第8話
父さんを見送ったマルカがリビングに戻って来ると、俺がコーヒーを飲み終えている事に気付いて声を掛けて来る。
「あ、コーヒーおかわりする?」
屈託のない笑顔を向けてくる。他にもっと聞きたい事がある筈なのによくこんな笑顔が出来るものだと感心する反面、少し苛立った。
「いや、いらない」
「そっか」
俺が素っ気なく答えてもマルカは笑顔を崩さずに頷いて椅子に座り、飲みかけだった自分のコーヒーを一口飲む。
「……」
沈黙が続くのでマルカの方に少しだけ顔を向けてみると、それに気付いたマルカはこちらに微笑みを浮かべて小首を傾げた。俺は咄嗟に目を反らすが、沈黙に耐えられずに口を開いた。
「何か聞きたい事があるんじゃないのか?」
「え……うーん、あるけどきっとエフィムにとって楽しいことじゃないと思うから聞かない」
俺の問いに最初こそ真面目な表情になったマルカだったが、最後の方には先程のように微笑みを浮かべていた。
「でも相談してくれるなら喜んで聞くよ」
普段はこちらの気も知らないで抱き着いて来るくせに、俺から話しかけると一定の距離を保とうとする。マルカ自身は純粋な善意で気を利かせてくれているのだろうが、俺には煩わしく思えた。
「あ、喜んでっていうのは違うよ!エフィムが悩んでいるのが嬉しいとか楽しいって訳じゃないよ!その、えっと……私に相談してエフィムの気が楽になるなら私も嬉しいなって」
俺が黙っているとマルカは一人で慌てたり笑ったりしている。忙しい奴だな。
「そうか、でも今はマルカに相談することは無いし、心配されることもない」
話す事もなくなったので俺は部屋に戻ろうと立ち上がると、マルカに袖を掴まれる。
「無理はしないでね」
マルカは今にも泣きそうな顔をしていたが俺は腕を軽く振って手を払い、リビングを後にした。
「(冷たい奴だなぁ。もっと優しくしてやれよ)」
階段を上っていると頭の中でルシルの声が響いた。
「(良いんだよ。マルカは俺なんかのこと気にしないで自分の……)」
そこまで言って俺の頭に一つの疑問が浮かぶ。当然、思考を共有しているルシルにはもう伝わっているが俺は思考を巡らせてルシルへ尋ねる。
「(なぁ、マルカを天子に選ぼうとは思わないのか?)」
「(悪くはないけど俺には不要な物件だな。お前みたいに欠陥があった方が一緒にいて面白いしな)」
自分が天子に選ばれた謎は深まるばかりだ。ルシルの言う欠陥とは何の事だろうか、心当たりが多くて見当がつかない。二階に上がった俺は自室へ入るべくドアを開けた瞬間、自分の意思が宙に浮いた感覚に陥る。
「(な、なんだ?)」
そう口にした筈だったが声は出ず、代わりに視界が振り下ろされた両刃剣の剣を捉えていた。あのまま素直に部屋に入っていたら体を二つに斬られていただろう。背中を壁に付けているところから、先ほどの浮遊感は斬撃を避ける為に後ろへ飛び退いたものだろう。そして、今俺の体を動かしているのはルシルだという事まで理解できた。
「おいおい、随分な挨拶じゃねぇか」
壁から背を離し、俺の声でルシルが喋ると襲撃者は応じるように剣を構え直す。剣の持ち主は教会から帰る時に襲って来たマントの男だった。思い出される死への恐怖に俺の体は固まってしまうところだったが、今はルシルの意思が優先されている。体の動きに問題はない。
「大人しく斬られれば良かったものを」
「はっ!悪いがこっちもやることが有るんでね、またぶっ倒してやるよ」
ルシルの挑発を皮切りに、男は一気に間合いを詰めて俺の心臓を狙った突きを放つ。ルシルはそれを横に躱して……そう思った瞬間、俺の体は力無く崩れ、床に片膝を着けた体勢になっていた。そのお陰という訳ではないが突きを躱す事はできた。しかし、一体どうしたというのか。
「(約束通り今回は自分で何とかしてみような)」
頭の中でルシルの声が聞こえると、体の感覚が戻っていることに気付く。おいおい、挑発するだけして俺に相手をさせるのかよ。前回の襲撃の後、次は俺に何とかしろと言っていたが約束した覚えはない。ルシルに異議を唱えようとしたが、男はお構いなしに剣を振り下ろして来る。人生で一番の焦りを感じながら咄嗟に床を転がって剣を避け、回転の勢いを活かして立ち上がる。
「(ほら、動けるじゃん。その調子だ)」
「ふざけるな!」
脳内で煽られ思わず怒号を放つが、ルシルは意に介せずといった様子だ。しかしルシルにばかり構ってはいられない。男が距離を詰めて剣撃を放ってきたので、俺は狭い廊下で体を左右に反らしつつ後退して何とかやり過ごすが、剣にばかり気を取られていた所為で蹴りに反応出来なかった。鳩尾を蹴られ廊下の突き当たりまで飛ばされる。
「ぐっ、くそ……!」
腹を押さえて悶えていると、男がゆっくりと歩み寄って来る。逃げ場が無い上に痛みによってルシルへの憤りが消えたからか、死の恐怖を思い出してしまい体が固まってしまう。今更ルシルに助けを求める気にもなれず、諦めて死を覚悟した瞬間、階段から誰かが上がって来る気配を感じた。
「エフィム、大丈夫!?」
蹲る俺の前にマントで全身を隠した男が剣を持って立っている。とても平和的な状況には見えないだろう。にも関わらずマルカは俺の元に駆け寄って来るが、男が立ちはだかってそれを許さない。
「天子以外に危害を加えるつもりはない。危険だから下がっていろ」
「どいてください!エフィムをどうする気なんですか!?」
剣を持った男相手だというのにマルカは全く物怖じせず掴みかかるが、男は動じる事なく言葉を返す。
「天子には死を」
死という単語を聞いて青ざめるマルカの首の後ろに手刀が入り、気絶させられる。男は倒れるマルカを受け止めて壁際に寝かせた。
「マルカ!」
倒れるマルカを見た瞬間、腹の痛みも死への恐怖も消えて俺は立ち上がった。しかし、立ち上がるだけで何も出来ない。激情に任せて男に殴り掛かれたらどんなに勇敢だっただろうか、たとえ無謀な突撃でも勇気を見せることが出来たらどんなに誇らしかっただろうか。
拳を強く握り締めて自分を奮い立たせようとするが駄目だ。ただ無闇に突っ込んでも斬られてお終いだと、頭のどこかで他人事のように告げる自分がいる。
男の口ぶりからしてマルカは気絶させただけで命までは奪う気はないのだろう。理性が感情を殺してしまう。いっそ自分自身を殺してやりたいと思う。
「お前の死体は家族に見られないよう、こっちで処分してやるから安心して死んでくれ」
男がこちらに向き直って剣を構える。後ろには下がれないから左右どちらかに避けるか。いや、横薙ぎの攻撃だったら避けられない。かと言って相手の股下を潜り抜けるなどという芸当はできない。この状況を打開しようと凄まじい速度で思考が巡る。
まだ数秒しか経っていないだろうが、いつ男が斬り掛かってくるか分からない。緊張で全身から汗が噴き出る。額から出た汗が頬を伝い顎から滴り落ち床で弾けた瞬間、男は剣を横に構えて踏み込んで来た。
予想していた横薙ぎだったが、回避方法はまだ思いついていない。しかし体は反射的にしゃがんで剣撃を避けた。だがその場凌ぎの回避だったため体勢を大きく崩してしまい、下から迫って来た蹴りの回避は間に合わない。顎を蹴り上げられ、無理矢理体を起こされる。次の剣撃でお終いだ。それなのに、壁際で倒れているマルカを視界が捉えた瞬間、俺の脳は生きる事を諦めなかった。心から死にたくないと思った。俺は死ねないと感じた。
「(ったく、最初からそれぐらい熱くなれよ)」
頭の中で呆れているようでどこか嬉しそうなルシルの声が聞こえると、右手の神器が白く光った。目を覆いたくなる程の強い光りの中でも俺の視界は男の姿を鮮明に捉えており、男は攻撃を中断して一歩後退して様子見をしているようだった。
「こんなところで宿主を失う気は無いんでね、やらせてもらうぜ!」
右腕を振り払って光りを掻き消し、ルシルに憑依された俺は男の前に対峙した。