怪物の憤怒
フワウワの憤怒が示された数時間後。
シェムシャーハの教室では、生徒たちの不安に満ちた囁きと、突如として乱入してきた兵士たちの静かな威圧が満ちていた。
「何ですって!?」
突如としてやって来た王宮からの使者。皮の鎧を着こんだ、その兵隊から届けられた知らせに、シェムシャーハは愕然とした。
その傍らでは、突如教室に乱入してきた兵士に抗議したメシエトが、兵士たちに取り押さえられ、床に叩き伏せられている。
そんな愛弟子の姿に抵抗は無駄だと悟ったシェムシャーハは、大人しく兵士たちの話を聞いていたのだ。
「フワウワが私を……」
「はい……」
「に、逃げることは!?」
「わが王はそれを望んでいません。何より……」
そこで兵士は言葉を切り、わずかに声を震わせながら、致命的な言葉を告げる。
「フワウワはすでに見せしめとして、森の近隣にあった集落を一つ、木々に飲み込ませました……。生存者の確認はできていません」
「それは……」
「そして、それは私の……私たちの故郷でもあります」
「ッ!」
最後に兵士が告げたその言葉に、シェムシャーハは思わず息を飲んだ。
兵士の目元には涙が浮かんでおり、確かな憎悪がその瞳に宿っていた。
「あんたが、不用意にあの化け物の住みかに入り込んだりするから……!」
「そ、それは……」
「我が王は、生け贄の当然の権利として、奴に引き渡すまであんたを丁重に扱えといった。だが、確実にとらえよとも言っておられた。逃げようなんて考えるなら、手足の一、二本は覚悟してもらうぞ!」
譲れぬ誓いを立てた兵士たちの視線に、シェムシャーハは悟る。彼のその決意を見込んで、ギルガメスはこの兵士たちを自分の元に送ったのだと。
――これは、逃げるなんて真似はできなさそうですね。
だからシェムシャーハは覚悟を決め、
「わかりました」
「っ! 先生!!」
悲鳴をあげるメシエトに笑いかけた。
「これ以上被害をだすわけにはいきません。理由がどうあれ、私があの怪物の森に入り込んだのは確かです」
「っ! それは……」
シェムシャーハのその言葉を聞き、メシエトは悟った。
このまま揉めていれば、やがて遊びにいっているネンキドゥが帰ってくる。
そうなれば彼(彼女?)は、今回の一件の原因が自分にあることを知るだろう。
そうなれば、自分達を家族と慕ってくれるネンキドゥは、フワウワに無謀な戦いを挑みかねない。
それだけはなんとしても阻止しなくてはならない。
ネンキドゥはもう、家族も同然。だからこそ、自分のためにその命を危険にさらすことは看過できない。
彼がシェムシャーハを守ろうとするように、シェムシャーハもまた、自らを犠牲にネンキドゥを守る決断を下したのだ。
「メシエト。まだ、色々教えたりないけど、動物生態学自体、まだ解らないところが多い。あとは、自分で実験しネンキドゥに通訳をしてもらいつつ、私の研究を引き継ぎなさい。羊に続き、牛と鳥の家畜化も目処がたちつつあります。まずは、それを済ませなさい」
「……わかりました」
「私がいなくなってから半年が勝負です。そこで有用性を示せれば、今回の不祥事による評価低下はいくらでも挽回が効きます。我が王にも口添えをしておきますから、頑張りなさい」
「……はい」
弟子にしておかねばならない指示を残した、出口を示す兵士たちに従い、シェムシャーハは堂々と教室の外に出ていった。
まるで自分には恥じ入るところなど何一つないと言いたげに。
…†…†…………†…†…
「今日はなんだか騒がしいね?」
エルクの町に満ちる静かな……だがしかし、確実に広がっている不安げな空気を、町に遊びに出ていたネンキドゥは敏感に感じ取っていた。
だか、彼はその原因を知ることはない。
王宮に刻まれたフワウワの要求は、人心を乱すということで巫女たちの術によって隠されており、今は見ることはできなくなっているし、人の心を読むのは失礼とシェムシャーハに教えられたため、ネンキドゥは人間に対する読心を自重している。
だからこそ、ネンキドゥは人間らしく、
「おじさん?」
「ん? あぁ。ネンキドゥの嬢ちゃんか。どうした?」
「それはこっちのセリフだよ。皆どうしたの? なんか浮き足立っているけど……」
「っ! そ、それは……」
とりあえず聞き込みをしてみることにした。だか、話しかけた肉屋の店主は困り果てた様子で黙りこんだ。
「おじさん?」
「いや……すまない。子供には話せないんだ。ただ心配するな。きっと我が王が解決してくださるさ」
「ふーん」
話せない。その言葉にたいしてネンキドゥは一定の理解を示す。
彼は生まれたての子供ではあるが、知的なシェムシャーハの肉体をトレースした以上、彼女の優秀な頭脳も模倣している。
大人がいう子供にはなせないという言葉には、ある程度全うな理由があることも……。
だから、ネンキドゥはそれ以上肉屋の店主を問い詰めることはしなかった。
代わりに、
「おじさんはずいぶんと王さまのことを信頼しているんだね?」
「そりゃそうさ!」
力強い、信頼を向けられている王と呼ばれる人物に興味を持った。
――そういえば、王さまについてはまだ勉強していなかったな。
と、いつも通り純粋な好奇心に突き動かされたのだ。
マエスも、もとはといえば王に預けられたのだという。いままでは、人について学ぶのに精一杯で疑問に思う余裕はなかったが、ここらで学んでおくのも悪くないと考えたのだ。
「王様――ギルガメス王は偉大な御仁だ。この国はもともと女神イシュルによって治められていたことは知っているか?」
「ごめん。先生は歴史は専門外だから……」
「あの人いつも動物ばっかと話してっからな……。まあ、それがあの人の仕事だしな。しかたねーか。でよお、とにかくこの国はもともと女神によって治められていたんだ。だが、ある時女神イシュルは最愛の男を失ってな。下界にすっかり興味を示さなくなっちまった。おり悪く、天空神様の休眠も重なり、下界は未曾有の混乱に包まれていた。そんなときにうまれ、彗星のように燦然と地上に輝いたのが、我が王だ!」
そういって、肉屋の店主が応急を指差すのに会わせ、ネンキドゥも、視線を動かし王宮の頂上を見た。
確かに、そこにはなにか強力な存在の気配が鎮座している。
――確かに王さまっていうのはタダ者ではなさそうだ。
そんな風に納得するネンキドゥを尻目に、店主は矢継ぎ早にギルガメスの功績を並べ立てた。
エアロの天命に頼ることのない就職体制に、大学府の設立。さらには、害獣駆除をはじめとした、人類に敵対的な種族の駆逐もなしとげ、フワウワを除く周辺驚異を完全に殲滅した。
それによりエルクは再び秩序を取り戻し、今のように発展したのだと。
「今のエルクがあるのは、すべてギルガメス王のおかげだ。あの王さまにできないことなんてない。きっと今回の件も、誰も不幸にならないよう取り計らってくださるさ」
「……そう」
知り合いである店主にそこまで言わせるギルガメス。
そんな彼に、ネンキドゥはシェムシャーハたちに次ぐ興味を抱き、こんな言葉を漏らした。
「いつか、会ってみたいものだね……」
そのいつかが、間近に迫っていることなど知らずに。
…†…†…………†…†…
夕刻。いつものような紅ではなく、曇天により薄暗くなっていくエルクの町並みを眺めたあと、ギルガメスは振り返る。
「お前には辛い判断を強いたな、シェムシャーハ」
「いえ、こちらこそ。お手間をお掛けして申し訳ありません」
そこにいたのは、両脇を兵士に固められたシェムシャーハだ。
彼女は翌朝には生け贄として捧げられるというのに、ひどく落ち着いた様子をみせ、ギルガメスの言葉に頭すら下げて見せた。
「……この俺を恨まないのか? 死ねと命じるこの俺を」
「もとはといえば、私がフワウワの森に不用意に入ったのが、いけないのですし……」
「……そもそも、貴様はどうしてフワウワの森になどいったのだ?」
「それは……」
ギルガメスの問いに、初めシェムシャーハは素直に答えようとした。
シェネに導かれ森のなかに入り、そこでネンキドゥに出会ったと。
だか、そこで彼女は思わず言葉を止めた。
――いや、おかしい。我が王はこの世すべてを見渡す目を持っている。私の動きやネンキドゥについて知らないのはおかしい。それを知らないってことは、シェネ様があえて王にバレないようにその事実を隠匿したということ。
シェムシャーハは神々の事情に関して詳しく知らない。彼女は畜産学者であって神官ではないのだから。
だからこそ、彼女はあえて沈黙を選んだ。
ここで自分が不用意な発言をし、シェネの目論見を崩壊させてしまえば、ネンキドゥにどんな沙汰が下るか解らない。
せっかくフワウワの脅威から守ったのに、それでは全く意味がないのだ。
だが、
「ふむ、言えないか」
「…………」
「俺も今お前が隠そうとしていることに関して見ることができない。つまり、貴様が守る秘密は、俺の力の由来以上の存在によって守られているということだ」
「――っ!?」
ギルガメスには、その程度の隠匿は通用しない。
即座にシェムシャーハの背後にいる存在に気づき、
「ということは、主犯は創世神ソートか、それに連なるものか……。神話の果てに消えた無精もの風情が、いまさら、俺の国になんのようだ?」
「あの、我が王?」
「さすがに口が過ぎますよ?」
創世神批判にためらわないギルガメスに、顔をひきつらせながらドン引きするシェムシャーハと、半眼になったエメネスの無言の圧力に、咳払いする。
「ごほん。とにかく、俺は民を守るためにお前を犠牲にする」
「はい。私も私の不手際の清算をするため、この身を捧げます」
「……後悔はないか?」
「無論ありますが、弟子は十分に育てました。やり残したことも、メシエトにならまかせられるでしょう」
「そうか……」
最後の確認を済ませ、ギルガメスは手を振り、シェムシャーハは兵士たちの指示にしたがい、ギルガメスに背を向けた。
「では、最後の遊興を楽しめ。生け贄として、王宮はそのすべてをもってお前を興そう」
「ありがとうございます。我が王」
最後に礼の言葉を残し、シェムシャーハは謁見の間から出ていった。それからしばらくして、ギルガメスは玉座の肘掛けを殴り付け、体を震わせる。
「ありがとうございますだと。自分を殺す存在にたいして、随分な言いようだ」
「我が王」
「恨み言の一つも漏らさぬとは……。これなら、無能めと罵ってくれたほうがよかった」
「……一人で苦しまないでください、ギルガメス王。シェムシャーハ様もきっとそんなこと望まれていないから、あのように仰ったのです」
「わかっている。わかっているが……これでは」
――俺は、何のために王になったのか……。
ギルガメスの後悔の言葉は、広い謁見の間に溶けて消える。
誰にも届かなかったその言葉は、まるで理想にとどかぬ今のギルガメスを表すかのようだった……。
…†…†…………†…†…
そうして、世界は動き出す。
一人の英雄を作り出すために、二つの闘争へと、加速していく。
始まりの闘争は、
「先生、遅いね……」
「っ!」
研究室において、いつものようにお土産を食卓に並べていた、ネンキドゥの呟きによって、静かに始まった。
「いくらなんでも遅すぎない? メシエトはなにか知らない?」
「せ、先生は……」
「ん?」
聡いネンキドゥは、一瞬よどんだメシエトの言動に、なにか得たいの知れない悪寒を感じ取った。
ここで、問いたださないと、なにか致命的な失敗をすると!
「ふぃ、フィールドワーク。そう、いつものようにフィールドワークに行かれただけだから、心配しなくても」
「メシエト?」
「大丈夫だ。きっと、きっと帰って来て……」
「メシエトッ!!」
「ッ!!」
いつもとは違う強い詰問に、メシエトは続けようとした言葉を思わず飲み込み、
「何を、隠しているの?」
「……ネンキドゥ……すまない」
――先生との約束で、お前には言えないんだ。
その言葉だけで、ネンキドゥの予感は確信に変わる。
そして、躊躇いなくメシエトの心を読んだネンキドゥは、食卓を殴り付けながら立ち上がり、
「ネンキ……どこにいくきだ」
「安心して。君に迷惑はかけない」
わずかな時間すら惜しいと、窓から飛び出し、通りへと飛び出した。
「ちょっと先生を助けてくる!」
月明かりに照らされる、荘厳な王宮を睨み付けながら。