口裂け女、リベンジ
「なんで!? なにっ、なになになになにっ!?」
上手く文章にもなっていない台詞を吐き散らしながら、後ずさると、すぐに壁が背中に当たった。
聞き覚えのある声だ。
感じ覚えのある恐怖だ。
本棚の陰から響いてきた声は、全身に汗をにじませ、脳内にこれでもかと警鐘を鳴らす。
続けて、数日前の一件がフラッシュバックしていく。
あの赤い服が、俺の頭の中でこれでもかと思い起こされる。
だが、身構えて居た俺の前に現れたのは、想像とは微妙にズレた現実だった。
「……晴香?」
休んでいた筈の犬飼晴香。
たった今、魚住との話題に上がったばかりの彼女が、そこには立っていた。
風邪をひいたと聞いていたが、確かに、口には大きなマスクをつけている。
が、緊張を張り詰めさせたままの俺とっては、そのマスクは不吉のシンボルとしか映らないため、晴香を見た後でも安心などできない。
得体の知れない直感が、絶え間なく「逃げろ」と告げてくる。
そして、それはどうやら正しい警告だったらしい。
晴香は、人間の挙動ではありえない角度で首を曲げて、その爛々とした瞳をこちらへと向け、一言。
「――――なんで?」
と、言った。
なんでと言われても、何を聞いているのか解らない。
どの道、その声に込められた、まるで煮詰めた泥のような意思が感じられて、俺はそれに対して口を開けはしない。
人が最も恐れるのは、会話の通じない相手だという。
今の晴香は、まさに、それだ。
「なんで、なんで、真白は、魚住君に、あんなこと、言ったの」
「な……ん、の、事だよ……」
「とぼけないで」
晴香は一歩、こちらへと踏み出した。
恐ろしいのは、上半身が全く揺れなかった事だ。
足だけが機械のように前進の動作を行い、その上に、浮いたように身体が乗って居る。
人の歩く様ではない。
「言った。真白は言った。言った。わたし、聞いた。聞いたから。聞いちゃったから」
「だっ、だから、何を……」
「言った、私とは絶対に、付き合わないって言った」
ずるり、ずるりと、右足だけが歩く。
左足を引きずりながら迫る晴香は、立っているのに、まるで這っているかのような印象を覚える。
「私とは付き合わないって。言った。私とは、私とは、だから、魚住君に、私と付き合わせようとした。聞いた、見た。私は、見た。だから、私は、私は、私は」
「……な、なんで怒るんだよ……お前、あいつのこと好きなんじゃ……」
「何も、解ってない」
どん、と背後で音がした。
「……えっ、なっ……」
数秒遅れて、俺の頭のすぐ横を本が通過して、壁に突き刺さったのを理解する。
やはり、人間の出来る技では無い。
今の晴香は、少なくとも普通の人間ではないのだ。
「わたし、キレイ?」
再び、その台詞を聞いてしまう。
「わたし、キレイ?」
その瞳をぎょろぎょろと、四方八方へと揺らして、辺りを彷徨った瞳孔が突然に俺を捉える。
「キレイじゃ、ない?」
マスクの向こうで、大きく口が開く。
「私は好きなのに。こんなに好きなのに、真白は解ってくれない。何も解ってくれない。ずっとずっと見てたのに気付いてくれない。許せない。許せない。人にあげようとした。私をあげようとした。私は真白を渡したくないのに。真白は私をあげちゃうんだ。そんなに嫌なんだ。あの女は良いのに、私は駄目なんだ。三次元とかじゃないんだ。アニメキャラじゃ無くても良いんだ。私だから駄目なんだ。そっか、解った。解ったよ、もう。真白は私が嫌いなんだね。もう解った。解っちゃった、あははっ、解ったよ。真白は解らないのに、私は解っちゃったよ。私は真白の事なら解るんだよ。なんでも解るんだよ。だって愛してるんだもん。愛が有るから貴方を理解できるんだよ。でも貴方には解るかな。解らないよね、愛がないもん。私に向ける愛がないもん。知ってる。知ってた。でも、今初めてそれを直視した。見たくなかった。なんで見せたの。なんで聞かせたの。酷い。酷い。酷い。酷い。酷い。酷い。酷い。酷い。酷い。酷い。酷い。酷い。酷い。でも。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。大好き。だから――――」
晴香の指が、その大きなマスクの紐にかかって。
外れる。
マスクと一緒に、人としての枠を、外れる。
「――――――――――いただきます」
巨大な口を開けて、晴香が俺へと躍りかかる。
「うっ、うわぁあああああああああああ!!」
俺は無様に横に転げて、それをかろうじてかわす。
日ごろからろくに運動もしていないくせに、よく反応できたものだ。
だが、晴香が俺の背後にあった壁に噛みつく。
その壁が、めきり、と音を立ててひしゃげる。
まともに食らっていれば、どこに当たっても致命傷になりかねない。
「……美味しくないよ、真白」
ぐるりとこちらを振り向くと、壁を蹴って直線的に晴香が飛んでくる。
とっさに俺は身体をごろりと転がして、机の下に潜り込んでいく。
ばりっ。
と、乾いた音に顔を上げれば、さながらクッキーでも齧るかのように、晴香がばりばりと机を噛みちぎって居る。
「……ま、前の口裂け女より、タチが悪いんじゃないか……!」
かろうじて腰は抜けて居ない。
立ち上がれば走りだせる。
そして、この位置関係ならば、すぐに扉を開けて廊下に逃げていける。
俺のそんな余裕は、出口の扉に近づいた瞬間に簡単に砕け散った。
「うっ…………うわぁあああああああっ!?」
扉からめきめきと生えて来たのは、牙。
口裂け女の顔に煌めく、無数の牙と同じくらいに鋭い牙が、図書室の扉にびっしりと生えて俺を阻んだ。
「……口……そうか、『出入り口』……!? くそっ、そういう事も出来るのかよ!」
この図書中の出入り口は全て、使用できないものと考えた方がよさそうだ。
だが、そうすると俺は完全に閉じ込められた事になる。
通常の教室よりはマシだが、この図書室と言う閉鎖空間の中で口裂け晴香から逃げ惑い続ける。
それはもはや、助からない事を意味しているのではないか。
「……どうすんだよ、これ……」
晴香がじりじりとこちらに寄って来る。
なんとかしなければ、と焦りを募らせた時、ポケットの中で携帯が鳴った。
慌てて、番号通知の画面を確認する。
「公衆電話……? しめた!」
同人誌を探しに行かせたロアには、その収穫の程を昼休みの時間に公衆電話で連絡するように言っておいたのだ
なんというタイミングの良さだろうか。
これで助けが呼べる、と、喜び勇んで通話をとった。
「ろ、ロアか! 今はどこに居る! もうこっちに帰ってきてるのか!?」
『やあ、真白君。その事なんだけどさぁ。』
次に発された言葉を聞いて、俺は絶望の下にはまだ絶望が有ると言う事を思い知らされた。
『ごめん、間違えて特急列車に乗っちゃってさ。ここ、どこだろうね』