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夏の日。

作者: 伊南恭一

 病院を出ると雨は止んでいて蝉の鳴き声が耳に入ってきた。


 来る時には聞こえてたかな、虫麻呂は少し考えるが、まあ、いいか、と、午後の強い日差しの中、歩き出す。


 早く家に帰ろう。あと少しで完成するレイアウトを今日中には仕上げておきたい。


 虫麻呂は歩くスピードを速める。


 38.5度。


 赤信号で立ち止まった横断歩道の先に見えるビルに掲げられた電子公告板が現在の温度を示すのを見て、虫麻呂はため息をつく。途端に虫麻呂のまわりを水蒸気がもうもうと立ちのぼっているような気がした。


 体温よりも高いよ……。


 白のTシャツにバミューダパンツ、サンダルにキャップというラフな格好ではあったものの、虫麻呂にとってあまり知りたい数字ではなかった。


 信号が青に変わり、虫麻呂は横断歩道を渡る。アスファルトが熱い。


 ふたつの赤いランドセルが虫麻呂の横を走り抜ける。


 夏休みか……。とりとめもなく思いながら虫麻呂は歩く。


 公園の入り口に差しかかった。


 都会の中の人口の森にはこの暑さのせいか、虫麻呂の位置からだとほとんど人の姿は見えない。


 このまま高速沿いに出て歩くよりはまし、か、虫麻呂は公園の中に入る。


 暑さはかわらないのだろうが木々を通して身体にまとわり、通り過ぎる風はいくぶん涼しく感じられる。


 ほんの少しの、きまぐれな旅は当たりだった、少しいい気分になって虫麻呂はアスファルトで舗装された道を歩く。


 右手に手作りのスケート・ボード・リンク、左手には壁の向こう、遠く見える大学の校舎を眺めながら歩道を西へ歩いていく。まだしばらく先だが地下鉄の駅へつづく道にでる小さな出口に、虫麻呂は向かっていた。


 左手に普段ならたくさんの子供たちの姿が見られるわりと大きめの水遊び場が見えてきた。


 やはり誰もいない……。


 いや、ひとり、少女がいた。


 かなり長い赤みがかった髪の毛を後ろで束ね、水色のワンピース姿の少女が右手に二足のサンダルをフックのように持って足首ほどの深さの水たまりに素足をつけ、端から端へ歩いていき、端から端へ歩いていく。


 虫麻呂は立ち止まってしばらくそんな彼女の様子を見ることにした。職業病、と言ってしまっていいと思うが虫麻呂は頭の中でさっそく彼女をスケッチし始める。


 笑っているように、怒っているように、水を蹂躙して歩く少女を虫麻呂はスケッチし、セーブする。


 少女がそんな虫麻呂の姿に気づくのにそれほど時間はかからなかった。


 彼女は歩くのをやめ、髪の毛と同じように赤みがかかった瞳で虫麻呂を見つめる。


 日差しの中、しばらくの間、虫麻呂と彼女の視線がかさなりあう。


 やがて彼女は何もなかったように視線を水面に戻すと、ふたたび水の中を歩きはじめた。


 スケッチを終えた虫麻呂も少女に軽く会釈をすると、水遊び場を後にして歩きはじめる。


 しばらくするとファミリーサイクリングコースに出た。


 利用者のいない二人乗り、三人乗りの自転車たちが暇そうにしていた。


 ゆるやかな歩道を歩き、体育館を抜けたところで虫麻呂はベンチに腰かけた。


 空はすっかり晴れていた。雲が流れていく。


 文庫の続きでも読むか、カバンに手を伸ばしたところで何かが視界を遮った。


 「!?」


 先ほどの少女だった。彼女の顔が今、至近距離にある。思わず虫麻呂は顔をそらす。


 ちら、と少女のほうを見ると彼女はにこ、と笑った。水遊び場で見かけた時とずいぶんと印象が違う。


 それが彼女のくるくるとよく動く瞳のせいだと虫麻呂が気がついた時、


「お兄さん、あたし、プール行きたいな」


 と少女は言った。左右の耳にそれぞれに飾られた子犬のイヤリングが左右に揺れる。ふだん、同僚から淡泊だの、朴念仁だの、好き放題言われている虫麻呂だが、そんな彼でさえ、いいな、と素直に思う、そんな笑顔だった。


「プール?」


「そう」


「僕、君とどこかで会ったことがあったっけ」


「あ、ナンパだ」


「それ、逆……。」


 別にプールにつきあうくらいかまわない、とは思う虫麻呂だったが近ごろはいろいろ煩わしい世の中だ。彼女のプール代を払って、さっさと退散しよう。


 そう思ってカバンから財布を出そうとした虫麻呂だが、あれ?財布がない、と思ったところで、


「探し物はこれ?」


 虫麻呂の目の前で彼女はいつ抜き取ったのか、虫麻呂の財布を左右にふる。


「一緒にプール、つきあってくれたら返すから!」


 僕はため息をつく。ここのプール、水着売ってたっけ……。


 さいわいプールの売店では水着を売っていた。結構売れているのかそこそこのバリエーションが揃っている。


 財布を返してもらった僕は彼女につきあって水着その他を買うことになった。


 キャップを被るのを彼女は嫌がったが根気強く説得してなんとか買って持たせた。


 ゴーグルは嫌だ、と言った時は無理には勧めず、彼女が水着を選んでいる時にこっそり買った。


 彼女が選んだ水着は黒のスポーツタイプのフィットネスなものだった。


 おまけでつけてもらった水着入れを彼女は気に入ったようで軽く振りながら更衣室に入っていった。


 僕は自動販売機で水を買い、二階のガラス張りの観覧席に座る。泳ぎたいのは彼女なのだ。


 こんどこそ文庫のつづきを読もう、というところでプールに彼女が現れた。


 あらためて、魅力的な肢体だった。魅力的、の前に、かなり、をつけてもよかっただろう。


 スポーツタイプの黒の水着が彼女の赤い髪の毛とよく似合っていた。


 キャップは被っていたが腰の位置をはるかに通り越す赤い長い髪はキャップからはみ出している。


 髪の毛をまとめていないことで注意されるかな、と思ったがこの時間、プールには僕と彼女しかいなかったらしく、黙認してくれたようだ。彼女はおそらく渋い表情をしているであろう監視員の横を涼しい顔で通りすぎていく。いずれキャップははずしてしまうに違いない、確信に近い予感を虫麻呂に持たせる、そんな彼女の態度だった。


 プールサイドに立った彼女は虫麻呂のほうを見た。


 笑顔を浮かべるでもなく、手を振るでもなく虫麻呂を見る。そしてそのまま動こうとしない。


 しかたないので右手を軽く上げると、やっと彼女は虫麻呂から視線を離し、プールに飛び込んだ。


 準備体操をしなかったせいか、プールに飛び込んだせいか、おそらくはその両方だったと思うけれど、今度こそ監視員による注意を彼女は少しの間受けることになった(つまらなそうに監視員の注意を彼女は聞いていた)。解放された彼女はスタートラインに何度か潜水をしながら自分を寄せていく。


 そして彼女は泳ぎはじめる。整ったフォームのクロールだった。


 ゆっくりとしたスピードで彼女は泳いでいく。赤い髪の毛が遅れて水面に線を引いていく。


 水面に赤い絵の具をすっ、と流したような光景をしばらく虫麻呂は眺め、視線を手元の文庫に落とす。


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 少し眠ってしまっていたようだ。虫麻呂がバランスをくずして落ちようとする文庫をなんとか右手でつかんだ時、横に着替え終わった彼女がいることに気がついた。


「起きた?じゃ、帰ろうか」


 眠ってしまっていた虫麻呂に不満を言うでもなく少女は立ち上がる。


 なにかおかしいな、とは思ったが何も言わず虫麻呂も席をたつ。


「今日はありがとう。楽しかった!」


「それはなにより」


「それじゃあ、またね」


 そう言って彼女は去っていく。


 早く帰ろう。虫麻呂は小さくなっていく彼女の姿を見ながら繰り返す。早く帰ろう。


 レイアウトはやり直しだ。問題はない。


 長い赤い髪の少女。タイトルはそう、決まっている。


【終わり】


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