第5話
扉を開き教会の中に入ると、司祭が祭壇に礼拝か何かで使用する聖体をしまうところだった。来訪者に気づいた司祭が振り向いて柔らかく微笑みを浮かべた。もうすぐ俺が天子として認定されると思うと急に緊張してきて歩き方がぎこちなくなった気がした。それより、いきなり「天子になりました」などと言って信じてもらえるのだろうか。
「珍しい時間に珍しい者の来訪ですね。どうしました?」
司祭は長身で誠実そうな顔をした初老の男であり、街の人達からの評判も良いと聞くが、俺はどうも苦手だ。この司祭、ヴィクトル・ツァピンという人間が苦手というより、教会の人間には自分の心の内が見透かされている気がして居心地が悪い。
「えぇっと……俺、天子になったみたいなんです」
歯切れ悪く言いつつ、右腕に着いた腕輪を見せるとツァピン司祭は微笑んだまま納得したように頷いた。
「そうですか、貴方がエフィム様ですね。アルバトフさんから話しは聞いています」
そうだ。アルバトフさんが教会に連絡しておいてくれたのだ。安堵の息を吐いて右腕を下ろす。
「それにしても、随分と立派な天使様に認められたのですね。私でもその腕輪からとても強い力を感じます」
そんな力、俺は感じないのだが。やはり教会の人間は一般人よりも天使に対しする感覚が敏感なのだろう。それにしてもルシルが強力な力をもった天使か、そんな風には見えないが本人は天界に戻る方法を知っていると言うし、本当に凄い天使なのかもしれない。
俺が腕輪を見ながら思考を巡らせていると、腕輪が微かに光った。
「話しが早く進められそうな司祭さんで良かったぜ。じゃあ早いとこ儀式なり何なりしてこいつを正式な天子にしてくれよ」
腕輪を凝視していた俺の横で声がしたので、そちらへ顔を向けるとルシルが実態化していた。ツァピン司祭はルシルの姿を捉えると、ゆっくりと跪き、首から提げたロザリオに手を当て言葉を返す。
「天使様、大変申し訳ありませんが今この場で儀式を執り行うことはできません」
「ああ……流石に急すぎたよな。いつなら良いんだ?」
ルシル自身予想していた結果なのだろう。少しだけ落胆した様子を見せたが、不満を述べることなくツァピン司祭へ尋ねた。
「儀式の準備ならば日が暮れるまでにできますが、人が天子となる大切な儀式ですので、できることならご家族に晴れ姿をお見せしたく存じます」
「ああ、分かったよ。明日にでもこいつの家族を連れて来るから、いつでも儀式ができるようにしておいてくれ」
明日か、てっきり今夜中にでも連れて来るとか言うと思ったが意外だな。遺跡発掘所でもそうだったが、ルシルは急いでいるようで人間側の事情を考慮してくれているようだ。
ツァピン司祭は直ぐに儀式の準備を始める事を約束してくれ、俺たちは教会を後にした。
「これからどうするんだ?」
教会の扉が閉まると同時にルシルへ尋ねるが、彼の姿はどこにも無く、思考が脳内に直接流れてくる。
「(とりあえず今日中に家族全員を集めて、後は好きに過ごせよ)」
「(ルシルって急いでる割りに結構融通利かせてくれるんだな)」
「(当然だ。俺は寛大で雄大で壮大な天使様だからな)」
姿は見えないが盛大に踏ん反り返っているルシルが予想できる。こいつはあんまり調子に乗らせてはいけないな。あまり褒める事はしないでおこう。
さて、明日の儀式まで時間が出来たわけだが、どうしたものか。アルバトフさんから父さんに連絡が行っているなら、母さんにも連絡は行っているだろう。空を見上げると太陽はまだ高く、このまま真っ直ぐ家に帰るのも勿体なく感じたので少し散歩していこう。教会の奥には墓地があり、更にその先には森が広がっているだけなので足を向ける必要はない。俺は一旦住宅街まで戻る事にした。
教会を後にするエフィムを森の奥から見つめる人影があり、その者は首から提げた小さな丸い宝石に手を当てると口を開いた。
「こちらフルフタ。儀式はまだ済ませていないようだが、天子の存在を確認した。仕掛けて良いか?」
声は若い男のものであり、その男は脳内に伝わってくる指示に頷くと宝石から手を離し森の奥へと姿を消した。
住宅街で変にうろつくのも怪しまれると思った俺は結局大通りまで戻ってきていた。平日の昼間なので人通りは少なく、学校の制服姿はかなり浮いて見えるだろう。人の目はさほど気にはしていないが、このまま大通りを歩くのも面白くはないと思い、適当な路地に入ってみる。
路地裏には昼間は営業していない酒場や、あまり聞いた事のない会社の事務所や怪しい骨董品売りがあったりと、自分の住んでいる街でも少し道を逸れただけで違った世界が広がっていた。辺りを見渡しながら歩いていると、物陰からこちらを見ている人影が視界の端に映った。一瞬心臓が大きく鳴ったが俺は気づかない振りをして、無意識の内に早歩きになりながら脳内でルシルに呼びかける。
「(もしかして付けられてるのか?)」
「(そりゃあ天子様なんて大層なご身分なんだ、ファンの一人や二人いてもおかしくないだろ。ちなみに教会を出てからずっと付けられてたぜ)」
焦る俺とは対照的にルシルは落ち着き払っており、その態度に俺は苛立ちを覚える。
「(知ってたなら教えてくれよ。危険な奴だったらどうすんだよ)」
「(少し危険なぐらいが退屈しなくて良いだろ。それに、今後の為にもなりそうだしな)」
ああ、駄目だ。ルシルは自分が楽しめればそれで良いと思える性格らしい。こいつに頼ることは諦めてどうにかして尾行を撒かなくてはならない。
とりあえず大通りの方を目指して歩くが、土地勘のない場所が災いして行き止まりに着いてしまう。再び心臓が大きく鳴る。ゆっくりと背後へ視線を向けると、もう姿を隠す必要のなくなった追っ手が、ゆっくりとこちらに歩いて来る。全身を茶色のマントで覆っているが、右手に持った両刃の片手剣からは殺意が剥き出しだった。
「お前に恨みはないが死んでもらうぞ。恨むなら天子になった運命と堕天使を恨むんだな」
男の声。何故だ、何故天子を殺す必要があるんだ。こいつの目的は、堕天使とは一体どういう事だ、ルシルは天使じゃないのか。様々な疑問が頭を過ぎるが何一つ答えは出ず、ルシルも黙っている。混乱した頭の中で明確にあるのは死というただ一つの文字だけだった。