第7話
自室で自らの記憶に残る恐怖と戦っていると、いつの間にか実態化したルシルが目の前に立っていた。
「そんなにあいつの殺気が怖かったのか?」
訪ねてくるルシルの顔には若干の呆れが浮かんでいた。もしかしたら自分自身を情けなく思う気持ちがそう見せたのかもしれないが、いずれにせよ俺の気持ちは沈んだままだ。黙ったまま俯いているとルシルは別の質問を投げかけてきた。
「お前、将来の夢みたいなのはあるのか?」
さっきの質問とまったく関連性を感じない質問に、どういう意図があるのかと聞き返そうとしたがルシルの真面目な表情を見た瞬間、出かかっていた言葉はどこかへと消えた。
「……ないよ」
将来の夢が見つからないのは特別珍しいことではないはずだ。同級生の皆も進路を決める時に随分と悩んでいたし、夢などは生きていく中で得た経験によって変わっていくものだと思っている。だが、俺には夢が無いということが恥ずかしかった。夢もなくただ生命活動を維持している自分自身が許せない気がした。
「そりゃ良かった」
落ち込む俺とは対照的に、ルシルは歯を見せて笑みを浮かべていた。何が良かったのか、怪訝な顔を浮かべる俺をみてルシルは言葉を繋げた。
「俺がお前に夢を見せてやる。だからお前は俺に人の持つ可能性を見せてくれ」
「悪いが俺はルシルが思っているような人間じゃない。期待しても無駄だ」
卑屈になる俺にルシルが何か言おうとした瞬間、玄関の開く音が聞こえ口を閉ざした。
「誰か来たみたいだな。父さんかもしれないし、見に行くよ」
ルシルとの会話が途切れた事に内心ほっとしながら、そそくさと部屋を出る。
「やれやれ、ノリの悪い奴だな。まぁ夢や欲の無い空っぽな人間だからあいつを宿主に選んだんだけどな」
一人になった部屋で肩を竦めながら呟いた後、実態化を解いてエフィムの後を追った。
階段を降りて行くと、玄関で父さんとマルカが話しているのが聞こえてきた。同時に向こうも俺が降りて来る気配に気づいて会話を止めた。
「おかえり、父さん」
出来るだけ平静を保ってみせると父さんはどこか安心したようだったが、マルカは心配そうに俺を見つめてくる。流石にさっきの態度は焦りすぎたな、と反省しつつ出来るだけマルカと目を合わせないようにして階段を降り切る。
「ああ、ただいま。エフィム、天子になったって本当なのか?」
パール・グレイの短髪に黒縁眼鏡に黒のスーツと、どこにでもいる中年のサラリーマンが俺とマルカの父親、オレク・セルトサムだ。
「うん、これが神器」
俺は頷きながら右手を顔の高さまで上げて腕輪を見せた。父さんが眼鏡を直して腕輪を近くで見始めると、マルカが口を開いた。
「ねぇ、ここじゃ何だしリビングに行こうよ」
「それもそうだな。エフィム、天子になった時のこと話してくれるか?」
移動を促された事で父さんは腕輪から顔を離して俺を見据えた。断る必要もないので黙って頷き、三人でリビングへと向かった。
「ほら、二人とも座って!何か飲む?」
マルカは椅子を引いて着席を促すと、キッチンの方に向かいながら注文を聞いてきた。
「父さんはコーヒーを貰おうかな」
「俺もコーヒーで」
「はーい!」
俺と父さんがテーブルを挟んで向かい合うように座りながら飲み物を頼むと、マルカは元気よく返事して準備し始めてくれた。何ともないように振る舞ってはいるが、内心では先程の俺の手の震えについて気になっているだろう。
「エフィム、早速話してくれるか?」
「ああ、うん」
俺は今朝、発掘場の事務所で神器である腕輪を見つけて天子になったこと、天子の名前や目的、明日には教会で儀式を執り行うことを話した。心配をかけたくなかったので教会から帰る時に何者かに襲われたことは黙っていることにした。
「なるほどな。しかし、アルバトフのところで神器が発掘されたなんて話しは聞いていないが・・・」
「きっと天使さまがエフィムのことを気に入ったから目の前に現れたんだよ」
顎に手を当てて考える父さんとは対照的にマルカは楽観的な意見を口にした。ちなみにマルカは俺の左に座っている。腕が触れ合うぐらい椅子を近付けているが、これは日常的光景なので父さんは気にしていない。俺としては居心地が悪い事この上ないのだが、あんまり邪険にするとマルカが落ち込んでしまい、反って空気が悪くなりかねないので我慢することにしている。そんなことより、俺を天子に選んだ理由を聞いてみるか。
「(ルシル)」
頭の中で名前を呼ぶと、少し間を置いてぶっきらぼうな物言いで返事が返ってくる。
「(俺の目的を果たすのに都合が良かっただけだ。特別な理由なんてねぇよ)」
「(もっと具体的に教えてくれよ。さっき部屋で言ってた夢とか可能性に関係するのか?)」
「(時が来たら教えてやるよ)」
それだけ言い残してルシルは俺の呼びかけに応えることはなかった。
「おい、エフィムどうかしたのか?」
父さんに名前を呼ばれて意識を現実に戻した。どうやらルシルと話している間に話しが進んだらしい。
「あ、ごめん。聞いてなかった」
「天子になって何か体に異常はないかって話しなんだが」
「それなら今のところ大丈夫、心配いらないよ」
憑依されて勝手に体を動かされる事はあるが、健康面で問題がないのは真実だ。はっきりと答えると父さんは安心した様に頷くが、視界の端では隣りにいるマルカの眉が少し下がったのを捉えていた。しかし今はそれに構う時ではない。
「それより母さんは何時頃帰って来れるか聞いてる?」
「電話した時には直ぐ支度すると言っていたが、テイングからだとこっちに着くのは夕方だろうな」
テイング。人間の住む国、エウメプの中心に位置する首都であり、エフィムの母が働く国立歴史研究所の本部がある場所である。
今日の夕方に着くならば明日の儀式は問題なく執り行えるだろう。俺は内心で安堵の溜め息を吐いた。
「そうだ、母さんに買い物を頼まれていたんだった!」
母さんの話しが出て思い出したのだろう。父さんは慌てた様子で椅子から立ち上がって時計を一瞥した。
「悪いけど今から行って来る。留守番頼んだぞ」
足早にリビングを出て行く父さんをマルカが追う。
「お父さん、ちゃんと財布持った?」
「ポケットに入ってるよ」
「中身は?」
「……大丈夫、ちゃんと入ってる」
「買う物は覚えてる?」
「財布の中にメモが入ってる」
マルカはテンポ良く質問し、父さんが靴を履くまでに確認を済ませる。
「じゃあ行ってくる」
「行ってらっしゃい!」
マルカに笑顔で見送られて父さんは買い物に出掛けると、家の中にはドアが閉まる音を最後に静寂が流れた。