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一口惚れの恋の味  作者: 猫塚ルイ


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第五話 着流しの休日

鳳凰館の給仕としての休日。


私は、聞き慣れた下駄の音さえかき消されるほど、賑わいを増した帝都の雑踏の中にいた。


行き交う馬車の車輪が石畳を叩き、道行く人々の活気が春の陽気と混ざり合う。


両手には、抱えきれないほど膨らんだ風呂敷包みが二つ。


「これは仕事の研究のためだから」と自分に言い聞かせているけれど


結局のところ、市場を巡る私の頭にあるのは煌様のお顔ばかりだった。


「もっと新しい味を」

「あの方が驚くような一皿を」


そんな欲張りな思考に急かされるまま、あれもこれもと食材を買い込めば


いつの間にか風呂敷ははち切れんばかりに膨れ上がり、私の腕を容赦なく圧迫していた。


「うう、少し……買い込みすぎたかも……」


重みに耐えかね、視界が荷物で遮られそうになる。


慣れない人混みの中で、ふらりと足がもつれた。


石畳のわずかな段差に足を取られ、無様に転びそうになった、その時だった。


「おっと。危ないぞ」


強い力で、ぐいと右腕を引き寄せられた。


地面に叩きつけられる衝撃に備えて固く閉じていた目を開けると


そこには見慣れぬ「紺色の着流し」があった。


鼻をくすぐったのは、凛とした墨の香りと、記憶に深く刻まれているあの清涼な匂い。


恐る恐る視線を上げれば、そこにはいつもの威圧的な軍帽を脱ぎ、前髪を自然に下ろした──


私服姿の煌様が、呆れたような、けれど優しい眼差しで私を見下ろしていた。


「あ、煌様……っ!?」


「……雪、こんなところで、一人で何をしている」


漆黒の軍服を脱ぎ捨てた彼は、軍人としての鋭さが影を潜め


どこか余裕のある大人の男性の包容力を漂わせている。


着流しから覗く首筋や、無造作な髪筋があまりに格好良くて


私は謝るのも忘れて、ただただ呆然と見惚れてしまった。


「あ、すみません!その、ぼうっとしていて……。助けていただいて、ありがとうございます」


我に返って何度も頭を下げようとする私を見て、煌様はふっと口角を上げた。


その、まるで少年のように純粋な表情に、私の胸は壊れそうなほど跳ねる。


彼は私の塞がった両手を見て、さりげなく、けれど拒絶を許さない速さで手を伸ばした。


「重そうだな。半分貸せ」


「えっ、いえ!滅相もありません。ただの給仕の荷物を、少佐殿……いえ、煌様に持たせるなんて…」


「今は少佐ではない。ただの男だ。……君は、案外頑固だな」


煌様は困ったように苦笑すると、私の性格を察してか、全部を取り上げるのではなく


一番重そうだった野菜と肉の包みだけをひょいと持ち上げた。


そして、少し軽くなった方の包みを私に手渡し


「さあ、行くぞ」と促すように歩き出した。


私も横に並び歩く。


「……買い物の帰りか?」


隣を歩く煌様との距離があまりに近くて、生きた心地がしない。


私は肩が触れ合わないよう必死に意識しながら、顔を伏せたまま声を絞り出した。


「あ、はい!煌様にもっと美味しいご飯をと思って……。料理の研究がてら、まだ使ったことのない食材を買い込んできたんです」


「……休日まで、私のために使っているのか?」


煌様が唐突に足を止め、不思議そうに私を覗き込んだ。


「? えっと…はい。……何か、おかしいでしょうか…?」


「いや……仕事熱心なのだなと思っただけだ。…感心する」


煌様はわずかに視線を逸らした。


その時、彼の耳たぶが、夕陽のせいではなく


心なしか赤くなっているように見えた。


私のために照れてくださっているのだろうか


そんな自惚れが頭をよぎり、胸の奥がくすぐったくなる。


「ふふ、そう言ってもらえると嬉しいです!リクエストなどあれば、何でも教えてくださいね。いくらでも勉強して、最高の一皿を作りますから!」


私が意気込んで顔を上げると煌様は「そうか、それは楽しみだな…考えておく」と笑ってくれた。


そのとき、ちょうど通りは大きな交差点へと差し掛かった。


休日を楽しむ家族連れや人力車が溢れ、前後左右から波のように人混みが押し寄せてくる。


「っ、きゃ……!」


背後から来た男に肩を突かれ、煌様から引き離されそうになったその瞬間。


ぐい、と。


大きな、熱い掌が私の手を包み込んだ。


「大丈夫か?」


「は、はい、助かりました…!ありがとうございます…っ…えっと、でも、どうして手を?」


「はぐれないように、手を繋いでおいた方がいいだろう」


「な、なるほど…!お気遣いありがとうございます」


それも、ただの手繋ぎではない。


指と指を深く、隙間なく絡める『恋人繋ぎ』というやり方で。


「?!あ、煌様……っ。あの、この繋ぎ方は…その……っ」


手のひらから伝わる、あまりに親密で熱い感触。指の間を埋め尽くす彼の体温。


心臓が爆発しそうなほど激しく打ち鳴らされ、私の顔は瞬く間に、沸騰したかのように赤くなった。


私のあまりの狼狽ぶりに気づいたのか、煌様はハッとしたように目を見開いた。


「……!す、すまない。つい、無意識に…」


煌様は慌てて指を解くと、まるで何事もなかったかのように、サッと普通の手繋ぎに直した。


その、あまりに滑らかで淀みのない「繋ぎなおし」。


そして、何より彼が無意識に口にした「つい」という言葉。


(つい……無意識に、あんな繋ぎ方を……?)


一瞬前までの熱狂が、急速に冷めていくのを感じた。


私の胸には、冷たい泥のような感情がじわりと広がっていく。


煌様のような、立派で、美しくて


誰からも慕われるお方なら、女性をエスコートすることなんて呼吸をするように慣れているはずだ。


鳳凰館の廊下で囁かれる、彼を慕う名家の令嬢たちの噂は絶えない。


私には知らない、彼が「つい」そんな振る舞いをしてしまうような相手が


これまでも、そして今も、私の知らない場所に何人もいるのだろうか。


「……どうした、雪。急に顔色が悪いぞ、人混みで酔ったか…?」


「いいえ、何でもありません…!お言葉に甘えて…はぐれないように握らせてもらいますね」


私は無理やり唇の端を上げて、彼の温かな掌を握り返した。


手のひらから伝わる熱はこんなにも心地よくて、私を安心させてくれるはずなのに。


私の心は、どこまでも晴れ渡った帝都の青空とは裏腹に、どんよりとした暗い雲に覆われていくようだった。


煌様にとっての「普通」が、私にとっては一生に一度の「特別」すぎて。


その残酷なまでの距離に


私はまた一つ、身分不相応な恋がもたらす、苦い毒の味を知ってしまうのだった。

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