第1話
『進路希望調査票』
誰も居ない教室の自分の席で俺は一枚の紙と睨めっこをしていた。紙の上の欄に『2年2組エフィム・セルトサム』と書いてから暫く経っている。
大学に進学する頭も、勉強する気もないので就職一択なのだが、問題はどこに就職するかだ。特にやりたい事もなく、自分で向いてると思う職業もない。俺だけでなく多くの同級生が同じ事を思ったに違いない。しかし同級生は春休み前に自分なりに進路を決め、今頃は進路に向けて各々資料を集めたり面接の練習をしたりしているだろう。自分一人だけが遅れていると理解はしているのだが、俺の心には一向に焦りは生まれない。寧ろ一人で教室に居るという状況に心地よさのようなものを感じていた。
「また雪降ってきたのか」
ふと視線を窓へ向けると、静かに雪が降り始めていた。俺の住む『エウメプ』という国は地球の北に位置していて、毎年春の中頃までは雪が残っている事が多い。今年の春は天気も良く気温も上がり気味だったので、いつもより早く雪解けが始まると期待していたが、この分だと例年と変わりなさそうだ。
席から立ち上がり、窓際に立って雪が降る様子を見ていると諦めに似た感情が湧いて来た。興味がある仕事は勿論、目新しい仕事に就く意欲もない。ならば自分でも知っていて、社会的にも無難な会社を選んでしまおう。俺は溜め息を吐くと、席に戻って鉛筆を取った。
『第一希望 国立歴史研究所リュンリグネ支部』
悩んだ末に選んだのは地元の遺跡研究所だ。遺跡研究所といっても学者になるわけではなく、遺跡の発掘員だ。
今から約百五十年前、地上に天使が存在している事が発覚した。天使は遥か昔にも地球上に人間が生息していたこと、その時のことを旧世界と呼び、遺物が世界中に眠っていること、自分以外の天使も遺物と共に眠っていることを世界中に伝えた。それからは天使を崇める教会の建設やら遺跡の発掘が盛んに行われるようになった。
旧世界の遺物は便利な物で、瞬く間に文明を進化させ、今では各国から文明を集めて解明・発展させる国まで誕生した。天使の存在が発覚した年から紀年を『再歴』に変更し、今は再歴百五十八年だ。
というわけで、現代でも遺跡発掘員はかなりメジャーな職業だ。とりあえず書く事は書いたので、担任に持って行こう。
ちらつく雪をものともせず、グラウンドでは運動部が溌剌と声を張って練習に励んでいる。授業が行われていなければ、生徒の話し声も聞こえてこない校舎の中では、彼らの声が少し煩く感じた。
「失礼します」
職員室へと入ると教師数人が机に向かって書類を処理していた。顔振りを見るに二学年の担任ばかりだったので、進路に関する資料をまとめているのだろう。紙の擦れる音とペンで文字を書く音が、いやに鮮明に聞こえる空間を進んで行く。
「おお、エフィム、進路は決まったか?」
灰色のスーツを着て机の上で書類をまとめている男が俺の担任だ。
「はい。遅くなりました」
担任に進路調査票を渡すと、安心したように頷かれた。
「歴史研究所か、分かった。雪も降り始めて来たし、今日は早いとこ帰るといい」
「はい。失礼します」
担任に一礼して職員室を後にする。さて、許可も貰ったし早く帰ろう。一度教室に戻って荷物を取ってこなくては。
教室に戻ってコートとマフラーを身に着け、鞄を持って教室を出ようとして一度振り返る。人気のない昼間の教室はなんだか不思議な空間で好きだ。日常とは違った何かが起きるのではないかと期待すら抱いてしまう。
「はぁ、何も起きるわけないって」
溜め息を吐いて意識を現実へ戻すと同時に踵を返して教室を出た。こんな風に非日常を求めるのも自分の将来と向き合う事を避けているからだろう。
校舎を出ると冷たい風が頬を撫でていき、思わず顔をマフラーに埋めた。先ほどより少し強く降り始めた雪を恨めしく思いながら、服の隙間から入り込んで来た冷気に身震いをした後、帰路に着いた。
三十分ほど歩くと家が見えてきて早く温まろうと思う反面、憂鬱な気分が湧いてくる。玄関を開けた後の展開を想像していると自然と歩みが遅くなってしまうが、帰らない訳にはいかない。
重くなった足を引きずるようにして玄関の前までたどり着く。無意識の内に前傾姿勢になった俺は、ゆっくりとドアに手を掛けて出来るだけ静かに開ける。まったく、自分の家に入るのにどうしてこんなに慎重にしなければならないのか。
「エフィム!?」
ほとんど物音は立てていないはずなのだが帰宅した事が気づかれてしまったようだ。居間から少女が顔を出してこちらを見ている。一体どんな聴覚を持っているのだろうか、もしくは第六感と呼べる感覚を持っているのか。ともあれバレてしまったのなら静かに動く必要はない。小さく溜め息を漏らしながら姿勢を戻して家の中に入り、重たくなった体でどうにか靴を脱いだ。
そうこうしている内に少女はリビングから出て来て、ライム・イエローの髪を高めの位置で結んだツインテールを揺らしながら嬉しそうに駆け寄って来る。
「お帰りなさーい!」
「おいマルカ、抱き着いてくるなって何度も言ってるだろ」
この少女はマルカ・セルトサム。二つ年下の妹だ。実は家に帰りたくなかった原因がこのマルカである。明るくて優しい上に文武両道で進学校に入学。内容は知らないが最近じゃ論文を書き上げて研究所で称されたぐらいだ。更には考古学者になるという明確な夢もあって俺とはまるで似てない。唯一足りない物と言ったら、身長と胸ぐらいだろうがそんなのは平均未満というだけで大した問題ではない。そんなハイスペックな妹が俺に懐いてこられても正直、劣等感しか抱かない。とは言ってもマルカは何も悪くないのだから強く拒絶する訳にもいかない。なんとも情けない話しである。
「えー、だって朝起きたらエフィムもう学校行っちゃってたから寂しかったんだよぉ。学校があるなら言ってくれればちゃんと起きて見送りしたのに・・・」
俺の胸に頬擦りしながらこんな事を言うのも勿論、素である。
「はぁ……それにしてもよく分かったな、俺が帰って来たって」
マルカの両肩を掴み、さりげなく引き離す。
「だってエフィムの妹だもん。匂いで分かるよ」
なんてことだ、聴覚でも第六感でもなく嗅覚で人の気配を察知したのか。無垢な笑顔を向けてくる辺り、嘘や冗談を言っているようには思えない。動物的感覚までも優れているとは末恐ろしい妹だ。
マルカの笑顔を見ていると、自分が半ば投げやりに進路を決めた事が、とてつもなく愚かだと思えてきた。俺は逃げるようにして自室のある二階へ向かった。
マルカに呼ばれた気がしたが聞こえないふりをした。
二階に上がって手前の部屋、自室に入る。俺の部屋は一通りの家具が置いてあるだけで、特に散らかるような物は何もない。我ながら生活感がないと思うが、それで良い。自室なのだから自分が落ち着ければそれ以外は求めない。
母親やマルカには不評で、知らぬ間に変な形をした置物やぬいぐるみなどが配置されていることがある。勿論そういった物のほとんどは本人達に返すかタンスの中でお眠り頂いている。
鞄を机の上に置き、ベッドに仰向けで寝転ぶと昔の事が蘇ってくる。
昔と言ってもまだ四年程度しか経っていないが、俺も元から卑屈でマルカの事が苦手だったわけではない。あの時、俺があんなことをしなければ……。
違う。今は後悔している場合ではない。それよりも現実の進路について考えないとだ。適当に選んだとはいえ、就職するからには真面目に働かなくてはならない。しかし、自分が社会に出て働く姿がイメージ出来ない。こんななんの取り柄もない俺を雇う会社や、現場で共に働く上司の人には今から申し訳なく思えてくるし、そもそも自分が無事に就職できるかどうかすら分からない。
「ダメだ」
考え事をするとどうしても卑屈になってしまう。取り敢えず着替えを済ませようと思い、俺は上半身を起こしてベッドから降りた。