開幕:森の試練
イシュルが作ったバビロニオン最大の都エルク。
その北方には巨大な山脈が横たわっている。
神秘の連峰にして、神々すら畏れ敬う生命の集合体――エボフの山脈。
その山々の主の名から名づけられたその連邦は、人間たちの侵入を固く拒みに、それ以外の生物たちの安住の地を提供していた。
そんな深い山々の中を、一頭の狼が歩いていた。
その狼は、神が如き存在でありながら神ではなく、只静かに森の中を歩き……自らの腹の中をゆっくりと見回っている。
ひどく美しい新緑の毛皮に、狼特有の鋭い顔つき……そして、ひとたび開けば苛烈な怒りの炎を宿す真紅の瞳を閉じ、狼はただ……森の中を歩いていた。
その時だった。腹の中に穴があけられるような不快な感触を覚え、狼の目がわずかに開く。
『……またか』
――あの身の程知らずめ。
狼が吐き出したその言葉は、明らかな怒りに満ちていた。
狼はそのまま方向転換し、不快な感触が感じられる場所へと、風のように疾走する。
そして、それは見えてきた。
自らの本体である山に、不快な鋼の道具をふるい穴をあけようとする愚か者たちの姿が。
『貴様らっ! 懲りずにまた来たかっ!』
「げっ! エボフの主!」
愚か者たち――人間たちは、狼の姿を見て慌てて逃げ始める。
だが遅い。全力疾走した狼から、人間が逃れられるわけもない。
一人の逃げ遅れた人間めがけ、狼の牙が襲い掛かる!
が、
「させないわよっ! マアヌルァ!」
天から降り注いだ光の槍が、狼の脳天を打ち抜いた!
新緑の毛皮によって狼は無傷。だが、攻撃の妨害は成された。
ガチリと音を立てて空を切る牙をしり目に、逃げ遅れていた男は一目散に逃げ、代わりに、
「ようやく出てきたわね、この不感症の犬っころっ! 今日こそ決着をつけてやる!」
『それはこちらの台詞だ、下劣なバイタ風情が! 今日こそ逃がさんぞ!』
「に、逃げているわけじゃないし! 戦略的撤退だし!」
『それが逃げていると言っているのだ、貴様ぁあああ!』
最近しつこく山を貫くトンネルを掘ろうとやってくる天空の女神――イシュル。
その身勝手な態度に憤りながら、新緑の狼は再び天にめがけて牙を剥いた!
彼の狼の名はエボフ。
大山脈の主、エボフ山の化身にして――エボフの山そのものである山の主だ。
…†…†…………†…†…
巨石によって作られた巨大な階段のような神殿。
その頂上に作られた一室にて、ひとりの美女が横たわっていた。
「イタイ、イタイ、痛いぃいいいいい! なんであのバカ狼、マアヌルァの光の槍食らっても死なないの! どう考えてもおかしいわよっ!! 最終的にマアヌルァの特攻かましてやったのにびくともしてないしぃ!」
「また無茶な戦い方を……」
体のあちこちに痛々しい生傷をつけ、自分の膝に頭を乗せながらのた打ち回る主――イシュルの姿に、彼女の眷族――知恵の神ナーブはため息をついた。
「おかげで船大工たちが困ってましたよ? また修繕費が……って」
「うっさい! 勝てなかったんだから仕方ないでしょう!!」
「まぁ、あれはもともと武器として使うものではありませんしね」
あの船はもともと、エンリゥが作った天へと至るための船だ。武装を一応積んではいるが、あれはあくまで防衛用であり、攻撃用と言われると首をかしげざるえない威力しかないものである。
もともと攻撃力は、エンリゥ自身が補うつもりであったあの船に、攻撃力を求めてはいけないのだ。
「なんかいい知恵はないの、ナーブ! いい感じの、狼をぶっ殺せる感じの!」
「一応女神なんですから、そんな物騒なこと言わない。というか、むしろもう諦めたらどうです? ぶっちゃけなくてもいいですよね、トンネル……」
「ダメよっ!」
ナーブの言った通り、このトンネル建設事業は正直に言えば必要のない行いだ。
山岳の反対側にあるニプリスの都。そこが過疎化し始めたことを憂いたイシュルが、エルクとニプリスをつなぐ通路を作ろうと、この建設業を始めたわけだが……はっきり言って、エルクは現在発展し続け、自給自足が可能な場所へと変わりつつある。
わざわざニプリスとの通路を作り、行き来を盛んにする理由がないのだ。
だが、
「ここでニプリスという防衛拠点を得られれば、山脈の向こう側からの品だって、続々エルクに入ってこれるのよ! エルクのさらなる発展のためには、なんとしてでも山を安全に通行できる通路が必要なの!」
「なるほど……で、本音は?」
「エンリゥが発展させていた都市が、私の代で没落し始めているのよっ!? つまりアイツごときが発展させられた都を、私は発展させられなかったなんて……そんな事実は、あいつに勝った神として許容できないわ!」
「はぁ……」
それらしい理由をつけていたが……要するに一番の理由は見栄の問題であるらしかった。その事実に頭痛を覚えたナーブは頭を抱える。
そんな幼稚な欲望のために、エルクの土木職人たちを危険にさらしているのかと思うと、涙さえ出てきた。
だが、この女神は一度言い出すと聞かない。このトンネル工事に参加している連中も、じつはイシュルに誘惑されて一度褥を共にしてしまっているスケベ野郎たちで、イシュルと寝た対価としてトンネル工事に従事しているのだ。自業自得と言ってしまえばそれまでなのだが……。
――見捨てるわけにもいかないしな。
とにかく、あの土木作業員たちは、トンネルができるまで、イシュルから逃れることはかなわない。
――つまり、早いことあのトンネルを完成させないと、このバカ騒ぎはいつまでたっても続くということか。
その事実を認識したナーブは、自分のひざまくらの上で唸り声を上げながら、「いいから慰めてっ! いろいろ頑張った私をねぎらって!」と、わがままを言ってくる主をよそに、懐から取り出した石板を起動した。
「あ、それソート様からもらった代物でしょう? なんかいい案でも考えてくれるの?」
「そうでもしなきゃ、イシュル様はいつまでたっても生傷が絶えないでしょう?」
「なに? 抱くとき傷が見えたらちょっとやりづらいから?」
「よいしょっとっ!」」
「あぁ! 何勝手に立ち上がってんのよっ! 返して! 私の膝枕返し、ブッ!」
「俺の膝は俺のもんでしょうが……」
ナーブが立ち上がったことにより膝枕を失い、顔を強かに床に打ち付けるイシュル。そして、赤くなった鼻を押さえ床でのた打ち回る彼女に呆れながら、ナーブは石板が提示した対抗策を読み上げる。
『レベルも、ステータスも足りているのに敵が倒せない? それはきっと武器が悪いからだね! 強力な武器を手に入れよう! あ、武器は『装備』しないと意味がないぞぅ!』
「…………」
――なんか神霊になってから、妙に気やすいんだよな、この石板。
と、ナーブは石板が起こした微妙な変化に首をかしげながら、涙目になって立ち上がったイシュルの質問に、
「つまり、どういうことよ」
「新しい武器を手に入れろってことですね」
答える。
「神霊の武装と言えばリィラ様ですかね。ちょっと私がエアロジグラッドに戻って聞いてきましょうか?」
「はぁ!? 私の武器を作ってもらうように頼みに行くんでしょう! それなら私が行くわよっ!」
おば様に失礼は働けないでしょう! と、意外とそういうところの常識はあるらしいイシュル。
彼女の言葉にたしかにと頷きながら、
「ところでイシュル様……」
「なによ?」
「おば様はやめておいた方がいいかと?」
「え? なんで?」
「なんでもですよ」
神になってから感じられるようになったエアロジグラットの気配が、一気に物騒になるのを感じとり、思わず半眼になるのだった。
…†…†…………†…†…
エボフの山脈から見える広大な田園地帯。
それを山脈を形成するある山から見下ろしていた狼――エボフの主は、嘆息と共に見下ろした。
「まだ広がるか……人間」
その発展は目覚ましく――そしてあまりに身勝手だった。
すべては自らの生活を良くするため。人が更なる力を手に入れるための行い。
そのために大地を削り、そのために河の形を変え、そして不用な木々や草を斬り払い――焼き尽くす。
文明の発展のためと言えばそれも結構。神々に愛された種族だ。多少傲慢になるのも仕方ないと狼は独りごちる。
だが、
「だからと言って、いつまでもその勝手を通させるわけにはいかない……」
彼は山脈の主。山を守り、山を山であり続けさせることこそが使命。ゆえに、
「かつて我らと共にあった者たちよ。そして、神々の手によってその袂を分かった愚か者達よ。お前たちの暴走はこの山脈で止める。何もかもが貴様らの思い通りになるわけではない。その事実を我が刻みこんでやろう」
《森の主》にして《杉の王》フンバニアと並ぶ、エボフの《山の主》。
閉じられた瞳は今開かれ、灼熱の紅い瞳が輝く。
同時に、黄金の流星がエルクからとびだったのを見て、彼は口元に不吉な笑みを浮かべた。
「では……始めるか」
その言葉と共に彼は山の大地へと沈み、木々は静かに事の訪れを待つこととなった。
たとえそれが、自らを焼き滅ぼすことになろうとも……木々が山の主を止めることはなかった。
…†…†…………†…†…
「《森の試練》なんて名前の割には、舞台は今回山だよな……」
「それ言っちゃいますか……。今までだって試練の内容は名前と絶妙に外れていたし、気にしちゃいけませんよそこは!」
下界で起こった一連の騒動を天界で見ていたソートたちは、ひとまず今回の事の起こりに対して意見を交わす。
「試練の内容としてはエボフさんの山の主の屈服と言ったところでしょうか?」
「討伐じゃないのか?」
ゲーマーとしては当然の発想に至ったのはU.Tだった。
確かにあの山の主は、ゲーム的に見れば討伐すべき怪物の一つだ。殺してしまえるならそれに越したことはないと考えるのが妥当だろう。
だが、
「難しいでしょうね」
そう言ってシェネが開いたステータスが、その意見を見事に封殺した。
「うわ、なんだこのHP?」
「ひょっとしたら俺達――プレイヤーよりも高いんじゃないか? 現在進行形で増えているみたいだし……」
億どころか、そこから桁が二つ三つほど違う数値をたたき出している山の主のHPに、ソートとU.Tは顔を引きつらせる。
「このHPはおそらく彼の狼が持つ《山の主》という称号が原因ですね。彼は山脈の支配者なのですから、山脈に息づくありとあらゆる生命体を統括する存在だと言えます。その生命力……つまりHPが彼に流れ込んでいる状態なのでしょう。化身ということで、そのほかのステータスは軒並み、一般的な神格程度まで下がっているようですが」
それでも、一般的な神格のステータスというのはかなりの数値だ。さらにこれだけのHPを持つ存在なら、イシュルが苦戦するのも頷ける。
「要するにレイドボスか。そんでイシュタルはそれに挑むために新しい武器を欲していると。で、こっちとしてはアシストどうするんだ? 前みたいに下界に殴り込みか?」
「……下りてばれたらデスペナルティ待ったなしだからな。できればそれは避けたいが」
「こちらからアレに対抗できる武器を送るのはどうでしょう?」
「う~ん」
確かに、考え得る対抗策としてはそれが一番手っ取り早い。幸いなことにこちらにはシェネがいるし、かなりの高レアリティ武器の作成が可能だろう。だが……。
「それがベスト何だろうが……イシュルに、そんな兵器与えて大丈夫かな?」
「「……………………」」
ソートの懸念に対する二人の返答は無言だった……。
何も言わない二人だったが……その沈黙こそが何よりも雄弁な答えであるように、ソートには感じられた。
結論として、かれらは再び様子見という選択をとる。
――リィラがましな武器を与えてくれるならそれでよし。無理そうならこっちから介入すればいい。なんならナーブに武器を与えても……よくよく考えたらそっちの方がよくねェ?
という結論に達した。
その様子見が、後々とんでもない事態を引き起こすなど知らずに……。