オレンジのジャムとタマネギ
仕事の休み。
今日は家でいつもできない事をやろう! と、カズハは早朝からエプロンを身につけた。
「なんだよ、なんで休みの日にまでこんな早起きすんだ?」
ベッドの上で丸くなっていた筈のヒシバが寝室から出てくるなり人化して目をこすっている。柔らかい髪に寝癖がついていてその可愛らしさについ悶えそうになる光景だ。
早朝とはいえ今日はいつもより少し長く寝たので窓から朝日が入り込もうとしている。
今朝のカズハは顔を舐めて起こされることはなかった。
どうもヒシバ的には無意識にやってしまう行為らしいのだが、最近それをやられる度にカズハは「それはすっっっっごく痛いんだよ!」と力説している。
話してわかる相手だと思うともうカズハだって言いたい放題だ。
そして言い聞かせたあと、軽くショックを受けるらしくちょろっと舌を出したまま固まるヒシバが可愛くてしかたない。
「だって、今日はやりたいことがあるんだもん!」
カズハは満面の笑みで袖をまくり上げる。
「ふーん……苺のケーキ……?」
「はい?」
目を細めて聞いてくるヒシバにカズハが笑顔のまま聞き返すと。
「こないだあのユリウスとかいうやつにあげちゃったじゃないか! オレのケーキ。あれ、もう一回作ってくれるんだろ?」
「あー……あれね……」
先日ユリウスが来た際に、野菜をもらったお礼にと翌日食べる分として取っておいた苺のケーキをあげてしまった。ヒシバはどうやらそれが気に入らなかったらしく、ずっと引きずっているみたいなのだ。
で、仕方がないので「また苺買ってきて作ってあげるから」と言っていたのだが……なんと、季節が終わってしまったということなのかあの後、苺の露店を見かけていない。……仕事から帰ってきて苺を持っていないことが分かるととても分かりやすくガッカリするヒシバはなんとも可愛らしくて……なんともかわいそうな感じになっていた。
「もう季節が終わっちゃったんだって。仕方ないじゃない! 今日はオレンジのジャムを作るから機嫌直して?」
カズハがヒシバの頭に手を置いて軽く梳きながら顔を覗き込むように首を傾げる。
黒い髪の間に白い髪が一房混ざっているのがなんだかカッコよくて、こうやって髪を触るのは楽しい。
「……オレンジなんかでジャムが作れるのか?」
ちょっと機嫌が直ったらしいヒシバは、作業しているカズハの隣で目をキラキラさせながら手元を覗き込んできている。
「うん。結構美味しいのよ」
オレンジをまず半分に切って果汁をボウルに絞る。
それから残った皮を細く刻んでいく。大きめのオレンジは五つあるので結構な量だ。
「……なぁ、あん時なんで教えなかったんだ?」
ポツリとヒシバが呟いた。
「え? 何を?」
刻んだ皮を大きめの鍋に移しながらカズハが聞き返す。
「いや……ほら、オレの名前。あのユリウスってやつに聞かれてたろ?」
「ああ、あれ……」
一気に鍋に移したせいで刻んだ皮が鍋の外にこぼれてしまって、カズハがああしまった、と内心思う。
……ええ、いきなり変なこと訊かれて焦ったわけじゃないんだからね。
「だって……前にヒシバが『名前をつけるという行為には意味がある』みたいなこと言ってたじゃない」
……あ、これ、答えになってないな。なんて思いながらもカズハはつい力説口調だ。
鍋に皮がかぶるくらいの水を入れて火にかける。
「それは、名前をつけるという行為の話だろ」
「う……」
分かり切った反論が返ってきてカズハが閉口した。
だって、自分でもよく分からなかったんだもの。
なんだかユリウスにヒシバを名前で呼ばれるところを想像したら、悪寒がした。それはもう、反射的に、ぞくっと。親切なユリウスには申し訳ないんだけど。
ヒシバの事を「猫ちゃん」と呼んだ彼の顔と口調はなんだか赤ちゃんに対するそれを彷彿とさせて……私のヒシバへのイメージとは全く違ったのだ。
砂糖を量っている間もヒシバがまとわり付きながら「なぁ、なんで?」と訊いてくる。
砂糖は貴重品だけどこういう時には思い切り使いたい。そして目分量にして失敗したら元も子もないのできっちり量る。だから目が離せない。
……ええ、照れ臭くてヒシバがまともに見れないとか、そういう事じゃないからね。
「なぁ、なんでだよ」
「……だーもー! ヒシバだってあの時『言うな!』みたいな目してこっち見たじゃない!」
ついに根負けしたカズハがわざとらしく息をついて声を上げた。
で、ヒシバの方を改めて、見る。
と。
「ふ、ふーん……」
うわ。
なんだこの子。
こんな顔してこっち見てたのか。
ってくらい、くるんと大きな目を見開いて口を歪めて……可愛いな。
そして目が合った途端、見る見る顔が赤くなっていく様はまた……格別だな。
格別すぎて……こっちも顔が熱い。
そのあと何故か黒猫の姿になったヒシバはくるりと向きを変えてソファに跳び乗り、こちらに背を向けて丸くなった。丸くなったところで尻尾が小さくパタパタ動いて……その先が自分の鼻先に当たったらしく、パシッと前足で押さえ込み、小さくため息なんか吐きながら……あれは寝たフリに違いない。
……ちょっと可愛い。
なんて思いながら、カズハはジャム作りの作業に戻る。
一度煮立った鍋の中身をザルにあけ、今度は水にさらす。何回か水を変えてアクをとる。この作業の回数が多ければ多いほど苦味が無くなるのだが……ちょっと苦味の残った味の方が好きなのでほどほどに。
で、その間に洗い物を片付けて、ついでに食事の準備もする。
どうやら自分が食べたいと思わなければヒシバも食欲は起きないらしいので、今日は朝食の準備は作業の合間、時間に縛られずにやることにしてしまう。なにしろやっていることに集中しすぎてお腹が空かないので。
で、遅めの朝食用にスープを煮込んでいる間に、水にさらしていたオレンジの皮の水切りをして鍋に戻し、取っておいた果汁と量っておいた砂糖を投入。ざっくり混ぜて火にかける。
しばらくしてぐつぐつ音がしてきたら上に上がってくるアクを取り除きつつ様子を見て……あとは程よく煮詰めたら出来上がりだ。
鍋の様子を見ながら隣で卵を割って溶きほぐし、細かく刻んだチーズを混ぜる。ああそうだ、と思い立って庭に出てハーブを摘んできてこれも細かく刻んで卵に混ぜてみる。紫色の花が咲く細いネギのようなチャイブを入れたオムレツはカズハのお気に入りだ。ついでにだんだん茂ってきたパセリも摘んできたのでこちらも刻んで入れようと思い立ち……あれ?
ネギって……猫には毒じゃなかったっけ?
「うっわ! 思い出してよかった!」
小さく声を上げて別のボウルに新しく卵を溶きほぐす。そちらにはチャイブではなくてパセリのみじん切り。
二種類のオムレツは見た目はほとんど同じだけど入っているハーブが違う。それを先にテーブルに運んで各自の席に配置して。あとはフライパンで焼いたカリカリベーコンをフライパンごと持っていって盛り付けるといい匂いに釣られてカズハのお腹がぐぅと鳴った。
そのタイミングでヒシバは目が覚めたらしく、ソファで伸びをしてからストン、と飛び降り少年の姿になった。
「もう、食べられるわよ」
とカズハが声をかけると「んー」なんて返事をしながらトコトコと台所に入っていき、スープの鍋を一瞥してスープ皿を持ってくる。
昨日買ってきておいた丸パンをスライスしてカゴに盛り付けているカズハが横目で見ると、ヒシバはスープの方を手伝ってくれるらしい。
……うん、可愛い!
ヒシバはもともと器用なのか危なっかしい手つきでもなんでもなく、鍋の中身をすくっている。
あれかな、いつも私がやってるのを猫の姿で見てるのは本能的に動くものを目で追うとかじゃなくて、ちゃんと観察しているってことなんだろうか。
なんて思いつつ。
「よし! 出来た! 食べよう!」
カズハがテーブルについて声をかけるとヒシバも満面の笑みになって。
「いただきまーす」
と答える。
こういう姿は子どもらしくて可愛いわよねー……なんて思いながらカズハはつい頬が緩んでヒシバの様子を見守ってしまう。
ヒシバはまず手にした大きめのスプーンで、スープをすくった。
うん、具材をちょっと大きめに刻んじゃったから食べにくいかなとも思ったけど煮込んだせいでみんな柔らかくなってるわね。こないだユリウスが持ってきてくれた野菜たちなんだけど……どれも新鮮で美味しそうだったし。
……と!
「あああああっ!」
ガタン!
と、派手な音と共にカズハが立ち上がる。
ギョッとしたような顔でスプーンをくわえたままこちらを見上げたヒシバと目が合い、カズハは立ち上がった勢いのままテーブルを回り込んで……。
「え、おい……っ! 何しやがる!」
思わず、ヒシバの首を……絞めた。
「ダメダメ! 飲み込まないで!」
自分でも何やってるのか理解が追いついていないけど!
ほんっとうにうっかりした!
スープにタマネギが入っているのだ!
「う……ぐぇ……苦しいっ! 離せっ!」
きっとヒシバの方が何がなんだかわからない状況だろう。両手をカズハの腕にかけてもがき始め。
「違うの! それ、タマネギ! 猫はネギ食べたら死んじゃうのよ!」
両手で掴んだヒシバの首を離すことなくカズハがガクガクと揺さぶる。
揺さぶれながら一瞬ヒシバが遠い目をして。
「……だから、なんで、いきなり殺そうとすんだ!」
渾身の力でカズハの手を振り切って椅子から立ち上がったヒシバが肩で息をしながら頬を引きつらせた。
「……殺すつもりなんかないもん。うっかりだもん」
ヘタっと床に座り込んだカズハはもう、涙目だ。
……ダメだ、吐き出してくれなかった。
この後急に苦しみ出したりとかするんだろうか……。
「あー、バカ違うって! 絞め殺されるかと思ったって言ってんだ」
はああああ、と大きく息をしながらヒシバが困ったような顔になった。
「……へ?」
なんか……元気そう……?
「食いもんで死んだりしないから大丈夫だよ。言ったろ、オレ聖獣だからさ」
「……はい?」
言われた言葉の意味が飲み込めず、カズハが固まった。
「だから! そもそも生き物としての体の造りが違うんだよ。毒にも耐性あるし、万が一怪我とかしても回復力はその辺の生き物の比じゃないし、首でも落とされなきゃまず死んだりしないから大丈夫だっつってんの!」
「え?」
困ったような笑顔のまま説明されて、カズハの思考が再び回り始めた。
聖獣だから……死なない……毒にも……耐性がある……。
「ほら、立てよ。んで、食事の続き! カズハの作ったスープ、美味いよ? タマネギの味っていいよな。甘くて深くて、オレ好きだぞ?」
「食べて……平気だった、の?」
差し出された手を反射的に取りながらカズハが恐る恐る尋ねると。
「だから好きだって言ってんじゃねーか」
ヒシバが満面の笑みになった。