第十話 孤立無援の給仕室
煌様のあの一言から、私の世界は音を立てて凍りついてしまった。
あの日以来、一号室へ食事を運ぶ役割は、私の担当から外され、別の給仕へと代わってしまった。
鳳凰館の長い廊下で、偶然あの方とすれ違うことはあっても
煌様は私に一瞥もくれず、ただ冷徹な軍靴の音を石畳に響かせて通り過ぎていく。
かつて私を抱きとめてくれたあの腕の温もりも、手作りのお菓子を口に含んで
「美味い」と細められた慈愛に満ちた瞳も
すべては身の程知らずな私の見ていた淡い夢だったのだと、突き放されるたびに思い知らされる。
「ちょっと、そこどいてよ。邪魔なんだけど」
洗い場に立ち、冷え切った指先で皿を洗っていた私の背中に、氷のような冷たい声が浴びせられる。
振り返る間もなく、わざとらしく肩をぶつけられ
私は均衡を崩して冷水の張った桶に深々と手を突っ込んでしまった。
「……っ、すみません」
「謝れば済むと思ってんの? 煌様に少し特別扱いされたからって、掃除も手抜いてんじゃないわよ。ねえ、みんな?」
周囲にいた給仕たちが、隠そうともしない嘲笑を漏らす。
その刺々しい視線が、針のように私の肌に突き刺さる。
以前は「仕事熱心ね」と微笑んでくれていた人たちまで
今は私を「煌様を誑かした泥棒猫」としてしか見ていない。
無視されるのはまだマシな方で
配膳の準備をしていれば通りすがりに足をかけられ
庭の片隅で大切に育てていたハーブの鉢植えは
いつの間にか誰かの手によって無惨に踏み荒らされ、土が飛び散っていた。
「……ううっ……」
厨房の裏。
一人で割れた植木鉢の破片を拾い集めていると
堪えていたものが決壊し、視界が急速に滲んで止まらなくなる。
今の私には、寄り添ってくれる人は誰もいない。
女将さんは私の異変を案じてくれているけれど
煌様にあれほど明確に「戻れ」と
峻烈な拒絶を突きつけられた私には
誰かに助けを求める資格なんて、一欠片も残っていない気がしていた。
(あんなに優しくしてくださったのは……やっぱり、一時の気まぐれだったんだ…私のような女を、あの方が本当に気にかけてくださるはずなんてなかったのに)
茜色に染まる夕暮れ時。
鳳凰館の庭先で、煌様が今日の公務を終え、漆黒の馬車に乗り込む姿を遠目に見かけた。
私は思わず、太い柱の影に身を隠した。
今のこの、惨めで、情けなくて、薄汚れた姿を煌様の瞳に一瞬でも映したくなかった。
馬車の扉に手をかけた煌様が一度だけ、ふっと鳳凰館の建物の方へ視線を向けた気がした。
逆光に遮られ、その表情までは読み取れない。
けれど、あの方はすぐに冷たく前を見据えると
一度も振り返ることなく馬車の中へと消え、車輪の音を立てて走り去ってしまった。
「……寂しい……」
震える唇からこぼれ落ちた独り言は、春の冷たい夜風に無慈悲にかき消された。
煌様が側にいてくださるなら、どんなに辛い仕事も
かつての忌まわしい傷さえも、すべて乗り越えられると思っていた。
けれど、煌様に拒絶されるということが
これほどまでに私の心を削り取り、奈落のような孤独に突き落とすとは思わなかった。
何も手につかない。
煌様のためにと、夜更けに何度も書き直していた新しい献立のメモは
いつの間にか幾重もの涙の跡でボロボロになり
あの方を想って綴った文字は無惨に滲んで読めなくなっていた。
私は、ただの、名もなき卑小な給仕。
煌様は、この帝都を守る誇り高き、高貴な軍人様。
あまりに当たり前で、残酷なほど動かしがたい事実。
私は、冷え切った自分の両肩をきつく抱きしめることしかできなかった。
この孤独の荒野が、いつまで続くのか。
いつになれば、煌様の瞳に再び私が映る日が来るのか。
その答えさえ分からぬまま、私は暗い闇の中へ一人、沈んでいくようだった。




