第7話:『スルー・パッシブの誘惑。静寂は、地獄へのメロディ?』
「……いいか、ハスハラ。レジ袋の向きはこうだ。あと、客が怒鳴ってきても、心の中でスクワットしていれば気にならない……って大家さんが言ってた」
僕は、黄金のケースを首から下げたまま、新人のハスハラに業務を教えていた。
ハスハラは白雪さんの「物理的説得」と大家の「筋肉的威圧」ですっかり毒気が抜け、生まれたての小鹿のようにプルプルと震えながらレジに立っている。
『……チッ。カズマ、お前、そのケースをぶら下げて歩くのは、俺に対する挑発か?』
足元で、猫が恨めしそうな顔で僕を見上げている。その瞳には「隙あらば奪う」という執念がギラギラと宿っていた。
「挑発なわけないだろ。大家さんから『教育係の証』として預かったんだから、失くすわけにいかないんだよ」
その時だ。 自動ドアが開き、全身を派手なトゲ付きレザージャケットで固めた、どう見ても「治安の悪い世紀末系」の客が数人なだれ込んできた。
「おいコラ! 弁当の温めが10秒足りねえんだよ! 誠意を見せろ誠意を!」
ハスハラが「ひぃっ!」と声を上げて固まる。
案の定、ハスハラはパニックになり、レジのボタンを連打してエラー音を店内に響かせ始めた。
「あ、あの……すみません! 今すぐ……あわわ……」
客の怒号、響き渡る警告音、そしてハスハラの泣き声。 僕の脳内キャパシティが、一瞬でレッドゾーンに突入した。
『カズマ、今だ! そのケースを開けろ! 中の「スルー・パッシブ」を耳に突っ込め! そうすれば、この汚いノイズはすべて消え去る! ……俺が代わりにつけてやってもいいんだぞ?』
猫が僕の膝に飛び乗り、ケースに手をかける。
僕は一瞬、迷った。……この怒号を聞き続けるのは、今の僕にはあまりに重すぎる。
だが、その時。
「あら、佐藤さん。またフィールドワークのお裾分け、持ってきたわよ!」
絶妙なタイミングで、白雪さんが店に飛び込んできた。 今日の彼女は、全身に鏡の破片を貼り付けたような『ディスコ・ナイトな宇宙人風』の潜入服。歩くたびに光を反射して、店内がキラキラと、いや、ギラギラと輝き始める。
「見て! これ、未来の……じゃなくて、最新の『ストレス遮断用ミラーボール』よ。これを回すと、悪い気流が跳ね返るの!」
白雪さんが手に持った謎の球体を高速回転させた。
――ビカビカビカァァァッ!
『ギニャァァァァッ!? また光かよぉぉぉ!!』
またしても強烈な光に視覚を奪われた猫は、僕の首を掴もうとして空振りし、レジ横の肉まんケースの上にボフッとしなだれ込んだ。
「あ、佐藤さん。ハスハラ君、顔色が悪いわね。これ、私が開発した『精神安定用(という名の、脳を一時的にフリーズさせる)アロマ』、嗅がせてあげて!」
白雪さんが謎の霧吹きをシュッシュと撒き散らす。 それを浴びたハスハラは、「あへへ……静かだな……」と虚空を見つめて完全停止。世紀末系の客たちも、あまりのカオスな状況(バニーから宇宙人に進化した女の乱入)に引き気味で後退りし始めた。
「……白雪さん、いつもありがとうございます……。でも、お裾分けのタイミングが……」
「いいのよ、気にしないで! 佐藤さんの『静寂』は、私が守ってあげるから!」
白雪さんは満足げに去っていった。
手元には、まだ開けられていない黄金の耳栓。猫は肉まんケースの上で「……もう嫌だ……この女、絶対に俺の天敵だ……」と、力なく尻尾を振っていた。
白雪さんが撒き散らした謎のアロマで、暴漢たちが「……なんか、怒るのが馬鹿らしくなってきたな」と肩を落として帰っていく中、入れ替わりで重低音のような足音が近づいてきた。
「ヌゥゥゥン! 佐藤ッ! 素晴らしいぞ!」
大家の轟さんが、自動ドアを人力でこじ開けるようにして入ってきた。その顔は、かつてないほどに紅潮している。
「あ、大家さん……見てたんですか?」
「当然だ! 貴様、今の極限状態において、私が貸し出した『スルー・パッシブ』の誘惑に負けず、自らの精神力だけで現場を維持したな! 素晴らしい……筋肉の自制心が育っておる!」
大家の太い指が僕の肩に食い込む。
「だが、耐えるだけでは筋肉は硬直するのみ! 次なるステップは『能動的忍耐』だ! 明日の朝までに、ハスハラを背負った状態でスクワット100回を完遂しろ! これが教育係の真の責務だ!」
「ええっ!? ハスハラを背負って!? 彼は今、廃人みたいになってますよ!」
僕が悲鳴を上げていると、レジの奥からだるんだるんの松井店長が、ゆらりと立ち上がった。
「……大家さん。ハスハラ君の『注入』、僕がやりましょうか」 「おお、松井か。やってやれ! こやつの『魂の脂肪』を燃やし尽くせ!」
店長が、虚空を見つめてヨダレを垂らしているハスハラの背後に立った。
――ズ、ズズ……。
例の、脂肪が筋肉に圧縮される不気味な音が店内に響く。店長の腕が丸太のように太くなり、ハスハラの肩に手を置いた。
「ハスハラ君……。君の中に眠る『未来の罪悪感』を、すべて『乳酸』に変えるんだ……」
「ア、アババ……ッ!?」
店長から発せられる謎の熱気がハスハラに伝導した瞬間、彼の体から白い湯気が立ち上った。
「……ウ、ウオォォォォ! 働きたい! 今すぐ品出ししたい! 納税したいですよぉぉぉ!!」
ハスハラが、白雪さんのアロマを筋肉の熱で焼き切り、狂ったように棚へダッシュしていった。……店長の「マッチョ化」は、他人のやる気まで無理やり強制起動させるらしい。
その光景を、ゴミ箱の陰から冷めた目で見つめている影があった。猫――未来の俺だ。
『……やってられねぇ。大家の精神論に、店長のドーピング筋肉。おまけにあの隣人の怪しい光だ。……このままじゃ、いつまで経っても俺の「快適な昼寝」は手に入らねぇ』
猫は、僕の首からぶら下がっている黄金のケースを一度だけ見つめると、くるりと背を向けた。
『……カズマが耳栓を使わないなら、まずはあの「邪魔者」の正体を暴いてやる。あの女が俺の掠め取り作戦をことごとく潰すのは、偶然じゃねぇはずだ』
猫は店の勝手口から音もなく外へ出ると、夜の闇に紛れてアパートへと引き返した。
ターゲットは、隣の「202号室」。白雪さんの部屋だ。
アパートの外壁を、猫特有の軽やかさで駆け上がる。
ベランダの手すりに飛び乗り、カーテンの隙間から中を覗き込んだ。そこには、大学院生の研究室にしてはあまりにも異質な光景が広がっていた。
『……なんだ、ありゃ……。棚に並んでるのは本じゃねぇ。「時空犯罪者指名手配リスト」……? それに、あの机の上で光ってるのは……』
猫が目を見開いたその時、部屋の電気がパッと点いた。
「ただいまー! ふぅ、今日の『お裾分け』も喜んでもらえたみたいね」 潜入服を脱ぎ捨てようとした白雪さんの手が、ふと窓の方へ向けられた。
『ヒッ……!!』
猫は慌てて身を隠そうとしたが、一歩遅かった。
白雪さんの手が窓の鍵に触れた瞬間、猫――未来の俺は、思考をコンマ一秒で「完全停止」させた。
(……動くな。心拍数を下げろ。俺は今、ただの毛皮の塊だ。感情のない、そこらへんの野良猫だ……!)
ガラッ、と窓が開く。
白雪さんがベランダに顔を出した。その距離、わずか30センチ。
「あら? 佐藤さんのところの猫ちゃんじゃない。どうしたの、こんなところで。……お腹でも空いた?」
猫は、白雪さんの瞳の奥に宿る「冷徹な捜査官の光」を間近に感じて、背筋が凍りつくような感覚に襲われた。だが、ここで逃げたら終わりだ。猫はあえて、間抜けな顔で欠伸を一つし、自分の前足を「ペロッ」と舐めてみせた。
『……ふぁ〜あ。俺はただ、夜風に当たりにきただけの、知能の低い四足歩行動物ですよ……』
「ふふ、可愛いわね。でも、あんまり夜更かしすると、毛並みに『時空のノイズ』が混じっちゃうわよ?」
白雪さんはそう言って、猫の頭を優しく撫でた。その指先からは、微かにオゾンのような香りがした。
「ほら、おやつ。これ、未来の……じゃなくて、私が独自に開発した『超高タンパク・猫用クリスピー』よ」
差し出されたのは、七色に輝く奇妙な粒。猫はそれを「チッ、またガジェットか……」と思いつつも、怪しまれないために一口で飲み込んだ。
『……!? (バカな、うますぎる……!! 脳内のドーパミンが臨界点突破してやがる……!!)』
あまりの美味に、猫は一瞬だけ「未来警察を暴く」という崇高な目的を忘れ、文字通りゴロゴロと喉を鳴らしてしまった。その隙に、白雪さんは「じゃあね」と窓を閉め、カーテンを引いた。
……バレなかった。 猫は冷や汗(のような脂汗)を流しながら、ベランダから飛び降りた。
『……危ねぇ。あの女、やっぱりただもんじゃねぇ。部屋の中にあったあのリスト……あれ、未来で指名手配されてた「時間泥棒」の名前が載ってたぞ。……まさか、あいつ……』
一方、コンビニでは――。 大家と店長に挟まれ、ハスハラが不思議なトランス状態に入っていた。
「カズマさん……。僕、気づきました。弁当を盗むより、重いカゴを運ぶ方が、心が……満たされるんです。……僕、筋肉に目覚めてもいいですか?」
「あ、ああ……。いいと思うよ、ハスハラ君……」
僕は、首から下げた黄金のケースを握りしめた。 この「スルー・パッシブ」を使うまでもなく、周りの人間たちが勝手に「マッチョな方向」へ突き進んでいく。
猫が命がけで隣室の秘密に迫り、新人が筋肉の喜びに目覚め、白雪さんが七色のおやつを配り歩く。 僕の首にかかった耳栓は、まるで「お前はまだ、この狂騒の中にいろ」と言っているかのように、朝日の下で静かに輝いていた。




