第8話:『筋肉の合宿!? 山の大家と、消えた新採用。』
「ヌンッ! 佐藤、ハスハラ! 準備はいいか! 街の空気は不純物が多すぎる。筋肉の真理を悟るには、母なる大自然の懐に飛び込むしかない!」
大家の轟さんの号令の下、僕たちは早朝の山道に立たされていた。
僕は相変わらず、どれだけスクワットをしても腕立てをしても、体つきに変化はない。鏡を見ても、そこには相変わらず「ひょろりとした、どこにでもいるニート」が映っている。
しかし、心境には変化があった。
以前の僕なら、この理不尽な状況に「死にたい」「消えたい」とだけ思っていたはずだ。
だが今は、首から下げた『スルー・パッシブ』の重みを感じながら、「まあ、大家さんが叫んでる間は、少なくとも孤独死はしなさそうだな」と、少しだけ冷めた、それでいて前向きな諦観を持てるようになっていた。
一方、僕の「後輩」になったハスハラは、完全に向こう側の世界へ足を踏み入れていた。
「ハァ……ハァ……! 大家さん! 山の酸素が、僕の毛細血管を……愛撫しています! もっと、もっと負荷を! 罪深き僕の脂肪を、労働の喜び(乳酸)に変えてくださいッ!」
ハスハラの目は血走り、その背中には早くも「鬼の顔」の片鱗が見え始めている。
未来の犯罪者だった面影はどこへやら、彼は今や「筋肉教」の熱狂的な信者へと変貌していた。
「いいぞハスハラ! 貴様の広背筋が、山脈と共鳴しておるわ!」
大家は満足げにハスハラの背中を叩き、二人は凄まじい速度で急斜面を駆け上がっていった。
「……置いていかれた。なあ、カズマ、アイツ……未来で俺が見た時は、もっとこう、不気味で陰湿な雰囲気だったんだぞ? なんで筋肉がついただけで、あんなに『熱血漢』になってんだよ」
僕のリュックの隙間から顔を出した猫が、心底気味悪そうに呟いた。
猫は「山なら大家も隙を見せるはず」と踏んで付いてきたのだが、ハスハラのあまりの変貌ぶりに、奪還作戦の計算が狂い始めているようだった。
「……変われるってことじゃないか、人は。……筋肉はつかなくても、さ」
僕は自分の細い腕を見つめながら、一歩ずつ山道を登る。
その時、前方の茂みがガサガサと揺れた。
「あ、佐藤さん! 奇遇ね! 私も今、この山の『地磁気と野生動物のタップダンス』についてフィールドワークしてたの!」
現れたのは、迷彩柄のフリル付きドレスに、巨大なパラボラアンテナを背負った白雪さんだった。もはや隠れる気があるのかないのか分からない「サバイバル・ゴスロリ」姿だ。
「……。白雪さん、それ、絶対に重いですよね?」
「佐藤さん、ハスハラ君を見なかった? 私の探知機に、彼の『更生エネルギー』が異常な数値で出てるんだけど」
白雪さんはアンテナをぐるぐると回しながら、僕の横をすり抜けて崖を垂直に登っていった。
『……おい。あの女、重力を「スルー」してやがる。……大家の筋肉も異常だが、あの隣人は物理法則そのものを無視してやがるぞ』
猫は白雪さんの背中を凝視しながら、あることに気づいた。
白雪さんが崖を登る際、腰に下げたポーチから、見覚えのある「紙切れ」がヒラリと落ちたのだ。
『……今だ! カズマ、俺を降ろせ! あの紙切れを回収して、あの女の弱みを握ってやる!』
猫は、僕のリュックから飛び降りると、白雪さんが崖を登る際に落とした、小さな紙の束へと一直線に駆けていった。
それは、白雪さんの腰から落ちた「何かのリスト」だった。
猫はそれを咥え、山を下り、誰にも見られないようにアパートへと急いだ。
自室に戻った猫は、僕の帰りを待たず、器用にリストを広げた。
そこには、ハスハラのものらしき顔写真と、彼の罪状(「時間軸逸脱による廃棄弁当不正入手」など、どうでもいいものばかりだったが)が詳細に書かれている。
さらにページをめくると、見覚えのあるだるんだるんの顔写真と、「松井(店長)、罪状:時空警察からの職務放棄および現代への密入国、偽装身分でのコンビニ店長就任」と書かれていた。
『……な、なんだと!? あの店長も、未来人だったのか!? しかも、白雪の捜査対象!?』
猫が驚愕したその時だった。
――ドガァァァンッ!!
凄まじい爆音と衝撃がアパート全体を揺るがし、僕の部屋の窓ガラスがガタガタと音を立てた。 外から、白い煙がモクモクと立ち上り、辺り一面を真っ白に包み込む。
『な、なんだ!? またあの女の仕業か!?』
猫は慌てて窓から顔を出すと、煙が晴れ始めた庭の真ん中に、立っているのを発見した。
年齢はせいぜい10歳前後だろうか。色素の薄い銀髪に、未来的なデザインのオーバーオールを身に着けている。
「アタタタタ……。白雪め。この僕のワープポッドをこんな古めかしい場所に転送させやがって……! どこに行きやがった!」
ショタは額を擦りながら、憤怒の表情で辺りを見回している。その視線が、ふと窓から顔を覗かせている猫を捉えた。
「ん? なんだ、お前。こんなところでだらけてるんじゃない。まさか、お前も白雪の仕業か!? この僕に、そんな可愛い猫(動物)のふりをして近づこうとでもいうのか!?」
猫は、この一連の状況に、もはや思考が追いつかなかった。
(……なんで、また人が? しかもこんな子供まで……。白雪の他に、まだ捜査官がいるのか? いや、もしかして、この子供も「時空犯罪者」……?)
混乱する猫の目の前で、ショタは腰に手を当てて仁王立ちし、空に向かって叫んだ。
「白雪! いい加減にしろ! この僕が『過去の遺物』に手こずっている間に、あの『大物』が逃げたらどうするんだ!」
煙が薄れる中、庭に立つショタは、窓辺の猫を「白雪の使い魔」か何かだと思い込んでいる様子だった。
猫――未来の俺は、リストを前足で隠しながら、内心で冷や汗を流していた。
(……このガキ、ただの子供じゃねぇ。さっきの挙動……未来のなんかの機械音だ。……マズいな、白雪だけでも手一杯なのに、さらに厄介なのが増えやがった)
猫は慎重に窓から庭へ飛び降り、ショタの足元まで歩み寄った。
情報を引き出すには、まず「ただの可愛い猫」として懐に飛び込むのが定石だ。
『……ニャ~ン(訳:お坊ちゃん、迷子ですかぁ? 怖くないですよぉ)』
猫はあざといほどに首を傾げ、ショタの足にスリスリと体を寄せた。
「ふん。猫か……。この時代の生物は、脳の構造が単純で羨ましいよ。僕なんて、白雪の尻拭いのために時空の激流に揉まれて、細胞が三つくらい死んだ気がするよ」
ショタはぶつぶつ言いながら、猫の頭を乱暴に、しかしどこか手慣れた様子で撫で回した。
「……おい、猫。お前の飼い主はどこだ? ここは『202号室』の隣か? 白雪の反応がこの建物から出ているんだが……。あいつ、まさか本当に『現地の猿』と仲良くなって、任務を忘れてるんじゃないだろうな?」
『……!? (現地の猿、だと……? 白雪、お前、俺の飼い主を未来でどう報告してやがる……)』
「いいか。僕は時空警察・監察官の『レオン』だ。白雪がここで何をしているのか、逐一報告してもらうからな。……って、猫に言っても無駄か。あーあ、早くあの『だるんだるんの密航者』を捕まえて、未来に帰りたいよ」
レオンは、空中に「ホログラム式のタブレット」画面を開いた。
そこには、さっき猫が拾ったリストと同じ、店長・松井の顔が映し出されていた。
『……(やっぱり、店長はガチの指名手配犯だったのか……。しかも、監察官まで来るなんて、店長の過去に何があったんだ……?)』
猫が戦慄していると、レオンは急に顔を上げ、山の方向を睨みつけた。
「……ん? 山の方で、異常な『生体エネルギー(筋肉)』の反応があるな。白雪のやつ、あんなところで何をして……。おい、猫。お前も来るか? 案内しろ。もし案内できたら、お前の脳に『高級マグロ味の電気信号』を流してやってもいいぞ」
『……(マグロ味の電気信号……! 悪くない……いや、そうじゃねぇ! 大家と店長と白雪がいるあの山に、この監察官が行ったら、本当の大惨事になるぞ!!)』
猫は、カズマの身の危険(あるいは大家にレオンがプロテインを飲まされる光景)を予感し、必死にレオンの行く手を阻もうとした。
しかし、レオンはオーバーオールのポケットから、重力を制御する小さなディスクを取り出すと、そのままふわふわと浮き上がり、山の頂上へと飛び去ってしまった。
『ニャ、ニャアァァァァッ!! (待ちやがれショタ! そこで何が起きてるか、お前はまだ何も分かってねぇんだ!!)』
猫は慌ててその後を追い、再び山へと駆け出した。
カズマが『スルー・パッシブ』をつけたまま、この未来警察の内輪揉めに巻き込まれたら、彼の精神は確実に崩壊する――!
山頂の広場。
そこは今、時空を超えたカオスが臨界点に達していた。
カズマは、大家に命じられるがまま、黄金の耳栓『スルー・パッシブ』を耳の穴に押し込んでいた。
――カチッ。
その瞬間、世界から一切の「濁った音」が消えた。
大家の怒号も、筋肉に目覚めたハスハラの雄叫びも、すべては心地よい川のせせらぎのようなメロディに変換される。
「あれぇ~……ココドコ~……? すごい ふわふわ してる~。あっ、何これ? 雲がプロテインの形に見えるよぉ……」
カズマの瞳から焦点が消え、口元には締まりのない笑みが浮かぶ。
彼の目には、崖を垂直に登る白雪さんは「空飛ぶ天女」に、ハスハラの猛トレーニングは「楽しそうなダンス」に見えていた。完全にパッシブモード――現実逃避の極致である。
そこへ、空から重力制御ディスクで浮遊するショタ監察官・レオンが降臨した。
「テメぇ……白雪ぃぃぃ!!」
レオンの怒声が山頂に響き渡るが、パッシブ状態のカズマには「可愛い小鳥のさえずり」にしか聞こえない。
「わぁ、妖精が飛んでる。最終回かな……? 最終回にするなよぉ……僕、まだバイト代もらってないんだからぁ……」
「最終回なわけあるか! こっちは監察業務で命懸けなんだよ!」
レオンが白雪の目の前に着地し、ホログラムの杖を突きつけた。
「白雪! 貴様、こんな未開の時代で何をしてる! 密航者(店長)の確保はどうした! なぜ現地の猿と馴れ合ってお裾分けなんてしてるんだ!」
「あら、レオン君。相変わらず血圧が高いわね。これ、お裾分けの『時空安定キャンディ』よ。舐める?」
白雪さんは迷彩フリルを翻し、平然とレオンの口に飴を突っ込んだ。
「グガッ……!? 舐めるかボケ! ……ん、……うまっ。……いや、騙されないぞ!」
『ニャ、ニャアァァァッ!! (カズマ! 目を覚ませ! 目の前で未来警察が内輪揉めを始めてるぞ!)』
遅れて到着した猫が、パッシブ状態でヘラヘラしているカズマの足首を必死に噛むが、カズマは「あはは、猫ちゃんが甘噛みしてくれてる……幸せだなぁ……」と、さらに恍惚の表情を浮かべるだけだった。
「ヌンッ! 素晴らしい! ハスハラを見ろ! あの少年の浮遊を見て、自らの広背筋を翼に変えようとしているぞ!」
大家の轟さんは、空飛ぶレオンを見て感動の涙を流していた。
「よし、佐藤! 貴様もその耳栓で悟りを開いたなら、今すぐあの少年を掴んで、共に成層圏までスクワットで行くのだ!」
「ええ~……成層圏~? 行ける気がするぅ~……」
カズマはフラフラとレオンの方へ歩き出した。
「来るな、猿! 白雪、なんとかしろ! この猿、脳のガードがゼロになってるぞ!」
白雪はニヤリと笑い、ガントレットを構えた。
「いいじゃない。これも『研究』の一部よ。……さあ、レオン君。あなたも一緒に、21世紀の『筋肉合宿』のデータ取り、手伝ってくれるわよね?」
山頂は、もはや誰も制御できない熱狂と静寂の渦に包まれた。
カズマの耳栓が黄金色に輝き、物語はさらなる「あり得ない日常」へと突き進んでいく。
(第8話・完)




