第6話
マントの男が走りながら剣を振り上げるのを目で追うのがやっとで、首から下は凍りついたように動かず、数秒後に訪れる死に抵抗する術などないはずだった。しかし、今俺の視覚は剣を振り下ろした男の背中を捉えていた。麻痺している頭で何が起きたのか把握しようと必死に思考を巡らしていると、自分の声が溜め息まじりで聞こえてくる。
「全然動けるじゃねぇか。お前さ、諦めんの早すぎ」
俺の意思は何も喋ろうとしていない、だが今の声は確かに自分自身の声だ。疑問を抱くと同時に先ほどまで感じていた体の硬さ疎か、死への恐怖すら無くなっていた。すると今の状況が分かり始めて来る。剣が振り下ろされる瞬間、ルシルが俺の体を動かして攻撃を避けたのだ。口ぶりから察するに、ぎりぎりの所まで静観を決めていたが俺が不甲斐なく棒立ちしていたので早々に手助けをしたというところだろう。
「ちっ、人の体を乗っ取る堕天使が!」
男が振り向き様に剣を横に薙ぎ払うがルシルは体勢を低くして躱し、相手の懐に潜り込む。
「おせぇよ!」
右の拳を鳩尾に叩き込むと男はよろけたものの、素早く距離を取って追撃を許さない。
「おいおい、その程度の腕で本気で俺を殺す気なのか?」
ルシルはわざとらしく両の掌を上げて挑発する。それを受けて男は剣を強く握り直し、殺気を強くさせた。
「ほざけ!」
怒号と共に突進して来る。速く鋭い袈裟斬りだったが、ルシルは特段驚く事もなく左手を振り上げて男が剣を持つ右手を跳ね上げた。フードで隠れているが、驚愕の表情を浮かべているだろう。そこに渾身の右フックを叩き込むと男は倒れ込んだ。
「(はい、俺の出番終了。後は好きにしな)」
急にルシルの声が脳内に響いたと思うと、体の感覚が自分に戻ってきた。右手に残る殴った時の感触が気持ち悪く、手を振ってその感触を消そうとしつつ倒れている男をどうしようか考える。警察に引き渡すべきなのだろうが、その前に聞きたい事が沢山ある。
「何故俺を狙った?それにルシルが堕天使ってどういうことだ?」
自分の力で倒した訳ではないが、今はそんな細かい事を気にしている場合ではない。俺は少し威圧的な口調で男に質問すると、男は懐から何かを取り出した。それが何なのか分かる前に視界は強い光りに覆われた。反射的に目を閉じ、両腕を顔の前で交差させる。
光りが収まって視界が回復すると、男の姿はどこにもなかった。
「くそっ!なんだったんだ」
謎を残したまま姿を消した男に苛立ちを覚えながらも、俺は早足に路地裏を抜けて大通りに出た。それからはどこかに寄る気分になれなかったので真っ直ぐ家に帰る事にした。今日の事は明日にでも司祭に相談しよう。証言だけを持って警察に行っても、面倒な質問を長々とされるだけの気がする。
「(ルシル、あの男について何か心当たりはあるか?)」
「(いや、さっぱりだ。まぁいつの時代も社会の流れに逆らう奴はいるだろうさ)」
予想はしていたが手掛かりは何もなく、ルシルはあの男の正体や目的などには興味を持っていないようだ。
「(それよりお前、ちゃんと動ける体があるんだから次襲われた時は自分で何とかしろよな)」
「(前にも言ったが、俺は普通の人間だから戦うなんて無茶なことは出来ない)」
そう、俺は普通の家庭で産まれ育ち、普通の学校で学び、普通の生活を送ろうとしていた。少し刺激を求めはしたが、それも普通の人間ならば誰しもが抱く好奇心程度だ。それなのにいきなり天子になって命を狙われるなんて精神が追いつくはずがない。
「(そうか、なら次の襲撃がお前との別れだな)」
「なんだと!?」
悶々としている時にルシルから見限られ、思わず声を上げてしまう。俺がルシルと話していると知るはずもない通行人には奇妙に映っただろう。周囲から浴びせられる視線に恥ずかしくなった俺は早足にその場を離れた。
「(天使だって誰にでも宿れるわけじゃないんだろ?俺が死んで直ぐに目当ての人間が現れる保障はないだろ)」
人々の視線から逃れ、平静を取り戻した俺は改めてルシルへ問うと極めてつまらなそうな態度で返答が返ってきた。
「(人の持つ可能性を普通とかいう言葉で消すような奴はこっちから願い下げだ)」
「(だったら今すぐ俺から離れろよ。悪いが俺はお前が期待する人間とは正反対みたいだからな)」
先ほど教会で儀式が執り行えなかったのが幸運に思えた。正式に天子と認められる前ならば天使と別れてもそこまで大きな問題にはならないだろう。天子が得られる地位も名誉も俺には興味が無いし、面倒な使命や義務に追われることが無くなることも考えれば、ここでルシルと別れることが俺にとっては最善なのかもしれない。
「(それはできない相談だな)」
「(どうしてだよ?)」
「(それはお前が俺の望む人間だからだ。表面の性格じゃなくてもっと根の部分がな)」
願い下げと言ったり望む人間と言ったり一体どっちなんだ。それに俺は本心を隠している気はないし、思考を共有しているルシルには隠せない。俺自身が知らない部分を、奴は何故知っているというのだ。
疑問と苛立ちが湧き出てくるが、何れにせよ天子になる宿命からは逃れられないらしいので、割り切って気持ちを切り替えよう。
それからは互いに言葉を交わさず、自宅に着いた。鍵は閉まっていると思い、合い鍵を出して確認の為にドアノブを捻ってみるとどうやら開いているようだった。誰かが先に帰って来ているらしい。合い鍵を鞄にしまいつつ家の中に入ると、居間から人の立つ気配を感じて思わず溜め息を吐いた。
「お帰りなさい!エフィム!」
居間から現れたマルカは白のブレザーに白と黒のチェック柄のスカート姿だった。恐らく学校にも俺が天子になったと連絡が入り早退させられたのだろう。一番面倒な奴と会ってしまったが、遅かれ早かれ天子となった経緯を話さねばならない。最初に面倒なことを済ませれば後が楽になると自分に言い聞かせると、マルカが抱き着いてきた。
「えへへ、エフィムだぁ」
俺の胸元で顔を摺り寄せるマルカは心底嬉しそうだった。毎日顔を会わせているのに何がそんなに嬉しいのか。マルカを引き剥がそうと両肩に手を置いた瞬間、脳裏に先の襲撃が浮かび上がる。普通の生活を送っていれば感じる事はない明確な殺意。これからもあのような殺意を向けられ命を狙われると思うと恐怖心が込み上げて来て微かに手が震えた。
「どうかしたの?」
震えにマルカが気づかない筈もなく、顔を上げて小首を傾げられると脳裏に浮かんでいた光景は消え去ったが、変に追及されたら面倒なので慌ててマルカを引き剥がした。
「なんでもない」
「あ、エフィム!」
適当な言葉を残し階段を駆け上がって自室に入る。静寂と冷えた空気に包まれて一息吐き、震えていた両手を見ると再び殺意を思い出してしまう。
「くそっ、殺されるのがそんなに怖いのかよ、俺は!」
両手を強く握りしめて恐怖を打ち消そうとするが、心に張り付いた恐怖はそう簡単には消えなかった。