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雨の弓

作者: 音虫

これはフィクションであり、いつかモラトリアムの真っ只中にいた誰かの体験に基づいた物語でもあります。

忘れてはいけないこの日に寄せて。

 A。


 英語圏では〝エー〟と読む、アルファベットの最初の一文字。

 わたしが属する界隈では、ドイツ読みで〝アー〟と発音することが多い。


 サッとした雨の中、寂寞(じゃくまく)とした学校の体育館で、楽譜上に並ぶ音符にも割り当てられているアルファベットの中から、わたしは肩と顎で挟んたヴァイオリンでAの音を弾き始めた。


「ら〜♪」


 その音色に合わせて、背後から鈴のような少女の歌声が乗せられた。

 聞き覚えのあるその声にわたしは嘆息しつつ振り向く。


(りん)調弦(チューニング)の邪魔をしないでっていつも言ってるでしょう」

「え〜、だって私の耳が勝手に〝ラ〟の音だよって教えてくれるんだもん」


 1stヴァイオリン第二プルト(ペア)の片割れを担う気分屋の彼女は、幼少期からの音楽基礎教育(ソルフェージュ)の訓練で絶対音感を身につけている。こうして事ある毎に音名唄で口ずさむのだが、鬱陶しいことこの上ない。わたしには訓練しても辿り着けなかった領域なのである。


 梅雨明けを待つ季節。わたしたちは今、未曾有の大地震による被害をさんざんに受けた被災地その場所に立っている。

 所属するオーケストラの団長が一念発起し、「被災地の人々を音楽の力で元気付けよう」と、仮設住宅の設営や物資の輸送が落ち着いた頃を見計らって、片道二時間の道をバスで揺られて来たのだ。

 演奏会場となるのは、小さな小学校の体育館。揺れよりも津波の被害が甚大であった今回の大災害の中、立地に救われて難を逃れたそうだ。

 時間になれば仮設住宅に散った住民たちがこの体育館に集まってくる予定であるが、早めに会場入りしたわたしたちは閑散としたここで演奏の準備を進めていた。


 しかし、なんて酷い有様だろう。


 初めて足を踏み入れた町であるが、見晴らしのいい高台から海を見下ろすそこには、たくさんの民家が立ち並んでいたことが想像できる。

 なぜ〝想像〟できるかって、何も無いそこには住宅の基礎だけが残っているのだ。その上は全部、津波がもっていってしまった。

 わたしたち自身も確かに被害は受けているのであるが、ここに比べたらなんとも可愛いものだ。

 瓦礫や廃棄物などは、寄せられた後のようである。途方もない状況であっただろうに、撤去に当たった方々の苦労は推して知るべきである。


 その有様を見て、わたしはいよいよここに来た意味が分からなくなった。

 これほど凄絶な体験をした人々の前で、何が音楽か。大きな被害もなくピンピンとしているわたしたちが、ここに住む彼らに一体何が伝えられようか。


 わたしは、背後でAの音から始まる軽騎兵序曲の鼻歌を歌いながら松脂(まつやに)を弓に塗りたくる凛に向けて、この始末の悪い心境を吐露する。


「ねぇ、わたしたち迷惑じゃないかな」

「え、そんなに騒がしかった? 小声で歌ってたつもりなんだけどなぁ」


 的の外れた回答にらしさを感じながら、わたしは台詞に肉をつけて再度投げる。


被災地(ここ)に集団でゾロゾロと来たこと。わたしたち、ここの人たちのために食べ物も生活用品も持ってきてない」

「それはそーでしょ、私たちは音楽を届けに来たんじゃん」


 さも当然の様に言い放ったその堂々とした様は見習いたいとすら思えるが、わたしは今まさにその事について疑念を抱いているのである。

 弦の上に遊ばせた左手の指を転がしながら、少し俯いてわたしは声を落とす。


「音楽でお腹は膨れない。音楽で雨風は凌げない。余裕がある人の娯楽にしかならないような〝これ〟で、歓迎なんてしてくれないわ」

「そうかなぁ。〝これ〟を奏でることで、悪い気持ちを吹き飛ばせたらいいんじゃないのかな?」

 

 わたしと凛は、互いのヴァイオリンに目を落とす。


 チャリティーコンサートとはそもそもが凛の言ったように精神的な面での支援を目的としたものであろう。であるのに、いざ現地に来て現実を目の当たりにすると、わたしにはその意義が分からなくなってきたのだ。

 俯いたまま沈黙を貫いていたわたしが視線を感じ顔を上げると、凛は無垢な瞳でわたしの双眸を捉え、鈴のような声音を落とした。


「ま、難しいこと考えないでさ、まずは音楽でしょ、望美(のぞみ)! 〝音楽に嘘はつけない〟んでしょ?」


 彼女が口にしたそれは、わたしの口癖であった。


 音楽は残酷なくらい純粋なもので、演奏者の体調や心境、曲や演奏に対する想いなどを偽りなく映し出してしまう。

 だからこそ、演奏者は音楽を奏でる上で、自身が紡ぎだす音に嘘をついてはいけないのだ。


 いくらこの演奏会に疑問を抱いていようと、オーケストラの一員として演奏する以上責任が伴う。お客さんに〝嘘〟を届けてはいけないと、気持ちを切り替える意味も込めて深呼吸しつつ体育館の壁掛け時計に意識を向ける。いつの間にか総合練習(ゲネラルプローベ)の時間が迫っていたようだ。


 弧を描いた弦楽セクションの後ろに、管楽器と打楽器がミルフィーユ状に層を成す。

 ちょうど目の前で存在感をまき散らすコンサートマスターが立ち上がり、オーボエの先導を受けて開放弦でチューニング音のAを示す。それに続き、オーケストラを構成する様々な音色が重なり合い、高尚さすら感じる形容しがたい空間が生まれる。


 うん、大丈夫、わたしはわたしの役割を果たせるはず。


 平常時の音色(サウンド)が出せていることを手ごたえとして感じ、わたしは合奏の波の中へ身を投じた。


♪ ♪ ♪


 今にも崩れそうな危うさすら感じていた小さな体育館も、お客さんが入れば幾分か賑わい、物理的なそれとは別に空気が暖かくなったように感じる。


 甚大な被害を受けそれどころではないのではないかと思っていたが、わたしの予想を裏切り眼前には用意した客席が埋まる程度にはお客さんが入っていた。それどころか立ち見客もちらほら見える辺り、意外にもわたしたちの公演は地元の人々から注目されていたのかと、不意に緊張感が込み上げてきた。


 らしくもない。

 久しく感じていなかった演奏時の緊張を胸の底に押し込めて、わたしは指揮者(コンダクター)のタクトに意識を集中させた。


 今回の演目(プログラム)は五曲程度で終わるシンプルなものである。


 今しがた振り下ろされたタクトと共に場に染みわたった一曲目は、G.マーラー作曲【交響曲第五番より第四楽章 アダージェット】。

 全五楽章で構成されるシンフォニーの四番目に位置するこの楽曲は、静かで温かく、心に染みわたる旋律を特徴とし、聴く者の心を落ち着かせる。指揮者でもある団長が追悼の意を込めて、と選曲したものである。


 弦楽合奏で奏でられる、ヴィブラートを携えた静謐なハーモニー。

 胸の奥を捉え、この場の時間そのものを支配しているかのような、弱く秘かで、しかし(したた)かに訴えかける和声の流れ。わたしも、初めてこの曲を聴いた時には涙したものだ。


 一介のアマチュア団体に過ぎないわたしたちがそれほどの演奏を再現できているかは分からない。しかし、観客席からはすすり泣く声が聞こえてきた。それも、決して少なくはない人数のものが。


 ……追い詰められている人を泣かせてどうすんのよ。


 ふと沸いて出てきた捻くれた自分を生唾と共に飲み込み、わたしは左手でかけるヴィブラートで邪念を揺らしてごまかす。

 力強く響いた共奏(トゥッティ)は最後の音へ終着し、消えるように(モレンドして)空中に溶けていく。

 指揮者が両手を胸の前に下ろし、残響が消えてからもしばらくの無音が線を引く。

 追悼の意で演奏した曲であるため、この曲への拍手は控えるようアナウンスしてある。


 数秒か数分か。


 ようやく指揮者が指揮台から降りると、わたしの真後ろ、第三プルトで1stヴァイオリンを弾く後輩が、マイクを持って司会者として躍り出る。

 短く、今回の演奏会の趣旨と哀悼の意を述べると、テンポ良く次の曲の紹介へ移行した。


 次に演奏するのは、L.V.ベートーヴェン作曲【エグモント序曲】である。

 クラシック音楽愛好家の中ではかなりメジャーな曲であろう。オーケストラの公演として来ているのだ、こういった曲は正に相応しいであろうとわたしは常々思っている。


 へ短調の重厚なハーモニーが叩き落され、この曲は始まる。

 短調が支配する重々しい空気感は時折差し込む光のような長調を交え、加速度的に進行していく。そしてホルンの刻みを動力として行き着いた先、華々しく開いたアレグロが重たい空気を払い、真っ白な光を辺りにばらまく。そのまま勢いを増し、トランペットの勇ましいファンファーレがフィナーレを告げ、跳ね上がったタクトに合わせてへ長調のハーモニーが上空に弾け飛んだ。


 タクトを握る右手を下ろした指揮者の背中にパラパラと拍手がぶつかる。その刺激に答えた彼が振り向き、一礼。


 司会者が次の曲紹介を終え、席に着いたのを確認した指揮者のタクトに合わせて弦楽器による長音階(メジャースケール)が花開く。J.シベリウス作曲【組曲「カレリア」より第三曲「行進曲風に」】だ。


 大きな二拍子系のマーチは、弾む三連符の波に乗って軽快に進む。

 重厚感のあるベートーヴェンと比べると気軽に楽しめる感覚があり、客席にちらりと視線を流すとリラックスしたお客さんの表情が伺い知れた。


 弦楽器主体のメロディは金管楽器へと受け渡され、その金管楽器が今度は背後に回って弦楽器が木管楽器と共に再び台頭する。

 曲を貫く主題(テーマ)が様々な音色へ姿を変え聴く者を楽しませた後、急速にテンポは減速し、明るい和音を全体で奏でて終止線を迎えた。


 ここまでくるとお客さんたちも慣れてきたものか、オーケストラに降り注ぐ拍手は先程よりもボリュームを増したように感じる。



 ここから演奏する曲は、少し毛色が変わる。


 オーケストラといっても、クラシック音楽だけを演奏するわけではない。観客のニーズに合わせて、映画音楽やポピュラー音楽を演奏する機会も多いのだ。


 そして今回四曲目として採用されたのは、西城秀樹がカバーした【ヤングマン (YMCA)】である。

 日本国民であれば誰しもが知っていると言っても過言ではないほどの有名なナンバー。お客さんとしては知っている曲が演奏されると嬉しいのだろうが、わたしは今回の状況を考えて、小さな違和感が胸中に渦巻いていた。


 辛い人たちの前で、こんなにも底抜けに元気な曲を演奏しても良いのだろうか。被災者の気持ちも知らずに呑気なものだな、だなんて思われないだろうか。

 考えすぎだろうか。わたしも、昨今の不謹慎ムードに呑まれてしまったとでもいうのだろうか。


 弓を往復させる右手が、いつもの勢いを保つことが出来ていないのをぼんやりと感じていた。


 曲は終盤、お決まりのYMCAポーズをするために一度楽器を下ろすと、左隣の凛が肘で小突いてきた。

 何事かと首をそちらに回すと、凛は満面の笑みをわたしに向けて右手を上げる仕草をした。左手で楽器を保つため。ヴァイオリンは例のポーズを右手だけで行うのだ。


 ……あぁ、この子には全部バレちゃうか。


 心の内を見透かされたように感じ、落ち着きを取り戻すと共に総合練習(ゲネプロ)前の会話を思い出す。


 〝音楽に嘘はつけない〟


 他でもないわたし自身が常々口にしている言葉ではないか。余計な思考はいい、今は音楽に没頭しよう。

 一つ脳内のスイッチを切り替え、わたしは努めて元気に右手を斜め上へ掲げた。


 曲が終わると、心なしかさっきよりも拍手が大きいように感じる。

 それはわたし自身の心境の変化故か否か。今は考えてはいけない気がして、思考を箱に閉じ込めて封をした。


 次の曲が最後だったはずだ。何の曲か思い出しつつ司会に耳をやりそれを確認すると、記憶通り尾崎紀世彦の【また逢う日まで】であった。


 皆様にまた会えますようにという願いを込めて~、という司会に小さく客席から笑いが起こるのを受け、指揮者は小気味よくタクトを振り上げる。


 また逢う日まで。正直、わたしの年代ではこの曲のことはよく知らない。なんとなくタイトルの響きから司会原稿にあったような意味に感じるかも知れないが、たしか本来の意味は別であると聞いた覚えがある。


 また〝逢う〟日まで。


 それは、もう会うことのない人への別れととれるのではなかろうか。

 知ってか知らずか、妙にこの場にマッチしてしまった曲だと押し込めた思考の中滲ませ、わたしは再びノリの良いビート感の中に身体を(うず)めた。


 客席からは歌詞を口ずさむ声も聞こえる。わたしたちより上の世代にとっては、案外馴染みの深い曲であったらしい。


 クライマックスへ向けて進行するに従い、この小さな体育館の中が不思議な一体感で包まれていくように錯覚させられる。


 なんだろう、ここに来た意味って、こういうことだったのかな。


 意図的にぼやけさせた思考がそう弾き出した頃、曲は最後のロングトーンを迎え、下げ弓(ダウンボウ)で弾ききった右手はそのまま身体の右方へ流れる。


 指揮者の合図でオーケストラ全体が立ち上がる。ここにきて初めて、わたしは観客席を正面から直視した。


 割れんばかりの拍手がわたしたちに送られている。


 向日葵のような笑みを浮かべるおばあちゃん、涙を拭う大きな男性、感心した様子で言葉を交わす夫婦、飛び跳ねる子供。


 全曲を演奏し終え鮮明になってきた思考が封じていた違和感の箱を再び開くが、目の前の光景がその違和感を打ち砕こうとせめぎ合う。わたしたちは、本当にこの人たちの力になれる演奏ができたのだろうか。ここに来たことに意味はあったのだろうか。余計なお世話ではなかったのか。


 ごちゃ混ぜのサラダボウル状になった思考がまとまる前に、誰かが叫んだアンコールの声と共に拍手は膨れ上がり、指揮者がもう一曲だけ、と人差し指を立ててはにかみ、オーケストラ団員を座らせる。


 ウィーンフィルハーモニー管弦楽団の影響を受け、わたしたちのオーケストラでもアンコールの定番となった曲、ヨハン・シュトラウス作曲【ラデツキー行進曲】の演奏が始まる。


 ウィーンフィルのニューイヤーコンサートのそれに倣い、指揮者がわたしたちに背を向けて客席に向かい合い、手拍子の催促をする。今回のお客さんたちはノリが良く、その先導に乗って手拍子を始めてくれた。


 場が十分に温まっていたこともあったのだろう、やはりそこにも会場全体を包む一体感を感じ、わたしの中の違和感は手拍子に打たれて弱弱しく縮こまっていった。


 音楽に嘘はつけない。

 音楽は嘘をつかない。


 等身大の音楽を聴いたお客さんの反応は嘘をつかないことをわたしは知っている。

 違和感はまだ拭い去れていない。しかし、目の前のお客さんの笑顔は、一つの真実であると受け入れざるを得ないだろう。


 大きくなったり小さくなったり。一貫して陽気なマーチは最後のメジャーコードを響かせて演奏会を閉じる。


 立ち上がる人がいるほどの拍手に身を打たれ、わたしは緊張が解けて分泌を再開した唾液と共に違和感を飲み込んだ。


 違和感はまだお腹の中で転がっている。それでも、今はこれでいいのかもしれない。場を締めた司会者の言葉を聞き流し、わたしは一つ、深い呼吸で胸を充たした。


♪ ♪ ♪


「こんにちは、少しよろしいかしら」


 楽器をケースに片付けていたわたしの元に、控えめな女性の声が降ってきた。顔を上げると、お母さんくらいの年頃であろうか、柔和な笑顔がそこにあった。


「はい、わたしでしょうか」

「ええ、あなたに私の気持ちが伝えたくて」


 呼び止められた対象がわたしであることを確認すると、その女性は居住まいを正して二の句を継いだ。


「あなたたちの演奏、すごく良かった。クラシックの曲は普段そんなに聴かないけれど、聴きやすい曲ばかりで心地よかったわ。それに、ヤングマンに、また逢う日までも、なんだか懐かしい気持ちになっちゃって。気持ちが明るくなったの」

「その、ありがとうございます」


 違和感を感じていた曲もひっくるめて前向きな感想をもらえたことに、少し戸惑う。表情に出ていたのか、そんなわたしの心境を察したように、彼女は言葉を続ける。


「私ね、あなたのことがずっと気になっていたの。最初の曲を演奏する前から、浮かない顔をしていたでしょ? 初めはここに来ることが嫌だったのかなって思ったのだけれど、その後の表情を見ていて違うって思ったわ。あなた、私たちに変な気を遣っていたでしょう」

「え、そんな、変な気だなんて……」


 いいや、遣っていたかも知れない。被災者の気持ちはどうか、わたしたちの音楽は相応しいか、この選曲は正しいのか。それらは、彼女が言うに変な気であったらしい。

 そうわたしが落とし込んだところで、彼女は優しく言葉を重ねる。


「私はね、あなたたちの演奏からたくさんの元気をもらえたわ。悲しいときはね、泣いたらすっきりするの。苦しいときはね、笑うと明るくなれるの。辛いときはね、元気な曲を聴いて力を分けてもらうの。私たちには今、楽器を奏でてくれる人もいないし、集めていたCDも無いから、元気なあなたたちから音楽を届けてもらえることがすごく嬉しいのよ。だから、ここから帰る時は胸を張っていってちょうだい。この町の現状を見て、気に病むことはないわ。あなたたちは、ここに住む私たちに力を分けてくれたんだから」


 お腹の中で転がっていた違和感が、粉々に潰れて消えていった。

 ああそうか、わたしたちはきちんと音楽の持つ力を届けられていたんだ。


 返事をしようとして、なぜかうまく声が出せないことに気がつく。頬を伝う雫が、その訳をわたしに知らせて弾けた。


 女性は、何も言わずにわたしを抱きしめ、最後に「ありがとう」とだけ残して去って行った。


 涙を拭っていると、背後から押し殺した気配が迫ってくるのを、わたしは妙に敏感に察した。

 わたしは振り向かず、できる限りの平静な声で、低く声を投げる。


「……なによ、凛」

「べっつに~。いっつもツンとしてるのに、かわいいところもあるなぁって」

「は? 冗談は休み休み言いなさい」

「きゃ~、こわいこわいっ。でもさ、ここに来て良かったでしょ?」


 憎まれ口を叩こうとして、思いとどまる。うん、たしかに言う通りだ。ここで感じたことに、一つも嘘はないはずである。


「……そうね。はぁ、この捻くれた性格、もう少しどうにかならないかしら」

「ふふ、むりむり~。三つ子の魂百までだよ!」

「あんたね、普段使わないような難しい言葉使ってまでバカにしないでよ」


 楽器ケースを閉じ、留め金がきちんと閉まっていることを確認して、わたしは立ち上がる。

 執拗にわたしの顔を覗き込もうとする凛をあしらいつつ体育館から外に出ると、音もなく降り続けていた雨はいつの間にか上がっていた。


 雨の後と言えば……そう、あんな風に。

 見渡した太平洋の向こう、大きな(レインボウ)が折り重なる重厚なハーモニーを織りなしていた。


                ――雨の弓


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