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 ――ミ…………んっ!


(……なんだ?)


 ――ミ……カ……くん!


 慌ただしく繰り返される誰かの呼びかけが、黄泉の淵から自分を呼び戻してくれた。


 ――ミカ……セくん!


 霞みきった視界、肩から胸に走る焼けるような激痛、傍らで取り乱したように自分の名前を呼び続ける同級生。

どうしてこのような事態に陥ったのかと小一時間前の記憶を辿ろうとするのだが、その都度凶悪な目眩と吐き気に見舞われ、思い出すどころではない。


 「うっ……」

 「ミカセくんっ!!」


 目に涙を溜めた同級生の水崎利奈みずさき・りなは、仰向けに倒れ込んだ宗御寺ミカセ(しゅうおんじ・みかせ)の横に膝をつきながら見下ろしていた。死人のように顔面は蒼白としており、ミカセの肩にあてがった手も小刻みに震えている。


 「み、水崎……」


 不安と恐怖の入り交じった水崎の顔を見たとき、ミカセは彼女に誘われて一緒に下校したことを思い出す。


 「…………!」


 ガチガチと歯を鳴らしながら怯えた顔で一点を見つめる水崎の視線は、自分の胸部に注がれていた。


 ミカセは恐る恐る胸に手を伸ばすと、どろりとした生ぬるい液体が学生服を湿らせているのに気づく。その液体が午後から降り出した大雨によるものではないと理解したのは、掌を眼前まで近づけたときだ。


 「ははっ、ひどいな……これ……うっ!」


 宗御寺ミカセの体は、袈裟斬りを受けたように左肩の付け根から鳩尾までぱっくりと裂け、大量の血液が体外へ流れ出していた。


 余りの出来事に空笑いするしかなかった。いつの間にか胸部からは熱は引き、代わりに耐え難い寒気が襲ってきた。自分の命がそう長くはないことを否が応にも悟らざるえない状況だ。


 「動かないでっ」


 身を起こそうとしても力が入らない。


 「なにがあった?」


 「覚えてない……の?」


 短い沈黙の後、水崎は不思議そうな顔で問い返してきた。

 「一緒に公園まで来たのはかすかだが覚えてる、そこから先が……」

 紫色になった唇を噛みしめ、ミカセは答えた。


 二人で校門を出た、そのまま水崎の家がある別荘街までうねり坂を登って……それから帰り道の途中で雨に降られ、公園で雨宿りしていた。濡れた衣類が肌に張り付く不快な感覚と、倒れたときに付着したと思わしき砂利が手の甲に残っている。


 「……」


 必死に記憶を辿るも、そこから先が思い出せない。水崎はうつむいたまま口ごもるばかりで要領を得ない。


 「まさかお前が?」

 「ちがう! 私じゃない! 私はなにも……」


 水崎の透き通った声が公園の外周を覆うコンクリート製の土手に反響した。先ほどまで降りしきっていた雨は止んでおり、日は完全に落ち、公園の外灯が人気のない周囲を空しく照らしている。


 意味ありげに押し黙る水崎に発破をかけただけであって、高校の同級生であり、学校のアイドル的存在である彼女が自分を手にかけようとしたなどと端から思ってもいない。だが状況が状況だ、無思慮な一言は彼女に余計な重圧を与えてしまったようだ。


 「冗談だ、気にしなくていい」


 濡れた衣服が体温を奪っていく。手足の感覚はほとんどなく、まるでデパートのマネキンになった気分だ。


 「ごめんなさい……」 

「あやまるな」


  だらりと垂れた水崎の黒髪から雫がしたたり落ち、ミカセの頬を打った。今となっては濡れた彼女の髪をかき分けてやることも適わず、その奥にある涙を湛えた双眸を見つめてやることがやっとだ。


 「……たの」

 「なんだって?」


 水崎が口をかすかに動かしたを見たが、肝心の言葉を聞き漏らした。彼女は震えを止めようと必死に両腕で体を抱えながら続けた。


 「最近東京のほうで噂になってる“引き裂き魔”によく似てたの」


 “引き裂き魔”――。ここ数週間毎日のように耳にしている名だ。首都圏で起きている“特定の人物”を狙った連続殺人事件の犯人で、鋭い刃物で人体をバラバラに引き裂く常軌を逸した手口と、雨合羽に鎌を持って現れるという異様な風体が話題となり、連日そのニュースで持ちきりだった。


 「知ってはいる、だけどアレが襲うのは金持ちや政治家だけって話じゃなかったか?」


 「……わからない。あそこのベンチで雨宿りしてたとき、雨合羽を着た“男”の人が現れて、ミカセくんの名前を呼んだの」

 「それで?」

 「ミカセくんが返事をしたらその人、いきなり鎌で斬りかかってきた。顔はよく見てないけど噂で聞いた引き裂き魔とそっくりだったから……」


 ひとしきり言い切ると、水崎は両手で顔を覆いながら項垂れてしまった。恐怖と緊張で心身ともに疲弊しきっている様子だ、これ以上負担をかけるべきではないと判断したミカセは会話を打ち切って、彼女が指さしていたベンチを見た。


 公園は閑静な住宅街の一角に造られており、出来て間もないこともあってか他の児童公園よりも豪華だ。縦横五十メートルほどの空間には真新しい遊具が並んでおり、蛍光色のペンキが外灯の光を反射している。地面は先ほどの雨でぬかるんでおり、所々水たまりができていた。


 公園の中央には屋根付きのベンチが佇んでいる。先ほどまで水崎と二人で雨宿りしていた場所だ。今自分がいるのは、そこから二十メートルほど先にある砂場の近く。丁度公園と私有地を隔てる垣根の側だ。


 どこで切りつけられたか定かではないが、ベンチからだいぶ離れている。


 (引き裂き魔……か)


 この事件を初めて耳にしたのはほんの半年ほど前だ。奇人気のある友人がえらく熱心に語っていたを覚えている。一般人の自分には関係ない話だと一笑に付してやりたい気持ちはあったが、なにぶん時期がわるかった。三ヶ月前にミカセの通っている学校の女生徒が何者かに強姦されて殺されるという事件が発生していて、未だに犯人は捕まっていない。そのうえ学区内では刃物を携行した不審者の目撃例が相次いでおり、集団登下校の推奨や父兄の見回りなどが行われていた。よそ者の多い土地柄、最近の治安はお世辞にも良いとはいえなかった。


 不審者の目撃と女生徒の件に関連性があるのか分からないが、悪い出来事が同時期に重なり、住民の不安は増すばかりだ。


 「――うぐっ!」

 「ミカセくん!」


 傷口をさすると強い痛みを感じた。ぬかるんだ地面は体温を絶えず奪っている。寒気が酷く身体の震えが止まらない、このままでは一時間と持たないだろう。


 「水崎は無事なのか?」

 「うん、私は大丈夫。あの人が助けてくれたから……」

 (あの人?)


 水崎は公園入り口の方に顔を向けた。ミカセもその先を目で追うと、阿津山台公園と書かれた門柱の辺りに人影が見て取れた。


  (一人……いや、二人だ)


 二つの人影が不動のまま向かい合っていた。目がかすんでいるせいで細部まで見捉えることはできないが、二人とも黒っぽい服装をしている。


 「なっ!」


 目を細めて奥の人物に焦点を合わせたとき、ミカセの心臓が高鳴った。水崎が言ったとおりその人物は紺色の雨合羽を纏い、凶器の鎌をもっていた。


 本物か、それとも悪質な模倣犯なのか定かではない。だが自分に危害を加えたであろう犯人がいまだ同じ場所にとどまっていることと、犯人と対峙するもう一人の人物が存在するということは紛れもない事実だった。

 ミカセは血の気の引いて真っ青になった首をもたげ、引き裂き魔と対峙している人物を見た。


 着用しているのは外套だろうか? 真夏も近いというのに襟から踵まで覆う長さのトレンチコートを着込んでおり、外套に溶け込むような漆黒の髪の毛が腰まで伸びている。外灯の光を浴びて刃物のようにぎらつく濡れ髪は、まるで魔性でも持っているかのようにミカセの目を釘付けにした。


 身長はミカセより少し低いぐらいだが、均衡の取れた細身の体をしており、その人物は女性のように思えた。


 「ミカセくんが怪我したの見て私……、怖くて動けなくなって……」

 「あそこにいるヤツが助けに?」

 「女の人だったと思う。突然のことだったからよく覚えてないけど、私が襲われそうになったとき間に割って入って助けてくれたの」

 「他には? 他にだれかいないのか!?」


 その女はたまたま公園を通りすがり、自分たちが襲われているのを見て咄嗟に助けようとしたにちがいない。このままでは見ず知らずの女性にまで危害が及んでしまう。


 「ううん、他にはだれも……」

 「水崎、お前動けるか?」


 痺れがかった首から力を抜いた瞬間、ぐしゃりとぬかるんだ地面に後頭部が接触した。


 「う、うん」

 「なら、今すぐここを出て警察を呼べ。奥の垣根を越えれば近くに家がある」


 女一人で今し方人を殺そうとした凶悪犯に立ち向かうなど無謀極まりない。一刻も早く人を呼ぶ必要があった。


 「……でも」

 「俺のことはいい、早く行け!」

 「……わかった。すぐに戻るから」


 ミカセの怒声に一瞬びくついたものの、水崎はすぐさま立ち上がり、スカートにこびり付いた泥を払うこともなく公園の奥まで駆けていった。


 「クソッ!」


 水崎が椿の垣根を越えて路地に姿を消した見て、ミカセは毒づいた。

 頭に血が回っていないというのもあるだろうが、今の今まで“助けを呼ぶ”という簡単な行動すら起こせなかった自分の愚かさを呪った。その上満足に立ち上がることも出来ず、怯えきっていた水崎を叱咤して助けを呼びに行かせるなど、無能の極みだ。


 「おいアンタ! 早くそこから逃げろ!」


 いまだ直立不動のまま凶悪犯と向かい合っている女に呼びかけた。大声を上げようと深く息を吸い込む度、破れた腹から空気が抜けていくような気がした。何度も呼びかけたが応答はない。それどころか自分の声がどんどん小さくなっている。気づくと肺一杯に空気を吸い込んでも出せる声は小声程度まで下がっていた。


 (まずい……、このままじゃ……)


 だんだんと意識が遠くなっていく。自分の視界に再び濃い靄が覆いつくし、これは大声を張り上げ続けた事による酸欠などではないと理解するのにそう時間はかからなかった。


 (嘘だろ……)


人生経験が少ないせいか、死ぬ間際に見えるという走馬燈に写った人物も少ない。奇人気の強い友人に、幼なじみとその妹、それから……不思議な姿をした七人の女たち。


 

 ――霧の王よ――。

 


 意識が心の奥底にある泥のような老廃物に埋もれる寸前、どこからともなく自分を呼ぶ声が聞こえた。その声をとても懐かしく感じ、記憶を巡らそうとしたがすでに手遅れだった。


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