キッチン
今、石塚さおりは困っていた。
今日は料理作ってネットに上げる予定で食材も全て準備したのだが我が家のキッチンが死んだ。IHのコンロが全く動かない。コンロが使えないと何も出来ない状況である。当然、修理業者に連絡したが明後日でないと来れないとの事。まあ、今日は土曜なので当然と言えば当然である。さて、どうする。
悩んだ挙句、携帯を取った。メモリーの一つをタップ、すぐさまコール音がなる。
聞き馴染んでいる声が聞こえてほっとする。「水上君?、今ちょっと良い」とまず切り出し先を続ける。「あのさ、悪いんだけど水上君の所のキッチン貸してくんない?」「どうしたの?」と短い返事と結構な雑音が聞こえてくる。「家のキッチン故障してさ、予定の料理をネットに上げれない事態になってるの」と事実をそのままに伝える。「え、それは大変だ」とまた短い返事。「でしょ、だからキッチン貸して、あそこなら機材もしっかりしているし見た目も良いから」と懇願する。ちょっとの沈黙……これはまずいかもと思う石塚。「悪い、今週と来週出張でこの土日は家に居ないんだ」と残酷な回答。終わったと思ったが「でも、あそこは坂上の家で今僕が借りている形なんだよね」「だから?」と石塚が少しイラつきながら答えると「坂上も鍵を持っているし僕はほぼ料理しないからキッチンは綺麗な状態、だから坂上に手伝ってもらったらと思ったわけ」
石塚は、何という神託と思い「借りても良いの」と再度確認すると「全然問題ないよ、どちらかと言うと坂上がOKすればだけどね。じゃあ、後は坂本と話してね」と言って一方的に電話は切れた。一方的に切れた事には不満はなくお礼が言えなかったと思った程度である。気持ちを切り替え次の坂本への連絡を早くしなければとあわてながら再度携帯をタップする。
今度は5回コールしてもまだなっている状態、6回、7回、8と言う所でやっと「ハイ」と坂本の声がした。「遅い」とまず口から出た。出た後にしまった今日はお願い事をするんだったと心の中で猛反省するが既に遅し。「悪かったな」とすまなそうな感じが全くない返事が来た。「あっ、遅いのは構わないし出てくれてありがとう」とフォローに回る。「はい?本当に石塚か?」と今度は坂本が疑うような声をだす。
「うん、さおりだよ、間違いない」と返事をすると「で、何か用事?」と聞いてきたので「あのさ、水上くん家の鍵持ってる?」
「ああ、僕が貸している家だからあるよ、どうした?」
「実はね我が家のキッチン故障して料理の動画が取れなくて困っているの、今日取って明日アップの予定だったんだけど……告知しちゃっているし予定通りにアップしないと問題なの」「別に一日遅れたって良いんじゃない」とつれない返事。
「だめだよ、こういうのはちゃんと告知通りしないと信用問題だから」と説明する。「フーン、で今水上に貸してるからあいつに直接頼めばいいじゃん」
「彼に連絡したら、出張中で家にいないんだって、そしたら坂上が鍵持っているから開けてもらって良いよって言ってくれたの、ねえ、キッチン貸してくれない。
あのキッチン良いキッチンだよね。動画の映りも良さそう」と最後は少し夢見がちに言う。「まあ、水上はほとんど使わないから、たまにはフルに使ってもらわないと逆に痛むし…… 良いよ」と坂上が答えた。「それで何時?」と追加で聞いてきた。
「今日今からでも良い?」と拝むように伝える。
「急だな、食材は?」と坂本。「家にある」とさおり。「運べるか」、「何とかする」と最低限の単語のやり取りをした後、「わかった車でそっちに行く、必要な物を車に積めるように準備しておいて」と言って切れた。
電話が切れて石塚はちょっとぽけーっとしていたが気を取り直して準備を始める。
30分ほどで石塚のマンションのエントランスのチャイムが鳴る。
必要なものを台車にのせて階下へ降りる。坂本が受け取り車へ、石塚が助手席に滑り込みシートベルトをする。坂本もシートベルトをしてすぐに水上のいない水上のマンションへ向かう。鍵を開けて台車ごと部屋に入る。
部屋の中はきれいに片付けられていて、キッチンなんかはモデルルーム並のきれいさで生活感が1ミリも無い。「やっぱりこのキッチン良いわ」と石塚。「まあ、こだわったからね」とまんざらでもない坂本。「さっそく借りるわね」と食材を出して、鍋やフライパンを引き戸から出す。どれも一流品である。
「手伝わなくて良いか」と声をかけたが「大丈夫、一人で出来るから」と石塚。
“一人で出来るもん”っかと小さく独り言のように言いながらリビングのソファーにひっくり返る。長さ2m越えの大きさでいざとなればここで寝る事も出来るほどの大きさである。ソファーでくつろいでいる剛を横目で見ながらさおりは食材を並べ動画撮影を開始。「みなさま、本日もさおりの動画サイトにお越しいただいてありがとうございます。」としゃべり始めた。剛は起き上がってTV局のスタジオを見る様にさおりを見る。石塚からは今日の料理はチコリのグラタンだが食材のチコリは値段が高いので家庭でも作れる様に一緒にナスのグラタンを作ると聞いている。
ちょっと作ってはカメラを回し、違う角度からも撮影、また作っては撮影と忙しく動き回る。それとは別に一気に料理を作りあげて最後の完成品の撮影をする。出演者からカメラマン、アシスタント、監督と一人で何役もこなしているさおりを感心して見ていた。
「今日はこんな感じで完成です。どうですか?皆さんも作ってみてください。レシピは概要欄にのせておきますね。それと今日は何かちょっと違うと思いませんか?実は我が家のキッチンがトラブりまして急遽知人のキッチンを借りました。
見ている人もわかると思いますがここのキッチンは私も欲しいぐらい良い仕様です。こんな家に住めるように私も頑張ります。これからもよろしくお願いします。それではまた。」と言って終わりとなった。
カメラを止めて「あー、終わった!」と大きく叫ぶ石塚。
「カメラ前の時と声がちがうだろ」と剛が言うと「これがスなの、カメラ前は緊張してるんだからしょうがないじゃない。それに今日は観客が一名いるのでさらに緊張したんだから」と撮影機材をキッチンから離れたところに置きながら言う。
「言ってくれれば、外に行ってたのに」と剛
「借りている身分でそんな事言えるわけないじゃない」と少しむくれ気味で言いながらキッチンを手際良く片付けを進めるさおりだった。「あ、そうだ、一緒に食べない?チコリとナスのグラタンが出来てるし動画では一口食べただけだから」と料理をダイニングテーブルに持って来た。「良い匂いがしていたのは確かだしおいしそうだ」とソファーから立ち上がりダイニングチェアに座る。「ワインがあるとさらに良いけど車だからやめとこう」と自分を制するように声にする。「残念ね、でも食事だけでもおいしいわよ」とチコリとナスのグラタンをそれぞれ小皿に分けて目の前においてくれる。「料理研究家のさおり様の料理をいただけるなんて恐悦至極にございます」と座りながら頭を下げる剛。「くるしゅうない、しっかりと味を楽しめよ」と笑いながら言うさおり。さおりも向かい側に座り一緒に食べる。
「チコリのグラタンはうまいけど好き嫌いがあるかもな、その点ナスは万人に受けるな。どちらもおいしい」と剛。「そうなのね、さらにチコリは食材が高いから、ナスでも作っておかないと見る人が減っちゃうからその辺も良く考えないといけないの」としみじみと言う。「横で見てたけど動画撮影も大変そうだな」とチコリを口に入れながら言う。「口にモノ入れてしゃべるのはエチケット違反よ。まあ、ここなら良いけど、でも撮影も大変だけどこれから編集があってそれも大変なの、忙しい時は外に頼むけど編集も好きだから自分でちょこちょことしてるけどね」とナスをフォークとナイフで小さくして口に運ぶ。
「みんな、見えないところで努力してるんだ」と剛。
「剛も同じでしょ」とさおり。
「まあね、でもそれをわかっているのは数名かな」と炭酸水を一口。
「水上君と静香と私、ぐらいかな」とさおりが言うと「そんなもんだな」と同意する。「だいたい、もうからない株取引しながらマンションの管理人していると思っている人ばっかりだからね」と坂本。
「でもその管理しているマンションの持ち主でもあるし株もほぼ動かさなくても良い感じで配当がでる大株主でしょ、そこら辺の一流企業の社員よりも上よ」と説明するように言うさおり。「上も下もないけどね。たまたまこういうのがはまっただけだから、さおりの様にちゃんと仕事している方が立派だよ」と言い返してきた。
「私も好きでしてきた事が仕事になっている感じだよ。でも今は料理教室も動画が無いと中々人が来ないから大変なんだからそれに家のキッチンが故障するなんてこともあるし」としみじみと言う。「壊れたらまた貸してあげるよ。あ、水上がいる時はあいつに確認してね」と言って、グラタン全てを食べつくした。
「ありがとう。また借りるかもしれないからその時はよろしくね」と使った皿を食洗機に入れる。その後、使った食材を片付けて入れられる食器と調理器具を食洗機に入れて最後にスイッチをONにする。小さい音が聞こえてきて洗い始めた事を知らせる。
「ご苦労様、編集は?」と聞くと「家に帰ってから一気にする」と一言。
「じゃあ、コーヒーでもいれるか」とキッチンを抜けてパントリーに入る。
「コーヒーメーカーはそっちにあるの?」とさおり、
「場所を変えてなければそのはず、あった、あった、やっぱりあいつは食についてはほぼ何もしないな」とパントリーから声がした。
数分後、コーヒーの良い匂いが部屋に漂ってきた。
ロイヤルコペンハーゲンの白いマグカップに入れて持って来た。
ちょうど、おいしそうなチョコがあったからもらったと坂本。
「え、良いの?水上君のでしょ」と石塚。
「後で、同じものを補充しておくよ」とさらっと言う坂本。
今度はソファーに並んで座りコーヒーを味わう二人。
「この家も良いわよね、でも意外と今住んでいるあのちょっと変わった家も良いと思う」と石塚。「僕もそう思う、ここもこだわって作ったけど、色々あってあそこに移ることになっただけで、あそこもあそこでいい感じに作ったし、まあここは空けているのももったいないから貸しているだけ」「私に貸してくれればよかったのに」と石塚。「まあ、タイミングかな。タイミングが合えば貸すよ」と坂本。「でも水上君が動かないかぁ」と本当に残念そうに石塚が声に出す。「しょうがないね」と坂本。「うん、しょうがない」と石塚。
二人のいる空間にコーヒーの香が静かに広がっていく。




