苛烈なる闘争
エルクの宮殿。中層にある客室にて。
生まれて初めて寝転ぶ天蓋付きの寝床から、シェムシャーハは外の景色を見つめていた。
夜でも尽きない筈のエルクの町の活気。それが今は死んだように静まり返り、穏やかな虫の声だけが響き渡っていた。
そんな町を見るにつけ、シェムシャーハはいっそう思うのだ。
「これでよかったのよ。これで……。エルクの町をこのままにはしておけないんだから。だから、私はこれでよかったの」
普段の引きこもりがちな生活からわかるように、シェムシャーハは基本的に人付き合いが苦手だ。
人と話を合わさなければならない宴会などは基本的に苦手としているし、授業以外での会話は基本的に苦痛で……まっとうに会話しても大丈夫なのは、すべての言葉が教えになる弟子であるメシエトや、ネンキドゥくらいのものだ。
人嫌いとまではいかないが、人間と言うものに研究以上の価値を見いだしていない。それがシェムシャーハの偽ることのない内面だった。
だが、
「だとしても、私のせいでこの町の人たちが死ぬってなると、さすがに……ね」
存外自分にも博愛の精神は残っていたらしいと、シェムシャーハ一人、苦笑を浮かべる。
「それにしても、シェネ様の隠蔽はどうしてばれてしまったのかしら……いいえ、違うわね。バレてしまったことはこの際どうでもいいわ。問題なのはどうして今さらバレたのか?」
ネンキドゥと出会ってから、すでにかなりの時間がたっている。確かにあのときは少々粗相をしてしまったため、それなりの臭いが残っているはずだが、だとしてもこれほど長く臭いが残ることなど、あり得るのだろうか?
「雨だって降ったし……臭いなんてとっくの昔に流れきっているはず。なのに、一体なぜ?」
考えられる可能性は二つ。
一つは単純にフワウワの進化。神に近づきつつあるあの荒ぶる化け物が、わずかな痕跡を探り当てるほど嗅覚を強化した可能性。
だが、これは正直考えづらい。
ただでさえ強大なあの怪物が、これ以上力を求めるとは思えないし、あの怪物が目指しているのは自然神だ。嗅覚強化はどちらかと言うと獣の力であり、ここでその属性を強化してしまうと、獣の要素が強くなり、獣と言う概念をも含む自然神ではなく、格下の獣神に落ちる可能性さえある。
おまけに、ただでさえ強力な嗅覚が強化されてしまっては、悪臭に対する耐性も下がる。下手をすれば、悪臭と言う特大の弱点ができてしまう可能性すらあるのだ。
はっきり言ってその可能性は考え辛かった。
もう一つは、シェネがあえて、フワウワにシェムシャーハの侵入を伝えた可能性。
だが、
「一体なぜ?」
シェネは確かに、シェムシャーハにネンキドゥの教育を頼んだ。そして、それはまだ終わってはいない。
だというのに、このタイミングでシェムシャーハを殺すのは、はっきり言って不合理極まりない。
論理的に考えてあり得ないことに思えた。
「つまり、訳が解らないと言うことね。どっちにしてもあり得ない可能性ばかり……。考えるだけ無駄か」
というわけで――証拠も情報も足りなすぎる。これ以上考えても無駄だと、シェムシャーハは結論した。
「これでまだ生きられると言うのなら、もう少し考えてもよかったかもしれないけど、もう明日には死んじゃうし……」
悔いや無念を残すわけにはいかない。だから、彼女はすっぱりとそこで思考をきりかえ、ダラリと寝返りをうち、
「とにかく、私は明日エルクを救う。今はそれが解っていればいいわ」
そんな呟きを残し、彼女が眠りにつこうとしたときだ。
エルク全土が激戦し、大地が轟音と共に跳ね上がったのは!
「っ!」
衝撃のあまり宙に浮かんだ体にシェムシャーハは、目を見開く。そして、強かに寝台に体を打ち付けるように落下した。
この時代の寝台は、巨大な岩に申し訳程度の布を敷いて装飾したもの。通常の藁の寝床と比べれば上等なものだが、だとしてもその落下の衝撃を殺しきれる性能があるわけでもない。
当然の帰結と言わんばかりに、固い寝床に叩きつけられた彼女は激痛に悲鳴をあげた!
「一体なに!?」
当然のごとく、じたばたと寝台の上で悶え苦しみながら、シェムシャーハは不満の声をあげる。
人がせっかく最後の安眠を楽しもうとしているのに! と、至極正当な理由で、彼女は激怒したのだ。だが、
「し、シェムシャーハ!」
「この騒ぎは何ですか、エメネス様!」
真っ青になったエメネスが持ってきた報告に、彼女の顔は真っ青に染まった。
「わ、我が王が何者かと交戦中です! 相手は正体不明の輩でその……我が王とそっくりな姿になって、我が王と互角以上に戦っています!」
「――えっ?」
当然のごとく、人そっくりに化けてその人物と互角に戦う力を得る存在を、シェムシャーハはしっていた。
それは、
「あんのバカ! 人が一体誰のために!」
あの粘土の塊が変化した快活な怪物だ!
…†…†…………†…†…
巻き上がる粉塵を切り裂き、ギルガメスは宙を舞う。
だてにエアロの子供ではないらしい。その飛行は不自然な風や炎と言った上へ向かうための力など微塵も感じない、フワリとした自然な浮遊だった。
「掴み技が効くか。つまり貴様の回避は、直撃する箇所をよそに逃がすことによって成立すると言うことだ。ならば、逃げる余地なく体を押し込めれば、ある程度のダメージを与えられよう!」
そういうとギルガメスはさっと手を振り上げ、下ろす。
すると、上空の空気が瞬く間に蠢き、莫大な圧力と共に大地めがけて振り下ろされた!
が、
「ああ、すまないね」
土煙に隠れた怪物も、それを黙して見ていたわけではない!
「どうやらまだ、僕は君を過小評価していたらしい」
その言葉と共に姿を表したのは無数の家屋を巻き込みながら隆起してくるエルクの大地!
「ナニィッ!?」
圧縮空気の鉄槌を振り下ろさんとしていたギルガメスもこれには度肝を抜かれた!
同時に空気の鉄槌がほどけて消える。
それを見て、ネンキドゥは快活に笑う。
「さすがは名にし負うギルガメス王。民が傷つくかもしれない攻撃は避けるよね?」
「こざかしい真似を!」
「その怒りを見ればわかる。君は立派な王さまだ。なのに……」
その言葉と共に、隆起した大地が変化。
先程模倣した剣に変わり、
「どうしてあの人を守ってくれようとしないんだっ!」
その剣を、波のようにうごめく大地が弾き出した!
高速で迫る無数の剣軍。それに対し、ギルガメスは不可視の空気障壁を作り出し、
「おごるなよ、土くれ風情が! 貴様とフワウワの驚異が同等だとでも思うのか!」
硬質な音をたて、飛来する剣たちが次々と空気の壁に阻まれる。
だが、仮にも相手は絶対破斬の剣。
数度の激突の果てに空気の壁は水晶が砕けるような音共に粉砕される。
それを感じ取ったギルガメスは舌打ちを漏らしつつ手を一閃。
暴風を起こし剣軍を凪ぎ払い、その風の暴力の中から無数の矢を作り出す。
「あれはもはや人類に対する対抗装置としての役割を得つつある! わかるか土くれ? つまり奴は人類に対して絶対的な力を持っているのだ!」
怒号と共に放たれた空気の矢。元が空気であるためか、その矢は軽々と音の壁を引き裂き、尋常ならざる速度で、ネンキドゥに迫った!
だが、ネンキドゥはそれを平然とした顔で見つめるだけだ。
事実。それはネンキドゥに何ら痛痒も与えなかった。
ただ飛来する矢に合わせ、自在なる体を蠢かせるだけ。
それだけでは空気の矢はネンキドゥの体を素通りし、次々にその背後の地面につきたった。
だが、ギルガメスは攻撃の手を緩めない。
次々と空気を圧縮し、矢玉に変えて射出する!
それはもはや脅威を取り除くための攻撃ではなかった。
自身の攻撃が、自身の努力が、すべて無駄だと言う事実を認めないための、現実逃避の役割を持つ、子供の駄々のようだった。
「それがどういう意味かわかるか? それが一体どういうものか解るかッ!!」
「解らないさ! 一体それがなんだと言うんだ!?」
「ならば教えてやる! 人類に対しての脅威になると言うことは、奴は奴は人類に敗北することは認められないと言うことだ。そのため、やつにはある特殊な力が与えられた! 『人類種が行う攻撃、及び武装の無効化』。それが、長きにわたり俺達と戦い続けた奴が得た、最強無敵の盾だ!」
「なっ!?」
その事実にネンキドゥは思わす息を飲んだ。
それでは、確かにその事実は人が絶望するに足るものだった。
歯向かうことなど最初から諦めてしかるべきだ。
人には決して倒せない。それこそが、フワウワがもつ絶対特権。人に敗北してはならない存在が、人に敗北しないために得た力。それこそが、ギルガメスの諦観の理由だった。
「攻撃が通じ、すぐに攻略法が割れた貴様とは違う。俺が人である限り奴に勝つすべは……ない!」
ギルガメスが、そういった瞬間だった。
豪奢な刺繍が施された皮鎧をまとった戦士たちが、ネンキドゥの周囲を取り囲む!
「っ!」
「あくまで『それは違う。その程度軽く越えられる!』と言うのなら、示して見せよ! その珍妙な体でこの俺たちすら凌駕し、フワウワの試練を越えられると!」
戦士達の正体は、ギルガメス直属の王宮近衛。
ギルガメス自身が選定し、磨きあげたエルクの最精鋭。
ギルガメスが戦っているのを見て周辺住人の避難を行っていた彼らが、超常の戦いに参戦する!
…†…†…………†…†…
始めに行われたのは、一糸乱れぬ同時攻撃だった。
ギルガメスとネンキドゥの戦いを見ていた彼らは、当然ギルガメスが見つけたネンキドゥの弱点も認識している。
体がバラけ、衝撃が逃がされないよう、彼等は無数の武器によってネンキドゥを取り囲まんとした。
だが、
「甘いよ!」
弱点が割れたことなどネンキドゥは百も承知。だから、ネンキドゥは攻撃を受ける寸前、体を細く伸ばし、武器の間隙を掻い潜る!
「っ! 化けられるのは人だけではないのか!」
自身の槍に巻き付いた灰色の蛇の姿に、一人の近衛が目を見開く。
だが、そこは最精鋭。驚きながらも腕を動かし、シューシューと威嚇するネンキドゥに手を伸ばす。
だがネンキドゥの反応はそれ以上だ!
「この槍、もらうよ?」
「ぐっ!」
近衛の手が届くより早く、再び人の姿に戻ったネンキドゥの重量が、近衛の槍にのし掛かる!
さすがに鍛えているためか、槍を取り落とすことはなかったが、
「それ、吹き飛べ!」
「ぐあっ!?」
ギルガメスの姿に化け、その膂力を再現したネンキドゥの猛威には勝てなかった。
槍の半ばほどの握ったネンキドゥは、地に足をつけ力を込める。そうして、反対側にいた近衛を逆に持ち上げ、そのまま第二の攻撃を叩き込もうとする周囲の近衛達を凪ぎ払った!
近衛付きの槍の一撃を受け、木の葉のように凪ぎ散らされる近衛兵。
「なんだ、以外と大したことないじゃないか?」
「そう思うか?」
それを見て余裕の笑みさえ浮かべたネンキドゥの耳朶を、ギルガメスの冷然とした声が貫いた。
「ならば貴様はそこまでだ」
「っ!」
瞬間、得たいの知れない悪寒がネンキドゥに走り、彼の身を引かせた。
その直後、ネンキドゥが今までいた空間を灼熱の豪剣が撫でる。
そこにたたずむのは、獅子の頭をもした仮面をつける、一人の近衛。
だが、
「ばかな! 思考が読めない!」
「当然だ。それは王宮に装飾品を卸している一流の職人が手掛けた仮面だ。普段使いするにはいささか趣味が悪いが、仮面本来の役割である心理の隠蔽に関しては一級品以上よ。そして、貴様の弱点をもう一つ見つけたぞ」
そういいながら、地面に降りたギルガメスは近づいてきた近衛から同じ仮面を受け取り、それを目元につける。
「殴り付けた感覚や先程の変化の様相。そして、その嫌がりよう。貴様の自在なる肉体……その材質は粘土だな?」
「っ!」
「その自在性を剥ぎ取りかねない熱気に当たるのは、さぞかし苦痛だろう?」
ギルガメスがそういうと共に、吹き飛ばされた近衛の代わりに、今度は仮面で顔を隠した近衛たちが前に出てくる。
彼らの各々がわざわざ鍛冶場で熱してきたと思われる武器を携え、背後では無人になった一帯に火が放たれ、戦場となっている場を取り囲む。
みるみるうちに気温が上がり陽炎が立ち上る大地に、ネンキドゥの体からは環境とは真逆の冷や汗が流れ落ちる。
――これは不味い。
そう、本能から思い知らされたから。
「これが人の力――知恵の力だ。貴様を殺し、フワウワに踏み潰された力だ! その事実を、貴様の体に刻み付けてやる!」
憤怒の王が振るう人の力が、人ならざる怪物に牙を剥く!