつ、カズハは顔を出してくれた主人の様子を一瞬で窺う。
手に粉がついているということはないから、今パン生地を作ってるとかではなさそう。窓枠に肘をかけてリラックスした雰囲気なので仕事の邪魔をされたと苛ついていることも、ない。むしろ会話を楽しむ余裕がある人、と見た。
まぁ、朝食時を過ぎたこの時間帯ならお客もひと段落して、昼食用に買いに来るお客のために次の仕込みをする前の空き時間のようなものかも知れない、という読みもあったのだが。
母親に言われたことを意識していたせいなのか、人付き合いにおいて相手に不快な思いをさせないように気を付けるのはもはやカズハの通常運転で、無意識のうちに観察して結論付けた言動は癖になっている。
ちなみに「すごくいい匂い」と言ったのはカズハ的にはあえての挨拶言葉。オーブンがフルで稼働している時間帯ではないので本格的に外までパンの匂いが広がっているわけではなかった。でも、お店の人が喜んでくれそうな最初の一言を考えたらああなったのだ。
もちろん、控えめではあっても店の前はパンの匂いがしているので嘘ではない。
「ここのお店の一推しってなんですか?」
笑顔のままさらに一歩近付いたカズハがそう尋ねると店主の口元が得意げにちょっと引き結ばれた。
「どれも美味しいよ。うちで作ってるのは山型パンと丸パンとバター入りのパンだけだけどね」
「わー! やった! いいお店見つけちゃいましたー!」
つられるようにカズハもにっと笑いながら答える。
山型パンは四角い型に入れて焼いたパンでスライスしてサンドイッチにすることが多いパン。バター入りというのはちょっとリッチな柔らかいパンで、そのまま食べて美味しいので食卓に並ぶ一般的なパンだ。
「……で、丸パンって?」
聞き慣れない名前にカズハがちょっと間を空けて尋ねると。
「ああ、これだよ。ほら」
と、主人が一旦顔を窓から引っ込めてから手に持ったパンを一つ見せてくれる。
表面に粉がついた丸いパンは店主の手のひらにすっぽり入る程度のサイズで。
「わ! なにこれ、初めて見ます!」
目の前に出されたパンに鼻がくっつくんじゃないかというくらい顔を寄せてカズハが声を上げた。
粉の下に見える焼き色はしっかりした焼き色でパリッとしっかりしていそう。しかも何か粒々が入っているように見える。
「少し硬めに焼き上げているんだ。中は柔らかいよ。あと、穀粒が混ぜ込んであるから噛み応えもあって美味しいんだ」
パンというのは柔らかくて滑らかなものというイメージしかなかったカズハは途端に目を輝かせた。
「……買います! まずは一つください!」
ごくん、と喉を鳴らしてしまってから顔を上げて言うと主人がぷっと吹き出した。
「いいよ、これ一つ試食用にあげるから食べてごらん。これは朝の売れ残りだからね」
「え、でも……お昼に来るお客さんが買うんじゃ……」
「昼用にはまた新しく焼くからいいんだよ。うちの奥さんのこだわりでね。せっかく店で売るんだから買いに来た人がなるべく焼きたてを買えるようにしなきゃお金を出す人に申し訳ないってさ」
「えー、うわー! 奥様って良い人ね! それに、ご夫婦でとっても仲良しなんですね!」
差し出された一つのパンを両手で受け取りながらカズハが思わず尊敬の眼差しを向けると、店主が得意げな照れたような笑顔になる。
「あんた、面白いな。初めての客でこんなにいろいろ話していく人なんか初めてだよ」
「えーそうですか?」
ああこのご主人、実は話好きだな。と思えてならないのでカズハは相手の話に耳を傾けるべく受け取ったパンはその場で食べ始める、を決め込む。
パリッとした手触りのパンは思ったよりずっしりとしていて朝ごはんを既に食べた身としては少々多いように思えるが、好奇心がそれを上回る。
端をぎゅっとちぎると意外に中は柔らかそうだ。
「この辺は新しく移住してきた人間が多いからな。慣れない土地ではどうしても猜疑心みたいなもんが出るだろ。だからこういうところでは必要最低限のやりとりしかしないもんなんだよ」
そんなことを話す店主はちょっと寂しそうで、せっかく沢山の人と会話ができる仕事なのにもったいないなー、なんてカズハも思う。で。
小さく頷いて見せながら「いただきまーす」と小さく言ってちぎったパンを口に運ぶ。
と、途端に良い香りが口中に広がった。
「ん!」
噛み締めると粒々に噛み応え! さらに味が深い!
目を丸くして訴えるカズハに店主が口元を歪めた。笑い出しそうなのを我慢しているのと、思った以上の反応に照れ臭さを隠しきれないのが滲み出た表情だ。
「ああ、その顔、うちの奥さんに見せたいな。そのパンを売り物にしようって言い出したの奥さんなんだ」
くくくっと笑いながら店主が身を乗り出す。
ので。
「……美味しい! 私このパン大好きです! いや、これは絶対買いに来ますね。今日はこの辺で今後買い物に使うお店を探そうと思って出歩いてるんですけど、ここはパンを買う店決定です! もう、奥様にありがとうございますの気持ちでいっぱいです!」
「あはは。大袈裟だなぁ。でもお気に召していただけて良かった。うちの奥さんにも伝えておくよ」
そんなやり取りをお互いに楽しんだあと、カズハは店を後にした。
あのパン屋は発見だったな。うん、私、本当についてる!
そう思うとついニヤニヤしてしまう。
そしてそんな気分で回りを見ると全てが美しく見えてしまうのだ。
芽吹きの季節も深まって、そこかしこの街路樹がキラキラした若葉をつけている。
道の両側には小さな店がいくつか並んでいて食料品の買い出しにもとりあえず困らなそう。
必要最低限な物の店だけでなく、ちょっとした雑貨屋とか食べ物の露店まであって楽しそうだ。
前にいたハザルはどちらかというと貧しい町だったし、生活必需品さえあれば贅沢は誰も望まない、というご時世だったからこんなふうにいろんな店が並んでいるというのはなかなか見なかった気がする。
そして。
「……わ。公園発見!」
ぷらっと歩いていた通り沿いに公園の入り口らしきものを発見してしまった。
浮き足立って中に入っていくと。
「……けっこう広い……!」
入り口が小さかったのでちょっとした、近所の子供が遊ぶ程度の広場かと思いきや、中に入ってみると案外広い。
大きな花壇があって、視界を遮らない程度に木が植わっており、奥の方には……あれ、池かな。そして芝生の広場では子供たちが力一杯走り回って、その周りで談笑する大人たち。木々の間を縫うように作られた小径には白い綺麗な砂が敷き詰められていて年配者たちがゆったり散歩している。木陰にはベンチもある。
小径は公園内をぐるっと一周できるように作られているようでパッと見た感じでは行き止まりがない。
ので。
のんびり歩き出したカズハは上機嫌だ。
行き合う年配のご婦人に軽く挨拶なんかすると、一瞬戸惑いの空気が作られるがすぐに柔らかい微笑みが返ってきてさらに笑みが深まる。
そうか。
新参者の町。
猜疑心。
先程のパン屋の主人の言葉の中の単語が脳裏に浮かぶ。
この辺は新しく移住してきた者たちが多いということだ。どことなくぎこちない笑みは、田舎のみんなが近所の人をよく知っていることから来る安心感を持っていないことに根差すのだろう。
それでもこちらの笑顔に応えてくれるということは、みんな心のどこかでそういう田舎の安心できる環境のようなものを欲しているということなんじゃないかな。
なんて思えてしまうので。
うん、これなら。
ちょっとずつ、顔馴染みを増やしていけば良いんじゃないだろうか、なんて思えてしまう。
今日はまず一人、パン屋の主人と会話ができた。
これは大収穫だ!