雪の宿
旅館の一室で晩酌を嗜みながら外を眺めていると、ふいに窓外に小雪がちらつきだした。昼間は晴れていたのだが「夜半には雪が舞う」という天気予報どおりになったわけだ。雪見酒としゃれこもうかと一人悦に入っていると、ふいに入口の扉を叩く音がし「お客様」という声が聞こえてきた。
いぶかりながら立ち上がり扉を開けると一人の年若い仲居がうつむき加減に立っていた。後ろに手を回し、妙にそわそわしている。
「何か」
問いかけると仲居はきっと顔をあげ、びっくりするくらいの眼差しで私を見据えた。
「あの、お客様は神月光先生ですよね。私ファンなんです。これにサインをください。お願いします」
それだけを一息に言うと隠し持っていた色紙を私に突き出し、深々と頭を下げた。
私は虚を衝かれ棒のように突っ立っていた。こんなことは初めてだった。私は確かに作家だがベストセラーなど一度も出したことはなく、マイナーポエットたることを自他ともに認めていた。そんな私の作品をこんな年若い女性が読んでいるとは。
私は奇異の念に打たれ、仲居の顔をまじまじと見つめていた。すると相手は見る間におろおろしだし、消え入るような声で「あの、ご迷惑だったでしょうか」と口にした。
「あ、いや。別に構わないよ」
私は誤解を招かないよう笑みを浮かべるとサインをしようと色紙を受け取った。しかし書くものがない。まごついていると「あの、ペンなら持っています」と懐からサインペンを取り出した。見かけによらずちゃっかりしているようだ。慣れぬ手つきで何とかサインめいたものを書きつけた。
「ありがとうございます。家宝にします」
大げさな物言いだ。しかし嬉しそうな顔をしている人間を見るのは悪い気分ではない。ふと彼女に対して好奇心が頭をもたげてきた。色々と知りたいことがある。
「私の作品では何が好きかな」
手始めに取っ付きやすい話を切り出す。
「うーん、好きな作品ですか。えーと『花月』かな、いや『紅葉恋歌』もいいし、あ、『びーどろ』も捨てがたいなぁ。ああ、どれが好きかなんて選べない。そう全部。先生の作品は全部好きです」
鼻息荒くまくしたてる彼女に私は思わず笑ってしまった。すると彼女は「何がおかしいんです」と口を尖らせた。それがおかしくて私はまた笑う。そうして二人の間には親密な感情が芽生えていった。
こんなところで立ち話もなんだ。中に入ってゆっくりくつろごうと言いかけた時である。
「ちょっと登紀子、なにこんなところで油売っているのよ」
と廊下から鋭い叱責の声が聞こえてきた。その途端、登紀子と呼ばれた仲居はびくんとすくみあがった。かなり怖い相手のようだ。
それから「し、失礼します」とぺこりと頭を下げると逃げるように駆け去っていった。あっけにとられていると入れ替わりに少し年かさの仲居が入口に現れた。
「お客様、彼女が何かご迷惑なことでもしでかしましたでしょうか」
と案じ顔で尋ねる。
「いや、ちょっと話に花を咲かせていただけだ。頼むから彼女を叱らないでやってくれ」
「そうですか。お客様がそうおっしゃるなら」
年かさの仲居は得心したようにうなずいた。
「ところであの仲居は登紀子さんというのかね」
「はい、下條登紀子と言います。それがなにか」
「いや、別に。ただちょっと気になっただけさ」
私は妙な勘繰りを起こさせないようすぐに話を切り上げた。しかし内心では喜びの感情があふれかえっていた。彼女の名を知ることが出来た。これで親近感がさらに増すだろう。この旅館にいるかぎり彼女にまた会える。私は長逗留しようと心に決めた。しかしその思惑は一本の電話によってかき消されてしまった。
早朝私は慌ただしく旅館を立つと朝一番の列車で東京へ向かった。母が倒れたという知らせが入ったのである。着いてみると一命はとりとめたが入院を余儀なくされたとのことだった。母方の親族に連れられて病院に向かうと母は病室でこんこんと眠っていた。病名は脳卒中だという。私は緊急時にそばにいてやれなかったことを悔やみながら母の手を握りしめた。
やがて母の意識は回復したが後遺症が残った。重い認知症にかかったのである。私は介護を引き受けることにした。父はすでに亡く、おまけに独身だ。頼れる親族も少ない。私は苦難の道を覚悟した。事実、それは身も心も擦りきられるような体験だった。生活のすべてを母に捧げねばならず、他はどれも犠牲になった。小説も書けなくなり、ましてはあの旅館のことなど思い出す余裕さえなかった。
そうして一年、二年と慌ただしく過ぎ、最早時間の感覚さえ失ってしまったころ、母は逝った。病気が再発してのあっけない最期だった。
葬儀万端が済み、すべてが終わったあと、私の心は放心状態に陥ってしまった。なにもかも失い、独りこの世にある。これからどうすればいいのか。思い悩んでいた私に妙案が浮かんだ。きっかけは一枚のはがきである。それはあの旅館からのものであった。なんでもリニューアルオープンしたとかで、ぜひお越しくださいと書かれてあった。それを見た私は彼女の名を思い出した。下條登紀子。彼女に会いさえすれば救いがもたらされるのでは。そう思うといても立ってもいられず、旅館に予約を取った。
旅館に着くと雪が舞い始めていた。チェックインを済ませ部屋に落ち着くと私はすぐにでも彼女に会いたくなった。それで支度に来た仲居に彼女のことを尋ねてみた。すると意外な答えが返ってきた。彼女はすでにこの旅館にはいないという。なんでも結婚を機に辞めたそうで、今はこの温泉街の一角に暮らしているという。子供も生まれたそうだ。
それを聞いて私は愕然となった。私の秘めた望みはあえなく散った。絶望のあまり私はすぐにでもこの旅館から退散しようとかさえ思った。しかしせっかくここまで来たんだ。一目なりとも会いたい。
私は仲居に彼女の家の場所を聞いた。仲居は不審げな様子だったが、とにかく教えてくれた。私は傘を借りると雪の降りしきる中、彼女の家へと向かった。
彼女の家は表通りから路地を入って少し奥まったところにあった。玄関の表札には『田中』と記されてあり下に夫と子供の名、そして『登紀子』という名が掲げられていた。それを見て私は彼女が結婚したということを実感した。憂愁の念に閉ざされながらも私は呼び鈴を押した。
するとほどなくして玄関の扉が開き、彼女が姿を現した。その姿を見て私は息を呑んだ。あの子供っぽい華やいだ雰囲気は全く消え失せ、人妻らしい落ち着いた様子が全身に漂っていた。
一方彼女の方はすぐには私だとは気づかなかったようだ。首をひねり、何かを必死に思い出そうとしている。それから数秒たってぱっと朗らかな顔になると「あ、神月光さんですか」と言った。
「そうです」
私は笑みを浮かべて返答した。
「あなたは随分変わられましたね。見違えるようですよ」
「神月さんも変わりましたよ」
「そうですか。それだけ年を取ったということですね」
そこで言葉は途切れた。それから先用意していた言葉は、もう無用になった。ただ笑みを浮かべるだけだ。彼女も微笑み返す。
するとその時奥から赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
「あら、おねしょかしら。すみません、ちょっと様子を見てきます。少しお待ちになってください」
潮時だろう。
「いえ、結構です。もう帰りますから。突然お邪魔して申し訳ありません」
「いえ、こちらこそ。なんのお構いも出来なくて」
そう言って彼女は家の奥へと消えた。私はしばしたたずむとその家をあとにした。雪は小止みになっていた。