《悪魔》
《悪魔》
西欧で神の敵対者として知られる悪魔であるが、本来の意味合いではそのようなものではなかったといわれている。
世界で初めての人類文明である古代バビロニオンにおいては、悪魔とはすなわち《病気》や《災い》を運ぶものであり、一種神と同一視される存在ですらあった。
すなわち、ジポルニアにおける《荒ぶる神》である。彼らは神と敵対する悪意の満ちた存在ではなく、人に災い成す一種の神であったのだ。
ではなぜ、悪魔ということばが神の敵対者を言う概念を得たのか?
それは、かつて悪魔と呼ばれるにふさわしい神の敵対者――悪神がいたからに他ならない。
その神の名前は《セント》
古代エジニオにおける《敵対神:セト》の源流とされる、世界最古の《悪を成す神》である。
(リーマン・スペクニコル著(2001)『悪なる神々』 (遊人花遊星訳)創星社)
エルクアロリアは急成長していた。
軍の試練以降拡大し続けた都市には、二重三重と防壁が建設されており、その防壁にはそれぞれ屈強な衛兵たちがつめ、巨大な都市防衛軍となっていた。
その城壁の中では、多くの人々が安心と安寧を享受し、人口を爆発的に増大。そして増えた人口がそのまま城壁外の開拓に使われ、さらに都市を拡大するという好循環を見せていた。
この物語は、そんな人界の楽園となった、エルクアロリアの際中央部から始まる。
ジグラッドに最も近く最も古い、エルク・アロリアの原型である第一防壁内の中央都市は、今や都市国家ともいえる存在になったエルク・アロリア中枢を担う人々の居住区となっていた。
とはいえ、幾ら裕福とは言えそれは当時の時代ではという話。
別段外の人々と生活ぶりが変わるわけでもなく、金銀宝飾に身を包み、働かずに食っちゃねしてばかりというわけではなく(というか、当時の宝飾類は神々への貢物であり、人が身に纏うことは許されていなかった)、中央都市の人々もきちんと畑に出て日々の糧を得ている。時たまその農作業が免除され、政策決定にかかわる権限があるというだけだった。
とはいえ、外の人々よりかは余裕があることも事実。その証拠に、本来ならば農作業の手伝いとして立派な労働力に数えられる子供たちは、中央都市においては遊んでいても文句を言われず、今日も元気に都市の中を走り回っていた。
キャイキャイと騒ぎながら町中を走り回り、何らかの遊びをしている彼ら。
そんな彼らから外れたところに、二人の子供が座っていた。
「あぁ……みんな元気だなぁ」
「ね、ねぇ、マルアト? ほ、本当に遊びに行かないの?」
「うるさいなぁ、セントは。僕は疲れているって言ってるだろ?」
「さっき起きたばかりじゃないか……」
一人はダラッとしたようすで、何らかの荷物が入っている木箱に寝転ぶ少年――マルアトに、気弱そうに目をキョロキョロさせた少年――セントは、わずかに顔をしかめながらツッコミを入れた。
「だから? 起きたら働かないといけないなんて誰も決めてないだろう?」
「で、でもエアロ様は勤労を貴ぶって母さんが……」
「エアロ様が貴ぶから働くのかい? エアロ様が言うから仕事をするのかい? セント、それは違うよ!」
「え、えぇ……」
こういう時ばかり語調が強くなるマルアト。そんな彼にびしりと人差し指を向けられ、セントは顔をひきつらせた。
「いいかい? 確かに神エアロは我々に天命を与えてくださる大いなる神だ。だが、エアロ様だってたまには休暇を取りたい時もある! そんなときに「どうして私たちが働かないといけないのですか?」といわれたら、エアロ様だってブチギレること請け合いだ! くだらないことを聞くなってね!」
「そ、そうなの?」
「そうさ! 考えても見てごらんよ! そんな些細なことを一々気にしていては、エアロ様はいつまでたっても休めない! ただでさえ天命を与えるために常に人のことを見ておられる御仁だぞ。つねに疲労困憊であられるに違いない! そんなときに、人が働く理由まで与えてくれなんて言われたら、そりゃ怒るって! 自分で考えることもできんのかこのバカ共っ! 何のために知恵を与えたと思っている! ってね!」
「あ、あの……ぼくたちに知恵を与えたのは、創世の時代の神ソートだと思うんだけど」
「些細な勘違いだね!」
――些細だったのか。
あまりに自信満々に言ってのけるマルアトに、セントは勢いにのまれ納得してしまう。
そんな友人の様子に満足したのか、マルアトはさらに熱い口調で演説を締めくくった。
「とにかく、神エアロは常に疲れていらっしゃる。最近人が増えたみたいだからなおさらね! というわけで人は自らの手で、自らが働く理由を模索しないといけないのさ! それが、今まで我々人を見守ってくださった、神エアロに返せる唯一の恩返しだからね!」
「す、すごいやマルアト! そこまで考えていたなんて!」
「そうだろう、そうだろう! というわけで、僕はしばらく自分がわざわざ体を動かさないといけない理由を思索するから、暫く話しかけないでくれたまえ!」
「う、うんわかった! 僕も自分で考えられることは、自分で考えてみることにするよ!」
「そのいきだセント! さすがは我が親友!」
「うん、ありがとうマルアト! 僕また一つ賢くなったよ!」
そういって、と手と手自分の家へと走っていく友人の背中を見送った後、
「ふん! チョロイな! さて、昼寝に戻るか……」
と、マルアトは箱の上で寝返りを一つ打ち、暖かな陽気の中で気持ち良さげに寝息を立て始めた。
まさかこの時の屁理屈が、とんでもない事態を引き起こすなど知らずに……。
…†…†…………†…†…
海の世界。ソートの天界にて。
「え、また誰か呼ぶんですか!?」
「リアルのダチがこのゲームはじめたから、レクチャーがてらに厄介ごとを一緒に解決してもらおうと思ってな」
「い、いや……だって。今回は《悪の試練》ですよ?」
「……なんか不穏そうだな?」
「マスターが作った試練ですよ!」
ほんとに適当に決めたんですね!? と、シェネは僅かに呆れつつ、試練の詳細を記したウィンドウを開いた。
「悪の試練。その内容は非常に簡単。『とりあえず悪党を倒す』というもの」
「え? それ王の試練でやらなかったか?」
「そのあげくがあのシャマルさんの惨状ですけどね」
「悪かったよっ!」
――正直油断していましたスイマセンっ!
ソートがそう言いながら勢いよく頭を下げる中、シェネはため息を一つ付きつつ、さらに解説を続けた。
「今回の悪の試練にかして分かっていることは少ないです。いちおう予兆なりなんなりはあるだろうと下界を観測していたのですが、わかったことは『悪党が生れ落ちる』ということだけ」
「それだけ? ザバーナみたいに事件解決に尽力する奴とかはわからんかったのか?」
「はい。一切わかりませんでした。おそらくはエアロが何らかの妨害工作をしていると思われます」
「はぁ!? どうして!?」
「マスターの信仰を奪ったやつですよ? マスターが活躍して信仰を取り戻されては困るんですよ、あいつは。それにあいつは試練の改編権限を持っています。今回の試練も恐らくは織り込み済みの試練。マスターの介入によって、予想外の結末を迎えることを嫌っているんでしょう」
「……そうか」
本気で敵対されてしまっているんだなと、ソートはまた少し遠いところを見る目を知る。
ティアマトも、ニルタも、リィラも、ザバーナも、なんやかんや言いつつ自分のことを頼ってくれていた。
だが、エアロは……今回の反逆をもってして、完全にソートに敵対することを決めたらしい。
自分の世界から出た初めての反逆者。それが、今まで下界にてすべての人々を見つめてきた最高神だという事実に、ソートは少しだけ奥歯をかみしめる。
やはり、エアロは自分のやったことを許してはくれないのだと。
だが、後悔にまみれたソートの背中を、一つの平手が打ち据えた。
「いってぇえええええええ!?」
「しみったれた顔してんなよ、相棒!」
バシンッ! と割と言い音が鳴った背中に、ソートが悲鳴を上げ、シェネが目を見開く中、巨大な鉄塊を背負ったサングラス装備の長身の男が一人、不敵な笑みと共に声を放つ。
「失敗は取り返せる。そういっただろう? そのための今回の介入だ」
「……あぁ、そうだったな。U.T」
痛みのあまり涙をにじませながら振り返ったソートの顔は、先ほどまでの悲痛な物ではなく、
「行くぞ! 遅れるな」
「誰に言ってる、バカ。せいぜい稼がせてくれよ!」
こいつと一緒なら何とかなるという……希望が満ちたものであった。
…†…†…………†…†…
時は流れた。
マルアトとセントは成人し、エアロから天命を与えられた。
「はぁ~だりぃ。俺みたいな怠け者がジグラッドに詰めなきゃいけないとか、エアロ様は何見てたんだよ」
マルアトは、司法をつかさどるもの――《経典守》の天命を与えられた。
偉大なるシャマルが残した、人界の法。それにのっとり多くの罪人を裁く、この国の司法官。それがマルアトの天命であった。
結果としてマルアトは、暫くジグラッドに詰め、経典の隅から隅まで暗記する必要が出てきた。暫くはセントと共にダラダラすることもできない。
というわけで、マルアトはセントの元を訪れ、授かった天命を説明ししばしの別れの挨拶をするつもりであった。
だが、彼の目的はセントの家のわずか数メートル手前で霧散した。
「ん? 何だこれ?」
箱のような土づくりの家。そこから、何か赤い液体が流れ出ている。
初め、マルアトはそれが何か理解できなかった。
わずかに粘性があり、赤く着色されていることから、水でないことだけは理解していたが……その正体を理解することを、彼の理性が拒んでいた。
だがしかし、家の方から聞こえてきたうめき声と、
「おぉい、セントの坊や! 天命きま……ひいぃいいいいいいいいいい!?」
近所のおっさんがセントの天命決定祝いを持ってきたにもかかわらず、家の中を覗くと同時に、悲鳴を上げて逃げ出したのを見て、マルアトはようやく事態を察した。
冷や汗を流しながら、マルアトが家へと駆けよる。
そして、その中で繰り広げられていたのは、
「……せん、と?」
「ん? あぁ、マルアトじゃないか? どうしたんだ? そんなに蒼い顔をして?」
おびただしい量の血液が撒き散らされた室内と、恐怖にゆがんだ顔をする、首を斬られたセントの両親の死体。
そして、血にまみれながら、輝く鉄のナイフを逆手に持ったセントが、いつもと変わらない穏やかな笑顔で、そこに立っていた。
いいや、セントなどではない。少なくとも、マルアトの前にたたずむ存在は、マルアトが知るセントなどではなかった。
「ど、どうしたんだって……おま、え。お前こそ、何をしているんだ、一体!」
「なにって……決まっているだろう?」
言葉を放つとともに、血にまみれたセントだった何かは、手に持ったナイフを勢いよく振るい、ナイフに付着した値を払い落す。
その際にとんだ地の飛沫がマルアトの顔にかかる中、セントはあくまで笑顔のまま両手を広げ、
「天命を果たしているのさ!」
「天命……だと!?」
「その通り。僕の天命は世界初だよ。なにせ《悪党》だからね!」
「悪党? なんだ……なんだそれは!?」
「さぁ、知らないよ」
「……はぁ!?」
帰ってきたセントからの返事に、マルアトはさらに混乱する。
――知らない? 知らないといったのかコイツは?
「知らないのに、お前はこんなことをしたのか? これが、何一つ理解していないお前が果たすべき天命だと、お前は判断したのか!?」
「そうだよ。エアロ様は曰く『悪党とはすなわち悪を成すものだ』ということだったしね。とりあえずシャマル様が禁じた『殺傷』を行ってみたんだけど……。いやはや拍子抜けだったね。いちおう反撃の許可はシャマル様が与えているのに、僕の両親ときたら『落ち着け~』とか『しっかりしろ~』とかいうばかりで、全然反撃してこないんだもん。まさか殺されるとは思っていなかったみたいでさぁ~。やっぱり君の言うとおり、人間は考えることをやめちゃいけないね。息子が悪党になる可能性なんて、あの人たちは微塵も考えていなかったんだし」
「てめぇ……てめぇ、セントォオオオオオオオオオオオ!」
怒りが、瞬時にマルアトの脳内を焼き尽くした。
マルアトは知っていた。セントの両親がごくごく牧歌的な農夫で、日々の糧に感謝しながら、毎日を一生懸命生きている、善良な人々であったことを。
それを笑顔で裏切り、殺し尽くしたセントに、マルアトは燃え上がるほどの怒りを覚えたのだ。
拳をふりあげ、マルアトはセントに襲い掛かる。
だがしかし、セントはあくまで冷静だった。
冷静に、悪を成した。
「おっと」
「っ!?」
武器を持っていないマルアトの拳を悠々と躱し、いかなる手段をもってしても治療不可能な個所へと攻撃を加えたのだ。
無防備だった、マルアトの眼球に、ためらいなくナイフを突き立てる!
「が、がぁああああああああああああああああああ!」
「おいおい、マルアト。君らしくないな。いつもの何でもかんでもだるそうにしている君はどこに行ったんだい?」
苦痛に悲鳴を上げ、地面に転げのた打ち回るマルアトをしり目に、あくまで余裕があふれる態度で両親の死体を椅子代わりにしたセントは、不思議そうに首をかしげた。
「ひょっとして、君がエアロ様の言っていた『正義の味方』だったのかい? だとしたら、君らしくない行動も頷けるというものだけれど……。違うかな? エアロ様が言うには、僕はそれに出会えばわかるらしいし」
「セント……セントォ!」
「まぁいいか。殺人・傷害はもう終わったし、次の罪へと移ろうか」
「まて……待ちやがれ!」
必死に立ち上がり、その腕をつかもうとするマルアトに、セントはためらうことなく、ナイフを突きつけた。
「――っ!」
「エアロ様曰く、悪党とは悪を成すものである。だけど僕はふと思った。悪党がなすべき《悪》という概念は、この国ではあまりに不明瞭すぎる。やっちゃいけないとシャマル様が定めた法はあるけど、それはあくまで神の法だ。人々はその意味も分からず、なぜしてはいけないのかを知らない。君が昔言った通りだったよ、マルアト。人間は少し怠惰が過ぎた」
だから僕が証明する。と、セントは笑った。
自分が告げた、ただノンビリするための口実であった言い訳を真に受けたセントは、嗤ったのだ。
マルアト――お前の理論を、これから俺が証明すると。
「だから僕が――俺がなす。俺が定める。人間が忌み嫌い、決してやらないと思い知るまで、俺が悪を成そう! 俺が悪に成ろう! そして人々に考えさせるのだ! 悪というものはいったい何かということを!」
その笑顔をみて、マルアトはふとこんな言葉を思いついた。
「なぜ人を害してはいけないのか? これで俺の長年の疑問も解消されることだろう」
「……………」
奴は……《悪魔》だ。
その思考を最後に、マルアトはとうとう意識を失い、その場に倒れ伏した。
「さぁ、試行錯誤を開始しよう。《人は考える物》であるのだから」
意識を失う直前、マルアトは確かにセントの最後の言葉を聞いた。
…†…†…………†…†…
それから約数時間後。マルアトは近所の男が呼んできた衛兵によって保護された。
セントはそののち、無数の民家を襲撃し、ありったけの金銭や食料を強奪し、ジグラッドの高位神官を人質にとった。
そうして無理矢理門を開けさせた後、喚き散らす高位神官を煩いという理由で刺し殺し、高笑いを上げながら森の中へと消えていった。
これがのちにバビロニオン一帯を震撼させる殺人鬼――《悪魔》セントの伝説の始まりとなることを、この時の人々は知らなかった。
そして、この時生まれた伝説がもう一人。
「はやく……早く治してくれ」
「黙ってください! 眼球が潰されているんですよ!! 出血だって……」
「いいから早く、早く俺の傷を治せっ!」
ジグラッドの治療室にて、魔術によって治療を受けていた、マルアトが怒号を上げる。
「俺のせいだ……。俺があんなことを言ったから……」
激痛に歯を食いしばりながら、失った右目に彼は誓う。
「俺が……あいつを止めないといけないんだっ!!」
獣のような咆哮と共に。