新生活
子供の頃「人に親切にしなさい」と母親によく言われた。
「自分がしてもらって嬉しいと思うことを人にもしてあげなさい」とも。
なのでなんとなく、そんな生き方をしているような気が、する。
親切のつもりで言った言葉が相手を傷つけてしまうことがある。
親切のつもりでやったことがあてつけがましいと思われることがある。
そうなった時には「勉強のいい機会だ」と思って人への接し方を自分なりに変えた。
相手の立場になって考えたら、そう取られる可能性があったんだって事に改めて気づくものだ。
そんなことを何となく心がけた結果。前の町ではいろんな人と仲良くなった。
目立って人気者になったわけではない。
でも、困った時にはあえてそれを口にしなくても誰かが助けてくれる。
その分、自分にできることを見つけられる機会も多くて人と関わるのが楽しくなったものだ。
「母よ。あなたが空の上の住人になって早十五年。あなたの娘カズハは三十歳。今日も元気にしてますよ……っと」
小さく呟きながらカズハが新居の、寝室のカーテンを開けた。
朝日が容赦なく入ってきて、まだできればベッドに入っていたい、くらいに思っている思考を強制的に覚醒させてくれる。
なのでついでに窓も開ける。
「おお……今日もいい天気だわ」
すう、っと大きく息を吸って伸びをすると、もうベッドへの誘惑は断ち切れた。
「十五年、か……早いなぁ……」
普段こんなに独り言ばっかり言う方ではないし、ましてや今は亡き母親にこんなに語りかけちゃうほど優しい感じの女じゃないんだけど……昨夜久しぶりに母親の夢なんか見たせいだろうか。
なんて思いながらうっすら笑みを浮かべてしまう。
「新居のせいかな……」
十年前に母と暮らした家を出て、女騎士になって騎士の住まいをあてがわれた時もやっぱりそういう夢を見た。
今までの住まいを後にするという心のどこかで感じる寂しさは、引っ越しのどさくさで何も考える暇がないような忙しさが途切れた後にそろっとやって来るのだ。
その後、女騎士として働いた。
当時騎士の需要は大きく「敵」と呼ばれる自然現象と戦って村や町や都市を守る人材がいくらでも必要とされていたのだ。相手は厳密には生き物ではないが、息の根を止めて消滅させるまでは獰猛な獣同然。立ち向かう騎士は守るべき者の為に命懸けだったし……そういう者たちを失ってもなお新しい大義名分を胸に命懸けで戦った。
そんな戦いに終止符が打たれたという知らせが届いたのは先月。
カズハがいた東方のハザルという町は田舎だったのでその手の知らせが届くのには時間がかかったらしい。
都市のような所なら近隣の大都市、東西南北の名前を冠した都市が直接知らせを出すが、そこからさらにその周辺の町や村に知らせが回って来るのはその後なのだ。
ハザルの場合は厳密には東方の町とはいえ地形上、一番近くにあるといえる大都市は南の都市だったがそこが敵によって滅んだので、一番近いのが東の都市になった。
しかもその東の都市は情勢が一時不安定でそういう伝達事項にまでは手が回っていなかったのだ。
取り残されたハザルでは、しばらく何も知らないままこれまで通り騎士隊が機能していたが、最近西の都市が東の都市を援助して情勢が安定したということでそういう通達事項が一気に流れるようになったのだ。
かくして。
「母よ……娘は三十路にして退役軍人、でございます。しかも色恋沙汰とは一切無縁のままです……」
心の声がもはやだだ漏れ。
カズハは口元に変な笑みを浮かべたまま顔を洗いに洗面所に向かう。
なにせ騎士の需要が減ったのだ。いきなり。
なのでその段階で二級以下の騎士は一斉に解雇された。いや、それには特に不満はないのだ。退職金が思いの外たっぷり出たので。
「西の都市様様なのよねー、お陰でこんなちゃんとした一軒家なんか借りられちゃったしー」
簡単に髪をまとめてバシャバシャと音を立てて顔を洗ってから、ふんふん、と鼻歌だって出てしまう。
東の都市にこんな甲斐性はない。
西の都市が東の都市の政に手を出してくれるようになったので周辺の都市や町もその恩恵を受けるようになったのだ。
なので、いわゆる退役軍人たちは次の仕事にもすぐ就けるように保証があるし、生活に困らないように退職金もちゃんと出ている。
そんなお金を持ってカズハはここエルガディの町に来た。
特にここでなければいけなかったわけではない。
前にいたハザルよりちょっとばかり南寄りでそこそこ新しい町だ。
新しい、ということはそれなりに住人みんなが新参者。みんなで一緒に馴染んでいくにはいいんじゃないか、なんて思った。
南の都市、と呼ばれていた大きな都市が滅んだ時、近隣にあった都市も町も村も、まとめて廃墟と化したと聞く。まぁ、いくつか小さな集落は残ったらしいが。
で、その後、伝説としか考えられていなかった竜族の頭たちが敵を一掃し、朽ちた大地を元通りにし、再び人が住めるようにしてくれたのだという話を聞いた。
竜族なんて見たことはなかったけど、実際事態が収束したわけだし、世の中平和になって騎士の需要が減るなんて事にさえなっているのだ。信じるとか信じないとかの話ではない。ただただありがたい。
で、そうなると、その地に人々が戻ってきて町を再建するのに時間はかからない。
何せ、気候はそこそこいいし、土地は肥沃だ。そして何より「敵」の危険がない。
「……はぁ、平和、だわー」
隣に置いておいたタオルを取り上げてえいっと顔を埋めながら呟く。
うん、今日は独り言だだ漏れの日確定だな。
顔を上げると素朴な木枠に嵌め込まれた鏡があって自分と目が合う。
この辺の土地にありがちな黒髪はほどくと肩より少し下まで伸びている。顔を洗ったついでに少し濡れてしまっているがこれで寝癖も取れる、と櫛を手に取る。
騎士だったから戦う者として、それから騎士の礼儀として髪はひとまとめにする必要があったので結べるくらいの長さが必要だった。そろそろ短くしてもいいかな、とも思うがこの年の女が髪を短くするのは文化的にありえない、という場所もある。短くするとしたら、様子を見てからだな……と思う。
髪をまとめながらもつい鏡の中の自分を見つめてしまうのは……もはや癖、かな。
目つきがきつい、とよく言われるのだ。
なのでつい確認するように見てしまう。
ちょっとうつむいたところから視線を上げるこの角度は……ああ、やっぱりちょっときついのかもしれない。自分の顔なんて見慣れてるけど……。
くっきり二重のはっきりした目には目力がある。
この辺にしてはなんの変哲もないブラウン系の黒目は白いところとのコントラストがはっきりしていて、ただ見てるだけなのに強そうに見られる……いや、はっきり言って睨んでいると勘違いされるほど力強く見えるらしい。
その他のパーツは普通だと思うんだけどなー、なんて思いながら小さくため息をつく。
「あ……そっか……」
取り敢えず髪を後ろでまとめ終わったところで独り言が再びこぼれた。
「騎士隊の寮で働く事になったんだっけ。何をするにしても髪はまとめないとダメよね、きっと」
この町に移住登録をした昨日、元二級騎士だったということが身分証で明らかになるとこの町の騎士隊が編成されている最中なので寮の世話係の仕事をしないかと言われたのだ。
早速仕事まで紹介されてしまうなんて、本当に凄い。
仕事につける保証、というのは本当にしっかりあったのだ。西の都市、ありがとう。
「さぁてっと! 朝ごはん食べてから今日はその辺の散策に行こう!」
独り言で自分を勢いづけてカズハは小さな台所に向かった。
鼻歌まじりに台所作業が始まる。
昨日は手続きと、差し当たっての買い物で動き回ったせいで疲れ果ててしまい、台所は夕食を食べた後、片付け切れていない。
取り敢えず鍋にスープを作るべく少なめに水を入れて野菜をざっくり刻んで投入したら、小さな洗い場に置きっぱなしの昨日の食器を洗ってしまう。そして今また使うから棚にしまうのではなくて布巾の上に伏せて水切り。
で、ボウルに小麦粉と卵とミルクを入れて混ぜて……フライパンを火にかける。
スープの方に味をつけて……ここにもミルク。
今朝は野菜のミルク煮にしちゃおう!
そして温まったフライパンでパンケーキを焼き始める。卵一個入れることを考えると一人で食べるにはちょっと多いくらい生地ができちゃうけど……これはどうしたって焼いちゃわなきゃいけないわけで。
うん。食べきれない分はお昼に食べよう。
ああ、そうだ。昨日衝動買いした肉の腸詰。あれもフライパンの隅っこで焼いて食べよう。
なんて考えると同時に手が動くので料理が出来上がるのはあっという間だ。
そんなこんなで、ちょっとボリュームのある朝食が出来上がり、小さな食卓に並べられると……。
「あ……いい感じ……」
ふふ。と、つい笑みがこぼれた。
一人分の食事が乗った木でできたテーブルは、それだけでもなんだか暖かい雰囲気だと思った。
窓から日差しが穏やかに差し込んでいてとても落ち着く。
自分が声を出すなり動くなりしなければ物音一つしない部屋ではあるのに、なぜか落ち着く。
「……いや、今思い出さなくてもいいわ」
一瞬、前の町でのちょっとしたあれこれを思い出しかけて視線が泳いだカズハはそのまま軽く頭を振ると、席についてフォークを手に取った。
「いっただきまーす!」
なにしろ、今日の朝ご飯は絶対美味しいからね! 味のバランスには絶対的な自信がありますから!