善人の懺悔
エンゲルは見つめる。
彼女が助けるよう言われた英雄と、その因縁の相手の邂逅を。
ここに来る前はあれほど憤っていたマルアトだったが、不思議と今は落ち着いているように見える。そして、いっそ平坦に聞こえる凪いだ声音で、眼前の敵――セントに話しかけた。
「随分な街を作ってくれたものだな。ここに来るのにどれだけ苦労したと思っている?」
「俺とて、望んでこんな街を作ったわけじゃないさ」
「なに?」
「いや。いまそれはいいか。さっきの雨でどちらにしろ、この町はもう崩壊する。俺がこの町を作った真相がどうであったかなど、文字通り水に流されてしまった後だ」
そういうと、玉座という割には石を切り出し椅子の形にしただけの質素な椅子に、足を組みながら座っていたセントがゆっくりと立ち上がった。
「あとに残る仕事はただ一つ、この町を作った罪人を裁くだけ。そうだろう、マルアト?」
「……よくわかっているじゃないか、セント」
ゴン。と音が響き渡った。
エンゲルがそこに目を向けると、マルアトが背負っていた石板が降ろされ、床を砕いていた。
対するセントからは金属がこすれる音が響き渡っている。
「――っ!」
その音を聞きセントをじっと見つめたエンゲルは、思わず息をのんだ。
背中から黒い鎖が生えている。
セントが歩みを進めるにつれ、玉座から吐き出される無数の鎖。
それは一歩、さらに一歩と進むごとに長さを伸ばしていき、果てなどないのではないかとマルアト達に錯覚させた。
そして、部屋の中央までやってきた時漸く鎖の先端が玉座から吐き出された。
鏃のように鋭利な先端を持つ……黒鋼の凶器。
それはまるで蛇のように勝手に動きだし、そのとがった先端をマルアトに向ける。
「ま、マルアト様。あれ」
その凶器はどういうわけかエンゲルの心をかきまわした。
見るだけで鳥肌が立ち、それに狙われていると思うだけで怖ろしかった。
だが、マルアトはどういうわけかその恐怖を感じていないようだった。
ただつい先ほどまでと同じように、さして気にした様子も見せず、自分に縋り付いたエンゲルの頭を撫でて一言呟くだけ。
「下がっていろ、エンゲル殿。援護には感謝しているが……ここから先は、俺以外の誰かに任せるつもりはない」
そして、マルアトはエンゲルを部屋の入口へと突き飛ばし、エンゲルが入口から外へ出た。瞬間部屋の出入り口の扉が閉まり、
「始めるぞ」
「待ちくたびれたよ」
空気を切り裂く鎖たちの猛攻が、エンゲルに襲い掛かった!!
…†…†…………†…†…
「どうなっている!?」
「ま、待ってください! 今下界の様子を映しますから!!」
「お~い。俺は放置か?」
天界に帰ってきたソートの怒号を聞き、シェネは慌ててマルアトとセントの戦闘を画面に映し出した。
そんな彼らの背後では、招待者であるソートの帰還によって、同じく下界にいられなくなったU.Tがため息をついているが、それは些細な問題だ。
とにかく今はマルアト達が心配だという心理が……ソートの言葉にありありと浮かんでいた。
そして、開かれた画面では、
「まずいですね」
「もう一度下界に!」
「無理です。《神霊の杯》のリキャストタイムが長いのは知っているでしょう!」
「おぉ、なかなか派手な戦闘してんな……」
おびただしい量の鎖の刺突から逃れるので手いっぱいになっている、マルアトの苦戦する姿が映し出されていた。
…†…†…………†…†…
神聖なシャマルの力のバックアップを受け、超人的な身体能力を、浄罪官は得ることができる。
実際マルアトはその術式の適正が高く、浄罪官随一の身体能力を持っているといわれていた。
だからこその先ほどの蹂躙。術式のバックアップを受けた状態なら、軍勢を相手取ってなお平然と切り抜けられた。
だが、そんなマルアトをもってしても、
「これはさすがにしんどいな!!」
数千数万と増えていく鎖の群れによる攻撃を、しのぎきるのは難しかった。
結界を張り一時的にインターバルを得ようとする。
数秒もたたぬうちに光の壁は砕かれた。
天井の一部が崩れて落ちてきた瓦礫を盾にする。
同時に数百の鎖の刺突が突き刺さり、粉みじんに砕け散った。
石板で直接殴りつけた。
軌道が変わっただけ。すぐ軌道を修正しこちらを狙って襲ってきた。
――こりゃ防御は愚策だな。
何度か行った防御策をことごとく破壊してきた鎖たちに対し、マルアトはそう判断を下す。
結果できることは。
「はははは! どうしたマルアト! 逃げるだけか? それじゃ決着はつけられんぞ!」
「ぬかしやがれ!!」
ひたすら回避する。その一点に尽きる。
跳ね上がった身体能力を使い、走る、趨る、疾る!!
縦横無尽に円形の部屋を駆け抜け、時には壁すら疾走し、マルアトはセントの攻撃をかわし続けた。
やがてセントから延びる鎖たちは渦を描くような軌道のみになり始め、動きは徐々に単調になっていく。
――これならっ!
「なるほど、鎖が来る方向を限定したいのか? だが甘いなあ。人間には知恵があるんだよ?」
「――っ!」
狙いは即座に見抜かれた。
マルアトの進路を阻むように、いくつかの鎖が彼の眼前に突き立つ!
それによって円形疾走が無意味になったことを知ったマルアトは、即座に作戦変更。
走っていた壁から飛び降り、一直線に背中を向けたセントに向かって突進する!
「破れかぶれとは……意外だな。つまらない男になったものだ!」
「余裕こいてろ、犯罪者。俺としちゃお前がまだ自分を人間だと思っていた方が驚きだ!」
「確かに。さっきのは失言だった」
にやりと笑いながら振り返ったセントの背中から、津波のような鎖が飛び出してきた。
到底よけきれないほどの密度と速度。突進するために加速しているマルアトにはなおのこと回避は難しい。
だから、奥の手を使う。
「罪を裁け」
「――っ!」
「罪には罪を!!」
襲い掛かってくる鎖を、マルアトは無防備に受け入れようとした。
逆に、攻撃を慌てて止めたのはセントの方だ。
致命となる一撃は、セントの意思によってすんでのところで止まった。
だが、マルアトの足や肩、腕や頬と言った個所には無数の裂傷が走り……即座に消えた。同時に、セントの同じ個所に同じような傷を作り上げる!
「ぐぅ! ハンムラビ経典の等価罰術式か!」
曰く――目には目を。歯には歯を。罪を犯した人間には同じだけの損失を与える、ハンムラビ法典の根幹を担う最強の概念。
それによる加護を得た浄罪官は、振るう武器を犠牲にすることで、一度だけ自らの傷を与えたものに転写することができる。
致命傷を負うこと覚悟で放たれる、浄罪官最強の奥の手。
だがしかし、
「これでその術式はもう使えないだろう!」
マルアトが引きずっていた石板が、彼の背後で砕け散る。
「俺の勝ちだ! 武器のないお前に何ができる!」
「そうか? そう思うならやってみろ!」
いまだ疾走を辞めないマルアトの挑発を、セントはただのハッタリだと判断。
ためらうことなく残った鎖たちをセントへ向けて射出する。
だが、
「え?」
予想よりも速く、想定よりも鋭い踏み込みによって、放たれた鎖を置き去りにし、マルアトはセントの前へと到達していた。
「てめえを裁くのに、シャマル様の術式は必要ねぇ」
「――っ!」
「歯ぁ、食いしばれ悪党。ここからが本番だ!」
マルアトの握りしめられた鉄拳が、セントの顔面をうがち貫いた!
…†…†…………†…†…
『な、なんだ今の?』
「あ、Gebieter。ご無事でしたか?」
『あんまり無事ではないけどな』
そのころ、部屋の扉の前では、仕事を強制的に放棄させられたエンゲルが、非常に困った様子で何とか扉を開けられないかと頑張っていた。
だがあいにくと、扉には強力な封印が施されているのか、エンゲルの細腕で無理矢理開けることはかないそうにない。
そんな彼女に、神器としてつながりを持っていたソートからの念話が届く。
『ったく、啓示ができなくなっているからどうしたもんかと思ったが、やっぱりお前を作って正解だわ、エンゲル。今どんな感じだ?』
「ja。あまりよろしくはありません。支援すべき英雄と切り離され、戦場への侵入は困難です」
『だろうな。シェネ、中の様子はどうなっている?』
『一応マルアトさん有利のようですね。装備重量の大半を担っていた石板を失って、敏捷値が二つほど上昇しています』
『それなんてドラゴン○ール? 石板どんだけ重かったんだよ』
『ちょ、U.Tさん静かにしてください! とにかく、打撃力は減りましたが、鎖の攻撃をよけ続けるのに支障はない数値……』
――よかった。どうやら英雄は無事のようだ。
念話通信越しに届けられた情報に、エンゲルはほっと安堵の息を漏らし、胸をなでおろした。
だが、
『え、嘘』
彼女の教師であったシェネがつぶやきを漏らした瞬間、その安堵は霧散する。
『どうした? 何があった!』
『ま、マスター。大変です。敵が……セントが打撃を受けてなお、ダメージを受けていません!』
『?? それだけ相手の防御力が高いってことか?』
『違います! ステータスを見る限り、セントの身体能力は高くはありますが、あくまで常識の範疇です。成人男性の全力の殴打を食らえばそれ相応のダメージが入ります。でも……彼のHPは数ドットも減っていない!』
――理由は……スキルによるダメージの無効化。セントはある一定条件を持つ者に対して、そのスキルを発動させることができます。
シェネが告げたその言葉に、エンゲルの体がブルリと震えた。
そしてなぜだか胸をかきむしられるような不思議な感覚に襲われた彼女は、手銃を扉に向け、即座に光魔法を扉に叩き込む。
焦げ跡がついただけだ。なら、破れるまで攻撃する。
淡々とそれを繰り返し始めたエンゲルの脳内で、シェネは致命的なひと言をエンゲルに届けた。
『悪属性を持つ者。その存在の攻撃を、セントの《極悪》スキルが無効化したんです!!』
強くなった光魔法で、扉は見る見るうちに歪んでいった。
…†…†…………†…†…
「なん……だと?」
自分の全力の殴打に対し、セントは吹き飛んだだけだった。
殴られた個所には痣一つすらできていない。
口を切った様子もなければ、骨に痛みが残っている様子すらなかった。
その事実に、マルアトは初めて、戦いのさなかだというのに呆然としてしまった。
だが、それよりも驚いているのは、
「……は?」
殴られた方のセントだった。
猛攻をかけていた鎖たちは、まるで力を失ったかのように地面へと崩れ落ち、床に転がっていたセントは、そっと自らの頬に手を触れる。
殴られたはずなのに、傷一つない自らの頬に。
その事実を認識した瞬間、セントは震えた声を放った。
「ふ、ふざ……ふざけるなよ。おまえ、マルアト。どこで……どこで道を踏み外した!!」
「セント……」
「どこで踏み外したと聞いているっ!!」
瞬間、力を失っていたはずの鎖が素早くマルアトの足に巻き付き、その体を振り回し始めた!
「――っ!」
体にかかる負荷にマルアトが声にならない悲鳴を上げる中、怒り狂ったセントの怒号が部屋中に響き渡った!
「どこだ、どこで踏み外した!」
壁にたたきつけられる。
「お前だけが……お前だけが権利を持っていると思ったのに!」
そのまま壁をえぐるように引きずられ、体を削られる。
「お前なら俺を悪と断じてくれると! 悪だと裁いてくれると信じていたのにっ! なんだそれは……何なんだ、その堕落は!!」
部屋を一周し、もはやマルアトの体は血まみれだった。
だが、セントは追撃の手を緩めない。
ぼろ雑巾のようになったマルアトを、駄々をこねるように何度も何度も床にたたきつけながら、そこからあふれかえる血の池を拡大していく。
「いつから悪なんてものにおもねるようになった! いつから悪なんてものに身をささげた! お前は……お前は、正義の味方だっただろうがぁっ!!」
トドメと言わんばかりに、足に巻き付いていた鎖が解かれた。
まるで砲弾のように宙を飛んだマルアトは、反対側の壁に盛大にたたきつけられ、轟音と共にその壁一帯に亀裂を走らせた。
「ごふっ……」
血まみれの、死に体。そんなマルアトの口からは、言葉ではなく滝のような血があふれ出る。
だが、そんな彼に対して、セントはためらいなく近づき、血で手が汚れるのも気にせず、彼の襟首を掴み上げた。
「答えろ、マルアトっ!!」
もはや答える気力などないはずの相手に、セントは詰め寄った。
こんな状態の人間にまともな受け答えなどできないという判断すら、できなくなっていた。
だが、マルアトは口を開いた。
かすれた声で、確かに答えを出していた。
「お……れは、お前が、思っているような、上等な人間じゃ、ない」
「な、なにを……。そんなわけがない! お前は経典守だ! そこから発展した、浄罪官だ! 今いる浄罪官をすべて育て上げた、罪を追う者の先駆者だ! お前が……正義でないはずがない!!」
「ばか……いう、なよ」
ゴホゴホと血反吐を吐きながら、マルアトはその時……確かな嘲笑を浮かべた。
それは慌てふためくセントを嗤ったものではない。自分自身の愚かさを嗤ったものだ。
「罪人だからと言って、俺は、ためらい無く人を殺した。泣きわめき、許しを請う者も、容赦はしなかった。この世界で、もっとも、多くの人間を、殺したのは、間違いなく……俺だ」
「だ、だからどうした! 相手は罪人だ、死んで当然の……」
「そして、俺が、そんなことをしていた理由は……自己保身だ」
「……………………え?」
自分を追ってきた男。自分を許せぬと追ってきた男。その男から吐き出された、とんでもない言葉にセントの思考は一時的に停止する。
「お前は、俺の言葉に従って、罪を犯した。罪を犯し続け、罪を重ね続けた」
「……そ、そんなの」
ただの言い訳だった。ただの、数ある理由の一つにすぎなかった。実際彼が悪事を働くとき、幼いマルアトの言葉を理由に行った悪事など初めの一回だけであり、あとは彼が勝手気ままに行った罪に過ぎない。
「俺は、それが怖かった。俺のせいで、俺の言葉のせいで、お前が罪を重ね続けるということは、つまり……俺が、あんなことを言ったのが、悪いってことになると思ったから。だから、俺は、お前を……殺そうと、思ったんだ」
「そんな、そんなこと言うなよ……」
――自分の罪が明らかにされるのが怖かった。お前のせいだと責められるのが怖かった。だからこそ自分はあれほど激昂し、セントを追うことを決めたのだ。
長きにわたり……善人の皮をかぶってきた罪人は告白する。
ここが、自分も罪人だと分かっていながら、シャマルの神官という看板を利用し、長年罪から逃げ続けた男の終着点だといわんばかりに。
「これで、ようやく終れると、思ったんだけどな……。逃げきれると、罪をなかったことにできると……。だけど、シャマル様は全部お見通しだったか」
――まったく、滑稽な話じゃないか……。
そう言って笑うマルアトの目じりには、確かに涙が浮かび上がっていた。
自分は結局逃げきれなかったのだという、悲しみの涙が。
「最後の最後で、俺は、自分の罪と向き合って……負けたんだ」
「あ、あぁ……そんな、そんなぁっ!」
「お前の、勝ちだ、セント」
「あ、あぁあ。あぁああああああああああああああああああああああっ!」
結局のところ、善人などいないのだとマルアトは証明してしまった。
彼こそが自らの前に立ちふさがる、最大の正義だと信じて疑わなかった友人に、人は罪にまみれて生きるものだと、証明してしまったのだ。
だから、セントは、
「ウソだ。何のために……なんのために! 何のために俺はぁあああああああああ!!」
壊れた。完膚なきまでに。
もはや元には戻れぬほど砕け散った彼は、怒りの声とともに全身から鎖を生み出し、それを依り合わせて巨大な槍を作る。
それを穏やかな笑顔で見つめるマルアトに、
「消えろ、壊れろ……死ね、死ね死ね、死ね死ね死ね死ねぇええええええええええええ!!」
怒りのままに、本能のままに、ためらうことなく振り下ろした!
そして、
…†…†…………†…†…
マルアトの顔に、暖かい何かが飛び散った。
痛みはない。それもそのはずだ。
「え?」
彼に槍は突き刺さらなかった。
彼をかばったものが、代わりのそれを受け止めたから。
「お、おい……なにを」
「よかった……」
槍を受け止めていたもの――白銀の髪を持つ天の使いは、ゆっくりと振り返って驚くマルアトに笑いかけた。
「マルアト様が無事で……」
最後にそう言って、天の御使いは砕け散る。
「あ、あぁ……あああああああああああああああ!」
人間ではない肉体は、まるで割れた陶器のようにばらばらになり、光の粒子となってとけて消えた。
自分を信じついてきてくれた無垢な少女が、無表情ながらも自分をいい人だと言ってくれた幼い女の子が、そんな最期を迎えたことにマルアトは目を見開く。
自分が救いようのない悪人だと思い知らされていたのに、自分が救われていい存在ではないとようやく悟れたのに……そんな自分のために犠牲になった少女が生まれたという事実に、
「そんな、嘘だ。あって、いいはずが……やめろ。消えるな。エート・ソート! エート・ソートっ!! 御願いだ、消えないで、くれ。俺なんかの、ために、死なないで、くれぇええええええええええ!!」
世界よ砕けよと言わんばかりの、悲痛な絶叫を響かせた。