きらきら
私、取手窈は神宮寺写真館でバイトを続けていた。
以前、この写真館の主である神宮寺清彦氏からバイトの申し出を引き受けたばかりに、私は怖い思いをしたばかりである。
それなのに辞めずにバイトを続けるのは、写真の技術を極める環境が他に無かったからだ。
辞めようと思えば簡単に辞めれる。
だが、それを思い止まらせるほど、清彦氏はカメラの腕が良かった。
清彦氏は写真館で撮影をするのが仕事ではない。
依頼が有れば店を出て写真を撮りに飛び回る。出ていく店主に代わり、店番をする事もあれば一緒に出掛けて助手を勤める事も有るのだ。
撮影場所についていけば、技術を盗めるチャンスなのである。自身の技術向上に向けてアルバイトを続けていた。
これは仕方の無い話なんだ!
そう自分に言い聞かせながら受け付け横のデスクに座り、帳簿を睨みつつ売り上げを計算している。
本日は客足が無く、暇な一日だった。
そんな中、主の清彦氏は店の奥の部屋で機材の手入れをするからとずっと引っ込んでいる。「手伝いましょうか?」と申し出たものの、簡単に仕事道具の手入れをさせては貰えず、店番と事務処理を任されたのだ。
何時まで来るか解らない客を待つのだろうか?静かな時間が写真館の中に流れる。
―カラン、カラン
扉に掛かったカウベルが鳴り響く。
静けさを打ち破ったと同時に、暇すぎてペン回しをしていた私は突然の訪問客に慌て、居ずまいを正した。
余程、慌てた私の姿は間抜けだったのだろう。
目の前に立つ老婦人は慌てふためく私を見て、吹き出しそうになっている。何とか堪えようとしたのだろう。堪えきれず笑い出したのだが、コロコロと笑う様は何処と無く愛らしかった。
上質な着物を着こなしつつも、幼女のように無邪気に笑う。とても品の良い、女性だったのである。
「ごめんなさいね、貴女の顔がおかしくって…」
脅かす気なんて全く無かったのよ?と優しくニッコリ微笑まれられると、私も起こる気には慣れなかった。寧ろ釣られて笑ってしまう。
お互い、一頻り笑うと私は本題に切り出した。
「所で…本日はどのようなご用件ですか?」
「そうねぇ、実は私の写真を撮って貰いたいのよ。近々、私にお見合いの話が来ているのよ。だから綺麗に撮って欲しいのよね。」
老婦人は照れながらはにかむように微笑む。
「お見合い…ですか?」
失礼だとは思うが、思わず口に出してしまう。年齢を察すると、六十代半ばに見える。いや、五十代後半と言われても通じるような容姿だ。
「いけないかしら?」
老婦人は少しムッとされたのか、口を尖らせる。そんな姿もそれはそれで愛らしい。どうやら私はじろじろと見すぎたようだ。
「と、とんでもないです!素晴らしいじゃないですか、お相手の方にも気に入って頂けるよう、綺麗に撮りましょうよ。」
せっかくの客に嫌な思いをさせて帰られる訳にもいかない。ここは煽てても写真撮影に漕ぎ着けなければならない。
「それにしても素敵なお着物ですよね~、これなら写真に映えますよ。」
着物を誉められて気分を良くしたのか、「あら、ありがとう」と鼻唄混じりに申込用紙を上機嫌に記入していく。
書かれた氏名と住所は達筆で、細く書かれた線が美しく老婦人の品格を表す字体である。
それなのに何故だろう?この老婦人からは上手く言い表せない違和感を醸し出すのだ。
言葉にならないこのもどかしさ…どこか気持ち悪い。
「今、撮影の準備を致しますね。そちらのソファーにお掛けになってくださいますか?」
老婦人に対する違和感を胸に納めつつ、入り口横のソファーに案内するとお茶を用意した。そっと差し出すとニッコリと微笑んで受け取る老婦人を見ると、疑う自分が愚か者に思える。
私は撮影技師でもあり、写真館の主を呼びに店の奥へと急いだ。
まだ機材の手入れをしているのだろうか?朝から籠っているなら長すぎる。部屋の戸をコンコンとノックをしても返答も無く静かだった。
かと言って、ここで騒げばソファーで待つ老婦人が驚くだろう。そっとドアノブに手を掛け、回して見るとすんなり戸は開く。
どうやら清彦氏は昼寝をしていたようだ。机に突っ伏したまま寝息を立てている。
思わず頭を叩きたくなった。
老婦人の写真撮影はすんなりと終ったのは、清彦氏の腕が良いからという理由もある。被写体である老婦人と清彦氏の相性が良かったのだろう。
気がついた時には終わっていた。
「お疲れ様でした。写真は現像してからお届けにあがりますよ。」
清彦氏は後頭部の寝癖を隠す訳でもなく、隠すでもなく鷲掴みしつつ髪を掻き込むと、老婦人に素っ気なく告げる。
「あら、写真を届けてくださるの?親切な方ねぇ」
老婦人は清彦氏の寝癖など気にするでもない。寧ろ嬉しそうに微笑んだ。
清彦氏は黙っていれば…まあ色男なのである。きちんと身なりを整えれば言い寄る女性も少なくないのだ。
「それでは宜しくお願いしますね。」
老婦人は写真館を後にする。その後ろ姿を見送った私と清彦氏だが、入り口の扉が閉まると清彦氏が私に囁いた。
「ところで…さっきの客だが何か感じたかい?」
多少なりとも違和感を覚えたが、さしたる問題も無い。良いお客様だったと思う。
そんな私の感想を聞いた清彦氏は、「そうか…」と呟くだけでそのまま押し黙る。
結局、その日に訪れた客は老婦人一人だけだった。
店も閉店間際になる。
「そう言えばさ、窈ちゃんは来週の水曜日の予定って空いてるかな?助手を頼みたいんだけど…」
清彦氏が思い出したようにスケジュールを確認しだした。
「空いてますけど…前みたいな撮影じゃないですよね?」
ほんの数日前の撮影で私は怖い思いをしたばかりで、同じ思いをしたくない。
「大丈夫だよ。ああいう撮影ではないんだ。僕の母校…って窈ちゃんの母校でもあるよね。そこで撮影を頼まれてるんだ。」
そう、私と清彦氏は同じ高校を卒業していたのである。母校なら良く知っている場所なので、怖い思いをする事はない。私は二つ返事で申し出を引き受けた。
撮影日当日になると、私は清彦氏が運転する車に乗り込む。一路母校に向かう為に…
今日は前と違って行く場所は決まっている。母校で心霊話が出た話は無い。だから安心して撮影に専念できるのだ。
「清彦さん、今日は何を撮るんですか?」
軽快に走り出した車は、一路母校を目指す。車の軽快さとは裏腹に、ハンドルを握る清彦氏の顔は何処と無く浮いた感じはない。
「今日は…画家の八潮清太郎が、学生時代に描いた絵が母校で出てきたんだ。その写真を撮りに行くんだよ。」
「八潮清太郎って…あの世界的に有名な画家のですか?」
私はたまたまテレビのニュースで画家の名前を見た気がする。若くして描く世界は独創的で、海外のオークションでも高値で取引をされていた。
つい先日も、有名な賞を受賞したばかりだった気もする。
「あれ?窈ちゃんは知らなかったかい?彼はさ、母校のOBなんだよ。」
何それ?初耳なんだけど…ってええ!私は驚きを隠せない。そんな有名人が母校のOBだなんて…
「しかし…ヤッシーも有名になったもんだ。」
「何ですか、その“ヤッシー”って…」
「何って?僕の友人だもの。同級生だしさ、窈ちゃんが在学中はヨーロッパを放浪していたからね。」
もう私は絶句するしかない。そんな私を尻目に清彦氏ははなしを続ける。
「彼は美術部で僕は写真部。どういう訳か馬があって良くつるんだもんさ。」
懐かしげに話す清彦氏だが、何処か物憂げで寂しそうな顔を浮かべた。
「美術準備室を掃除したら出てきたらしいよ。
10代の学生が描くような絵じゃない、荒削りだが人の心を惹き付ける絵だと評論家が言うような絵なのさ。」
「見てみたいです、その絵。」
「そうか…」
清彦氏は私の一言で黙り、運転を続ける。
いつもなら「これから写真を撮りに行くんじゃないか」と一笑するのに、何を話すでもなく居心地の悪い時間を過ごすこととなってしまった。
何か触れてはいけない事でも言ってしまったのだろうか?
車が母校に到着した時、私達を出迎えてくれたのは写真部の顧問だった恩師の奥寺先生だったのである。
「神宮寺君に取手組んじゃないか!久し振りだなぁ。」
「先生こそ、お変わりありませんね。」
人懐っこい顔を笑みを浮かべられると、どうしても当時のイメージが甦ってしまう。
「そう言えば神宮寺君は写真館のオーナーになったんだったっけ?取手君は大学生だったかな?
二人とも立派になったもんだな。」
本当に喋るのが好きな先生だ。
当時の思い出に被写体を前にファインダーを覗く私は、いつの間にか横に立つ奥寺先生に手解きを受けていたのである。
集中をしようとするのに、隣で際限無く喋るので何度もシャッターチャンスを逃したのだ。
それでも憎めない、そんな先生だったのである。
今でも良く喋るのだろう。当時を思い出す口調で私達に捲し立てて話し込む。
結局、美術準備室に辿り着くまでずっと喋り通しだったのである。
さりげなく私は清彦氏を見ると、清彦氏もまた私を見て苦笑いを浮かべていたのだ。
「我が校の卒業生に案内するのは馬鹿げた話だが、ここが美術準備室だ。例の絵はここに有るよ。」
「先生、その絵は大きいんですか?」
機材を詰めたジュラルミンのケースを肩に担ぎ上げながら、奥寺先生に尋ねる。だが、その質問に答えたのは清彦氏だった。
「確か…僕の記憶ではイーゼルに乗せてたと思いますけど、さほどは大きく無かったですよね?」
よく覚えてるなぁ、と奥寺先生の顔が綻ぶ。
「そうか、君と八潮君は仲が良かったものな。後は白百合君だっけか、三人でよくつるんでいたものな。」
懐かしむ奥寺先生とは裏腹に、清彦氏の顔は何処か物悲しい。
「この絵なんだけどな。」
美術準備室に招き入れた奥寺先生は、イーゼルに立て掛けた絵を私達に向ける。
絵には細身でセーラー服姿、長髪の女子高生が描かれていた。
この母校のOGなのだろう、文庫本を読む姿をモチーフにしている。
私達の代ではブレザーだったから、パッと見た限りでは母校の生徒だとは分かりにくい。
「上手いもんだろ?高校生が描いた絵にしては上出来すぎる。
確か…この絵はコンクールに出展しようとして取り止めた作品じゃなかったかな?」
確かに写真の様に正確で、それでいて儚げな美しい絵だった。
「八潮は…この絵を描き上げられなかったと思ってました。描いていたのは覚えてますよ。彼は放課後にこのキャンバスに向かってましたからね…
でもモデルとなった白百合先輩が不慮の事故に逢ってからは…この絵を描くのを止めたと思ってましたからね。」
そうだったな、と奥寺先生も物悲しそうな表情を浮かべる。
「あの事故の後、君と八潮君の落ち込みは半端じゃなかったものな。
私も…君達には何て声を掛ければ良いかも解らなかったよ。」
教師失格だな…と言う奥寺先生の言葉は清彦氏には届かなかったのだろうか。奥寺先生に背を向けながら、無言でジュラルミンケースから撮影機材を取り出した。
「もう…昔の話ですよ。悲しんだ所で先輩はもう戻ってこないんです。」
何処か怒りを抑えたような口調で、清彦氏はファインダーを除き込む。シャッターを押す姿は淡々とはしていたが、清彦氏の背中は悲しみを滲ませる。
機械音が何処か物悲しかった。
その日の撮影は順調に終ったのだが、帰ろうとする私達を奥寺先生が引き止めたのである。
懐かしい写真部の部室に連れてこられ、卒業写真の依頼を頼まれる事になった。奥寺先生が写真担当になり、自分で撮影をする事も考えたが、清彦氏が学校に来るのならと併せて打ち合わせをしてやろうという魂胆らしい。
まあ仕事が増えるなら、と仕事を引き受ける事にしたのである。
順調に進み、話も一息ついた。
「相変わらずの部室ですね。」
「当時と変わってないだろ?卒業生はみんな壁に落書きしていったものな。だが君達の落書きはもう無いぞ?この前、部室の内装を綺麗にしちまったからな。」
通りで久方振りの部室が小綺麗に見えてしまったのである。
どうも小綺麗な部室に居づらかったのか、「小用だ」と席を立った。思いきって私は奥寺先生にモデルとなった少女について尋ねてみる。
「あのモデルな…白百合 茜と言って神宮寺君と八潮君の一級上の生徒でね。不思議と三人でつるんでいたよ。
彼女は学校のマドンナと呼ばれるぐらいの人気でね、神宮寺君と八潮君はよく揉めていたよ。“どちらが白百合君を自分の作品のモデルにするか”ってね。
白百合君は二人の性格を見抜いていたんだろうな。上手く立ち回って、二人のモデルをよくしていたよ。」
でもね…と奥寺先生は何かを言い淀み、一旦間を置くようにコーヒーを口に運んだ。
「彼女は…自殺をしてしまったんだよ。この校舎の屋上からね…」
その一言で空気が重くなるのを感じる。
私も聞くべきではなかったのだろうか、ばつの悪さを隠すように黙ってコーヒーに口をつけた。
母校を出て清彦氏の車に乗り込み、写真館に戻る車内の中で押し黙ったのは私の方である。
流石に奥寺先生から聞かされた話が衝撃過ぎて、隣でハンドルを握る清彦氏にどう聞き出そうか迷っている内に話す言葉が無くなったからだった。
急に押し黙った私に気を使ってか、清彦氏はぽつりぽつりと昔話を語りだす。私が絵の事について知りたがっていたからだろうか、当時の事を懐かしむように話し出したのである。
「僕とヤッシーは同級生で同じクラスだったんだ。お互いに存在感が薄いし、美術部に入った事だけは知っていた程度さ。
誰もあそこまで有名になるとは思わなかったよ。確かに入部したての頃よりは二年目、三年目と進級するにつれて絵も上手くなったし、点数も増えた。コンクールの入賞も狙えるほどの実力だったからね。」
天才ってのはあいつの事を言うんだろうな、と清彦氏はしみじみと呟いた。
そうは言えども清彦氏だって写真の腕は相当のはずである。敢えて口にはしないが、私は少なくともそう思う。
「僕とヤッシーは出会った時から仲が良かった訳じゃない。たまたま図書室に有ったフェルメールの画集を書架から出そうとした時、ヤッシーも手を伸ばしていたのさ。
それがヤッシーとつるむきっかけ。
じゃんけんでどっちが借りるかを三回勝負で決めたんだけど…僕が負けてヤッシーが借りてったのさ。」
まるでそれが昨日の出来事のように清彦氏は語った。
「そんな僕達の様子を見ていたのが一学年上の白百合先輩でね。先輩は文学部に入ってた。
僕達の画集の取り合いを一部始終見ていて、面白かったのかクスクス笑っていたよ。僕達も騒いでしまったし、先輩も笑い転げてたから三人仲良く図書委員に図書室から追い出されたのさ。
で、僕達に先輩から話し掛けてきた。」
学祭の美人コンテストで上位にランクされるような相手と露知らず、清彦氏も八潮氏もただ見とれていたのだという。
それも気さくな白百合先輩の性格が、二人の緊張をほぐし、気付けば三人でいるようになったのだという。
清彦氏が写真のコンテストの話をする時や、八潮氏が絵の展覧会に参加をする事を決めると、白百合先輩はモデルを買って出てくれたのである。
件の絵は高校二年の春から夏のコンクールに出展するため、八潮氏は白百合先輩をモデルに描き始めたと清彦氏は記憶している。
八潮氏が絵に着色をし始めた時だったか、彼は突如として絵筆を置いた。
それは白百合先輩が校舎から身を投げ、その儚くも短い生涯を自らの手で閉じてしまったからなのである。
学校では有らぬ噂が流れた。家庭が崩壊したから自棄になった、恋人に捨てられて腹いせに命を断った、と聞くに耐えない話が飛び交ったのである。
勿論、よくつるんでいた清彦氏と八潮氏は、教員から白百合先輩について聞かれたが、何も語る事は無かった。死んだ事さえ嘘だと思いたかったのである。
結局、飛び降り自殺をした理由はわからないまま、事件は風化してしまったのだ。
遺書が残された訳でもなく、真相は闇に放り込まれたまま今に至る。
清彦氏も八潮氏も白百合先輩の葬儀に参加したが、二人で葬儀場を出た時には話すことは何一つ無かった。と言うか、何を話したのかさえ覚えていない。
覚えているのは、川原にいって二人並んで煙草を吸ったということ。八潮氏が父親の煙草をくすねて持ってきたのを、二人で吸ったのだと言う。
頭はくらくらするし、気持ち悪い思いしかない。ただ…二度と吸うかと思ったこと、無性に涙が溢れたことだけは覚えている。
その日を境に清彦氏と八潮氏は顔を会わせても、話すことはなかった。欠けてしまった三角形は元に戻らず、いびつなまま友情も終えてしまったのである。
卒業を間近に控え、清彦氏と八潮氏は各々の道へと進む事になった。
清彦氏は家業を継ぐために大学へ経営学を学ぶために進学し、八潮氏は自分の夢を叶えるために単身でヨーロッパに旅だったのである。
二人にとって思い出したくない話なのに、何故、八潮氏は絵を完成させて清彦氏は撮影をしたのだろうか?
私には立ち入れない世界が二人には有った。
清彦氏は撮った写真を現像すると、三日ほど奥の部屋に籠っていたのである。
店番をしていた私が、たまに清彦氏に声を掛けるためドアをノックするも反応が無かった。心配にもなったが、部屋から出た清彦氏はいつも通りの店の主に戻っていたのである。
また奥寺先生に写真を届けるために訪問の約束を取り付けると、私にも同行するように伝えたのだ。
しかも写真だけで良いのに、私に「カメラも用意しろ」とまで言う。清彦氏がカメラを持ち込む理由が解らない。
前回の訪問と同様、私達を迎えてくれたのは奥寺先生で、そのまま写真部の部室に案内されたのである。
清彦氏は奥寺先生に大きな封筒を手渡した。
封筒には大きく引き伸ばされたあの絵の写真が収まっている。
奥寺先生が写真を封筒から取り出した時だった。
小さく「ひいっ!」と言って、先生は動揺し顔面が蒼白になっていく様子に私は驚いてしまう。
先生の震える手から写真が滑り、床にハラリと落ちたのである。写真の構図はイーゼルに乗った八潮氏の描いた絵だった。
私がそれを拾い上げた時、今度は私が凍りつく番となる。
その写真には絵が掛かったイーゼルの横で、血塗れの少女が映りこちらを指差していたからだ。
よく見れば絵に描かれた少女と、写真に写る血塗れの少女の顔が瓜二つ。絵の少女が儚げな笑みを浮かべるのに対し、写真の少女は冷酷に鋭い眼差しで誰かを睨んでいる。
奥寺先生の震えは止まることがない。
「…先生、屋上までつき合って頂けますか?」
だんまりを決め込んでいた清彦氏が口を開いた。既に肩には機材の入ったジュラルミンケースを担いで立っている。
奥寺先生には逆らう気力も削がれたようだ。血の気の引いた顔で、フラフラと清彦氏の後ろをついていく。
屋上では心地良い風が流れている。
「…先生、白百合先輩が飛び降りたのはどの辺りでしたっけ?」
額に掛かる前髪が風にたなびきながらも、カメラのファインダーを覗きながら屋上の周囲を見回す。
清彦氏は奥寺先生に問い掛けたものの、本人は震えたまま何も答えることができない。何かに怯えているような…そんな感じなのだ。
「先生…僕はね、過去を暴きたいんじゃない。真実を知りたいだけなんですよ。
証拠なんて何一つない。警察に届けたって、時効でしょ?」
そう言いながら清彦氏はシャッターを切る。
そんな重い空気に耐えきれなかったのだろう、奥寺先生は俯きながらポツポツと語りだした。
「私が…私がいけないんだ。
妻子有る身の私が、白百合君と関係を持ってしまったから…
彼女は母子家庭だったし、父親を求めていた。それなのに私が…」
奥寺先生はペタンとその場に膝まずく。そのまま先生は話を続けたものの、私は耳を塞ぎたくなるような内容だったのである。
白百合は先生の子供を身籠ったのに、先生が堕胎を薦めた。苦しみ、悩み、誰にも話せなかった事を奥寺には打ち明けたのに、生きる事を否定されたのである
生きる気力もない、自分の人生を自ら幕を降ろした。
「さ、帰ろうか…」
清彦氏がカメラを下ろすと、私に「終った事だから」と帰路に誘ったのである。彼の頬には一筋の涙の後が残っていた。
清彦氏が何を撮ったのかは判らないが、悲しみだけが残る後味の悪さ…
「良いんですか?先生を置き去りにして…」
「大丈夫だよ。」
死なないでくださいよ、先生にはまだやるべき事が有るんですから、と奥寺先生に声を掛けるとくるりと背を向ける。
足早に屋上を後にしたのだ。
車に乗り込み、戻る途中で清彦氏が「寄り道をしていこうと」言い出したのである。
そう言えばもう一つの封筒が手元に残っていた。確かにもう一仕事残っている。清彦氏はそれを届けに行こうと言うのだ。
車は学校近くの集合住宅へと滑り込んでいく。
町外れの民家の前に清彦氏は停車をすると、私を誘い下車をした。表札には見覚えのある苗字が掛かっている。
清彦氏が呼び鈴を押すと、迎えてくれたのは一人の主婦だった。当然、突然の来客に驚いたものの、事情を説明すると仏壇の置いてある居間へと通されたのである。
ゆらりと昇る線香の煙。
置かれた遺影に私は息を飲んだ。
「そうですか…母が?」
お茶を差し出す主婦の顔は、疑うような眼差しで私達を見る。
「これをお納めください。」
清彦氏が差し出した封筒を怪訝そうに受け取り、写真を取り出すと主婦は絶句した。そっと座卓に置かれた写真を見ると、写真館に訪れたあの老婦人なのである。
写真と遺影見比べると、同一人物に相違ない。
「確かに…母ですね。母が亡くなったのは…昨年の春でした。」
なら私達の前に現れた老婦人、あれは誰だったのだろう。
写真と遺影の違い、それは着物の着方が真逆だった事。
それは主婦も同じ事を気づいたのだろう。
「左前は亡くなった人への和服の着せ方ではなかったですか?」
私が老婦人に感じた違和感はこれだったのだ。
写真に写る老婦人は、きらきらと目を輝かせて微笑んでいたのである。