子獅子のマエス
「まったく……ひどい目にあいました」
「まぁまぁ! そう落ち込まないで」
「誰のせいだと……」
フラフラとした足取りで、エルク市内大学府へと帰ってきたシェムシャーハは、デロデロドロドロになりみすぼらしくなった自分に、肩を貸すもう一人の自分の姿を横目に見て、大きなため息を漏らした。
当然のごとく、そのもう一人の自分とは、自分の姿に化けた粘土の怪物だ。
「はっきり言って、初対面であんなことやらかすような人の近くにいたくはないんですが……」
「あれはあなたにも責任があるでしょう? 蛇だった時は本気で握り殺されるかと思ったのですから」
お互いの責任の度合いで言えば五分五分ですよ。とフテェことを言ってのける怪物に、シェムシャーハの頬は引きつった。
そんな彼女の姿を見かけ、
「っ! 先生!」
驚愕の声を上げる一人の少年。シェムシャーハの弟子、メシエトだった。
どうやら教室前の掃除をしていたらしいメシエトは、フラフラと手を上げるシェムシャーハを見た後、声を震わせながら、
「三日間もどこに……一体どこに行っていたんですかっ!」
涙を流しながら、箒を投げ出しそのままシェムシャーハの元へと走り寄り、
「学長に無断休講のお詫びするのが大変だったんだぞコラァあああああ!」
「え!? ちょ、まって! 私はちが……!」
盛大な怒号と共に助走の勢いを乗せ跳躍。錐揉み状に回転しながら、それはそれは強烈なドロップキックを、元気そうな粘土の怪物に叩き込んだ! ……どうやら、シェムシャーハの恰好があまりにひどすぎて、綺麗な方の粘土の怪物をシェムシャーハ認定したらしい。
顔面をゆがめ吹き飛ぶ粘土の怪物からかろうじて逃げていたシェムシャーハは、そのまま粘土の怪物に馬乗りになり、顔面殴打しまくるメシエトを見て戦慄する。
――もしかして、私あれ食らっていたのかもしれないの?
この憔悴しきった体にそれはやめてほしいと考えつつも、いいかげん怖いもの知らずの極致にいる弟子を止めるべく、彼女は口を開く。
「あぁ、メシエト……その、ね?」
「なんですか、このコジキ女! 今はこのクサレ馬鹿に制裁加えるので忙しいんですよ!」
「誰がコジキだ!? 確かにデロデロドロドロで、到底人前に出られる恰好じゃないことくらい自覚しているが、仮にも君は弟子だろう!? 師匠の顔くらいちゃんと見分けなさい!」
「……え?」
その言葉に、メシエトはようやく殴打の手を止め、まじまじとシェムシャーハの顔を見つめる。そして、
「え? あれ? じゃぁこの人はいったい?」
「あぁ……一応暫くうちに居候することになる……なんだこいつは? いやほんとになんなんだ?」
「居候!? どうして!?」
「いや、本と話せば長くなるんだが……」
そうしてシェムシャーハは、フワウワの森で別れた生命の女神との会話を、メシエトに話し始めた。
…†…†…………†…†…
「つ、つまり私にこいつの教育係になれと……」
「まぁ、端的に言ってしまえばその通りなんだけど」
――さすがにここまで迅速に成長するのは予想外だったわ。
そんな言葉を小さくつぶやきながら、シェネはニコニコ笑いながら、人間の体を楽しんでいる粘土の怪物を横目で見つめる。
「この体すごいよ母さん! 力はいまいちだけど色々器用にできるし、何より妙な爽快感がある! 人の頭脳というモノは、これほどまでに世界を美しく認識できるものなんだねッ!」
「え、えぇ……」
吠えていただけのはずの怪物が、軽快な口調で喜びの言葉を発しているのだ。シェネが混乱するのも無理はなかった。
「いったい中で何をしたの? 時空間がゆがんで長い時間教育を施せたとか?」
「今の私の現状がそんな風に見えるんですか?」
「そうね……言ってみただけよ」
「体中の穴という穴に珍妙な物さしこまれて、頭の中ぐちゃぐちゃにかき回されつつも、それらすべてが快感に変わるというかなりの生き地獄でした……。シェネ様も一度味わってはいかがです?」
「え、遠慮しておくわ! (そうならないためにあなたを呼んだのだし)」
「聞えましたけど!? 今何かとんでもない言葉が聞こえましたけど!?」
という訳で、シェムシャーハにはもはやシェネに対する畏敬の念はない。彼女の中でのシェネの扱いは、自分をだましてここに連れてきた詐欺師のそれである。
「とにかく、目的は果たされたわ。本当はこの子にいろいろ教えてほしくて、教員のあなたを訪ねたのだけれど……もう必要そうな知識は大体そろっているみたいだし」
とはいえ、現在は用事自体が終わってしまったらしい。大人しく自分を返してくれる様子のシェネの言葉に、シェムシャーハは一瞬安堵の息を漏らした。
そう、
「えぇ~。私はまだ色々知りたいのですが……」
「言語が話せるだけで十分ですよ」
「えぇ~」
グシャっ! と、背中から生えた巨大な豹の頭が、とんでもない速さでシェネの横にあった大木を食いちぎるまでは……。
「――――っ!」
「えぇ~。私はまだ色々知りたいのですが」
あんまりすぎる事態に口をパクパクとしかできないシェネに対し、あくまで落ち着き払った態度で、粘土の怪物は同じ言葉を発する。
それを聞き、シェネは、
「も、もう仕方ないですね! でもその向上心、嫌いじゃありませんよ?」
「屈した! この上なく迅速に脅しに屈した!」
「ち、違いますよ! 脅しに屈したわけではなく、息子の向上心を話の分かる親としてですね」
「ウソだっ!」
布きれよりもスケスケすぎるシェネの態度に、シェムシャーハは思わず大声を出す。
それもそうだろう。ここでシェネレートが粘土の怪物の勝手を止めてくれないと、この物騒すぎる怪物の面倒をシェムシャーハが見なくてはならないのだ。それだけは絶対に御免蒙る!
だからこそ、シェムシャーハは語彙力を振り絞り、博覧強記な言葉の嵐でこの申し出を断ろうとしたのだが、
「あれ? ひょっとして……神様の言うことが聞けないんですぅ?」
「っ!? いいえ……そういうわけでは」
それを言われてしまってはもう逆らう術はない伝家の宝刀によって、あっけなくその言葉たちを叩き潰された。
…†…†…………†…†…
「というわけです」
「え、つまりこの人人間じゃないんですか?」
ひとまず都中央を流れる川の水浴び屋にて、汚れを落とし、二階の研究室にて一息つくシェムシャーハの説明に、メシエトは信じがたいと言いたげな視線を部屋中を探索する粘土の怪物に向けた。
その視線を感じ取ったのか、土器の器を興味深げに見ていた粘土の怪物は、美しい笑みと共に、ひらひらとメシエトに手を振る。
その姿に思わず頬を赤らめるメシエトに、
「……同じ顔なのに私の時と随分態度がちがわないかしら?」
「いや、だって先生、あんなにおしとやかな笑み浮かべられないじゃないですか?」
「よ~し! 喧嘩売ってんだな! 買っちゃうぞ? 先生かっちゃうぞ?」
事実は時として人を傷つける。怒り狂い、別の意味で頬を赤らめるシェムシャーハが腕まくりするのを無視し、メシエトはひとまず彼女が不在の間にたまった郵便物を開けていく。
「まぁ、事情は分かりました。シェネ様の命令とあれば断わるわけにもいきません。それに今はそっちよりも残った残務処理をしていただかなくては」
「あんな苦労をしてきたあげくさらなる苦労をしょい込んだ先生に、言うセリフがそれなの?」
「残務処理が終わればいくらでもねぎらって差し上げますが、仕事は待ってはくれないので」
氷のように冷たい現実の状態に、シェムシャーハの目元から涙が零れ落ちる。
だが、メシエトが言うように仕事は待ってくれないのも事実だ。
だから彼女は思い体を引きずり、まずは無断休講の始末書を片付けようとしたときだった。
「シェムシャーハ殿はおられるか!」
「「……はい?」」
突如教室の入り口から響き渡ってくる声。それに師弟が顔を合わせる中、なにやら面白いことを思いついたといった顔をした粘土の怪物が、
「は~い。私ですが」
「違うでしょう。はい、私がシェムシャーハです」
明らかに碌でもないことをたくらみながら素早く下に降りたので、シェムシャーハがそれを迅速に鎮圧。階段真下にいた粘土の怪物にドロップキックを叩き込みながら、床にたたき伏せる。
その光景を見てぎょっとしているのは、一階教室の入り口にたたずむ兵士だった。
「って、あら? 兵隊さん? 今はギルガメス王が獅子討伐に出かけるのについていってほとんど残っていないと聞いていたけど」
「ギルガメス王は本日帰ってこられました。今は宮殿にて旅の汚れを落としておられるところです。私もこの仕事が終わればそうする予定ですので、連絡を迅速に伝えたいのですが」
今御取込み中ですか? と、頭部を踏まれジタバタもがく粘土の怪物に兵士の視線が飛ぶ。それを見てシェムシャーハは外向けの愛想笑いをうかべながら怪物の上からどき、
「おほほほ! なんでもありませんのよ! チョット親戚の親の娘の子供の親友の兄の弟の叔父の親友のお兄さんを預かっているだけですので」
いや絶対嘘だろう。と、明らかに女の風体をしている粘土の怪物に、兵士は何か言いたげだったが、彼も獅子討伐で疲れていたのか、深く問いただすことはせず己が職務を全うした。
すなわち、
「ギルガメス王からの伝達です。今からに三時間後に、王宮へと登城するようにとのことです」
「……はい? なぜ?」
「それに関しては極秘事項ですので何とも。ただ内々に頼みたいことがあるとだけつげておきます」
言葉を濁した兵士の姿に、シェムシャーハはいよいよ不審なものを感じとり、顔をひきつらせた。
どうやら今日は自分の厄日らしいと。
…†…†…………†…†…
そして、二時間後。その予感は的中することになる。
「というわけだ。貴様に任す」
「……ほわい?」
疲れ切った体を引きずり、今日も仕事が終わらんのかと泣きくれるメシエトに申し訳なく思いつつ、それでもシェムシャーハは王宮へと登った。
そうしてたどり着いた謁見の間。
黄金によって装飾された玉座に座るギルガメス王から、とんでもないものを彼女は渡された。
「きゃうきゃう~」
「何がホワイだ貴様。当然の帰結であろうよ」
「いや、待ってください王よ。絶対に待ってください、あり得ないということがわからないんですか? というか皆殺しにしてくるのでは!?」
何やら妙に人懐っこい、子供の獅子を預けられたのだ。
「たまたまうちの兵士が隠して育ておってな。靠も人懐っこくては殺すのも忍びないということで、貴様に預けることにした。獅子の保護が望みであっただろう? それの調教がうまくいくようであれば、獅子などもはやおそるるに足らぬ。今後はむやみな乱獲は控えると約束しよう」
「いや、ちょっとまって……できるとお考えで?」
「無理か?」
「彼らは仮にも獣の皇ですよ!」
強靭な肉体に、大柄な体。こと体格で言えば像こそが至高と言われるが、肉を食み、積極的に獣を襲う彼らは、性格が大人しい象よりもはるかに懼れられ、そして力を持っていると思われていた。
それゆえに、ただでさえ未成熟な獣の調教技術を持って、獅子を躾ようなどと考える無謀な奴は今まで一人としていなかったのだ。
それをしろとギルガメスは命令している。反論の一つもしたくなるのも当然と言えた。
「彼らにとっては人間さえも従属させる獣の一つにすぎません! 今までは生活圏がかぶっていなかったからさしたる問題もおきませんでしたが、人の中で獅子を育てようなど土台無理な話」
「ほほう。では断わると? 王命を断るということか?」
「っ!」
だが、ここでも振るわれるのは理不尽な権力による圧力だった。
思わず言葉を濁らせるシェムシャーハに対し、謁見の間の両端に控えていた兵士たちが一歩前に出る。
その足音にびくりとシェムシャーハが振るえたのをしり目に、ギルガメスはあくまで冷徹な声で言い放った。
「まぁ、べつにそれでも構わんが……。残念だなシェムシャーハ。これがうまくいけば貴様の栄達も約束されたものであろうだろうに。そうか断るのか……仕方ないな。仕方ないな」
「あばばばばばばばば」
仕方ないというたびに、周囲の兵士が武器を構え、一歩一歩近づいてくる状況に、シェムシャーハ震えあがりながら、
「お、王命。謹んで拝領したいと思います」
「うむ。お前ならそういってくれると信じていたぞ?」
エルク民……やめようかな。と、内心で思いながら、涙を流しつつ、シェムシャーハはゆっくりと頭を下げギルガメスに満足げな笑みをうかべさせるのだった。
…†…†…………†…†…
「という訳で居候二号よ……」
「……はぁ~~~」
「仕方ないでしょう!? 仕方ないでしょう!? どうすればこの事態を回避できたというの!?」
深夜。シェムシャーハの研究室に響き渡ったメシエトの溜息に、シェムシャーはブチギレながら机を殴りつける。
彼らの横では妙に粘土の怪物になつく獅子の子供が、粘土の怪物に遊んでもらっており、なにやら和やかな雰囲気を醸し出していた。
人外同士なにやら通じるものがあったのだろうか……。
「で、どうするんですか? 獅子の調教なんて……」
「やれって言われた以上やるしかないでしょう。でも実際どうしたものかしら。犬や猫にだって脳みそはあるだろうと何度か試したことはあるけど……」
「どれもあまりうまくはいきませんでしたからね」
「わかったことと言えば、犬猫であっても頭の出来に違いがあるってことくらいで……」
そしてそれと同時にわかったことは、警戒心がない獣は基本的に馬鹿ということくらいである。
当然だ。野性を生き延びるために必須である警戒心を自ら投げ捨てている時点で、あまり利口な獣とは言えない。
その観点から言うと、ギルガメスから預けられた獅子は、決して頭がいい部類とは言えず……。
「調教は難航するでしょうね……」
「はぁ。まったく、なんであんな脅しつけるようなまねを。いや、そうでもしないと引き受けてくれないと理解していたからね? あの王様、調教終ったって言って無調教のあの獅子嗾けてやろうかしら」
「普通に暗殺計画たてるのやめてくださいよ」
うまくいきそうな分たちが悪い。と、頭痛を覚える頭を抱えるシェムシャーハに、メシエトが顔を青ざめさせる。
そんなときだった。
「きゃう? きゃう?」
「あぁ。そうだよ。君の頭の出来を疑っているらしい。ひどい話だ」
「きゃう! きゃうきゃう!」
「なるほどそれがいい! そら、ジャンプだマエス!」
「きゅう!」
「おすわりだマエス」
「きゃう!」
「三回回ってきゃうだ!」
「きゃうきゃう!」
「「―――――――――――――っ!?」」
信じがたいことに、粘土の怪物の言うことを素直に聞く獅子という珍妙奇天烈な光景が、目の前で繰り広げられていた。
「ちょっと待ちなさい。え、待ちなさい。何したの今!?」
当然ごとくあり得ない事態に、シェムシャーハが声を上げる中、粘土の怪物はあっけらかんと言ってのける。
「先生が経験したように、僕触れた獣の肉体構造を読み取り自分でそれを複製学習することができる。僕が先生を無茶苦茶にした後、人の姿になり話せるようになったのもそのためさ」
「え、無茶苦茶って……」
「今その話はいいのよ! それで、それが何!?」
「まだわからないかい? 私はさっきまでこの獅子の子供と触れ合っていた。そうすることによって彼らの意志疎通方法を覚え、この子とさっきまで会話していたんだ」
「……え、私の時と随分違うくない?」
「そりゃ今の私は前と違って格段に頭がいいからね。あの時は全身ありとあらゆるところに触れて調べないと分からなかったことが、今は手先に触れただけで読み取れるようになった。ほんと、人間の頭は素晴らしいね」
そんなことを良いニコニコ笑う粘土の怪物の言葉に、ぐったりとシェムシャーハはへたり込む。
――つまり私以外の人間に先に出会っていてもらえれば、もう少し友好的な出会いができたってことじゃ……。いや、ポジティブに考えなさい私! 今は起こったことよりも、これからのことを考えるのよ!
そんな師匠の苦悶をしり目に、メシエトは言う。
「えっとつまり、粘土さんはその獅子と会話ができ、言うことを聞かせられると」
「まぁ、端的にいうとそうだね。できるのは通訳までだから、彼を完全に従属させるには、君たちがそれのふさわしいふるまいをするほかないけど」
「きゃう!」
年度の怪物の言葉に同意するように吠えた子獅子の姿に、心底信じがたいものを見た様子で、メシエトは息をのむ。そして、
「先生、先生! 光明が見えてきましたよ!」
「はは、そうね。怪我の功名とはまさにこのことでしょうよ」
「先生、字が違います!」
こうして、シェムシャーハと弟子と、怪物と一頭の子獅子の奇妙な同居生活が始まった。
その全員が、のちに神話として語り継がれる偉人に名を連ねることになるのだが……今はとにかく、
「まぁ、不安事がなくなったのならそれでいいわ。お腹すいたしご飯にしましょう」
「はい先生」
「私は、鹿肉と香草の煮込みが食べたいな。シェムシャーハ先生の好物なんだろう?」
「きゃうきゃう!」
「ちなみに彼は、黒牛の生肉が食べたいそうだ」
「贅沢言わない! 肉はなんでも高いんだからねッ!」
割と図々しい居候二人の腹を満たすため、腹ごしらえを始めることにしたようだ。
未来の不安は数多くても、人は腹さえ満ち足りれば、大概の不安は消し飛ばせるのだから。