第6話:『研究室(となり)の秘密。白雪さんの「お裾分け」』
「……佐藤さん、これ、実家から送られてきた『高次元培養……あ、間違えた、有機栽培』のリンゴなんだけど、食べない?」
アパートの廊下で、白雪さんがカゴを差し出してきた。
今日の彼女は、和服の上にサイバーパンクなガントレットを装着した『幕末のエンジニア風』のコスプレ(潜入服)姿だったが、その笑顔はいつも通り柔らかい。
「あ、ありがとうございます。……いつもすみません」 「いいのよ。佐藤さんがバイト頑張ってるのを見ると、私も研究の励みになるし!」
その時、アパートの入り口に一台の高級外車が止まった。 中から降りてきたのは、非の打ち所がないほど整った顔立ちの、モデルのようなイケメンだった。彼は手に大きな花束を持ち、真っ直ぐ白雪さんのもとへ歩み寄ってくる。
「……麗奈、やはりここにいたのか。こんなボロ……失礼、趣のある建物に隠れていないで、僕と共に来ないか? 君の研究は僕の財団がすべて支援しよう」
ドラマの撮影かと思うようなキザな台詞。僕は思わずリンゴを落としそうになったが、白雪さんの反応は、驚くほど「無」だった。
「……あ、誰かと思えば、第15区の……じゃなくて、資産家の御曹司さん。ごめんなさい、今、隣の佐藤さんと『食物繊維の重要性』について議論の最中なの。忙しいから、また三十年後くらいに来てくれる?」
華麗、というよりは無慈悲なスルー。 イケメンが「待ってくれ!」と彼女の肩に手を伸ばした瞬間、白雪さんは一歩も動いていないように見えて、残像を残すような滑らかなステップでその手をかわした。
「触らないで。今の私の装備……じゃなくて服は、静電気の蓄積が激しいから、下手に触ると灰になるわよ?」
そう言って彼女がガントレットを鳴らすと、バチバチと青い火花が散った。
「ひっ……!」
イケメンは顔を引きつらせて後退りし、そのまま車に飛び乗って逃げ去っていった。
『……おいカズマ、今の見たか。あの女、相手の「重心の揺れ」を完全に読んでやがった。……いや、ただ単に男に興味がねぇだけか? 未来の恋愛市場でも、あんなにドライな奴は珍しいぞ』
部屋の窓からその様子を見ていた猫が、呆れたように呟く。
「……白雪さん、今の人は?」
「ん? さあ、私の研究を邪魔しようとする『時間的ノイズ』みたいなものよ。気にしないで。それより佐藤さん、リンゴ、剥いてあげようか?」
さっきまでの冷徹な態度はどこへやら、彼女はニコニコしながら僕の部屋へ上がり込もうとする。
背後で猫が『……おい、この女、無意識に俺たちのパーソナルスペースを侵略してきてるぞ。大家より厄介かもしれん』と警戒の声を上げたが、白雪さんは「あ、可愛い猫ちゃん! また一段と丸くなったわね!」と、猫の額に「精神安定剤」が染み込んだ特製のおやつ(未来のガジェット)を押し付けた。
『ニャ……ニャオ……(訳:なんだ、この抗えないリラックス効果は……寝る……)』
猫、またしても敗北。
白雪さんの「お裾分け」という名の、謎に満ちた隣人交流。 彼女が追う「不法渡航者」が誰なのかは分からないが、少なくとも僕の前では、彼女はただの(ちょっと格好が奇抜な)親切なお姉さんだった。
「お邪魔しまーす。……ふむふむ、これが21世紀初頭の『標準的な独身男性のシェルター』ね」
白雪さんは、ガントレットをガチャガチャ言わせながら僕の六畳一間に足を踏み入れた。リンゴを剥くと言いながら、その目は鋭く部屋の四隅をスキャンしている。
「あ、佐藤さん。一応確認なんだけど、この部屋、**『光合成用のUVライト』**はどこに設置してるの? 毎日最低三時間は、全裸で青い光を浴びないと、松果体が退化しちゃうわよ?」
「……えっ? いや、普通に太陽の光を浴びるだけですけど。全裸で青い光なんて浴びたら、大家さんに通報されますよ……あはは」
僕は半笑いで答えた。何だその不気味な健康法。
「ええっ、不便ねぇ。じゃあ、**『睡眠中の思考クリーニング機能』**は? 枕元に脳波を洗浄する液体とか置いてないの?」
「ないですよ、そんなの。普通の蕎麦殻の枕です。思考を洗うって何ですか、洗濯機じゃあるまいし。……ないない、そんなの現代にはないですよ」
僕が首を傾げながら笑うと、白雪さんは「信じられない……よくこれで正気を保ててるわね」と、本気で同情するような目を向けた。
その時だ。特製おやつでリラックスしていたはずの猫が、ガバッと起き上がった。その表情は、今までにないほど真剣だ。
『……おいカズマ。笑い事じゃねぇぞ。……「思考クリーニング」だと? それは、未来の俺たちが「情報の過負荷」で発狂しないために導入された、政府推奨のメンタル維持装置だ。……なんでこの女が、そんな高度な機密概念を知ってやがる?』
猫の目が、白雪さんの背中を射抜くように凝視する。 だが、白雪さんはそんな視線には気づかず、今度は僕の棚にあるカップ麺を手に取った。
「これ、食べるの? **『ナノマシンによる自動胃壁修復機能』**が入ってないタイプよね? 食べたら胃が直接攻撃されるのと変わらないわよ。あ、そうだ! 私の部屋に、飲めば胃がチタン並みに硬くなるサプリがあるんだけど、持ってくるわね!」
「いや、いいですって! 胃がチタンになったら、次のおにぎりが消化できなくなるじゃないですか。白雪さん、未来の話……じゃなくて、研究の話が極端すぎますよ」
僕が冗談めかして断ると、彼女は「あら、残念」と残念そうに肩をすくめた。
『……チタンの胃だと? それは未来の軍事用サイボーグの初期装備だぞ。……カズマ、この女、ただの変人コスプレイヤーじゃねぇ。……もしかして、未来の「過激派健康団体」の回し者か? それとも……』
猫の推測は、いつも通り「未来警察」という正解のわずか数ミリ横を通り過ぎて、とんでもない方向へ突っ走っていた。 白雪さんは、僕の首を捻るような猫の真剣な顔を見て、「あら、この猫ちゃん、私のファッションに興味があるのかしら? このガントレット、触ってみる?」と、高電圧の火花が散る未来兵器を猫の鼻先に近づけた。
『ヒッ……!! 触るかボケ!! 死ぬわ!!』
猫は脱兎のごとく窓際へ逃げ出した。
「ふふ、やっぱり動物は本能的に『最先端』に敏感ね」
白雪さんは満足げに笑うと、ようやくリンゴを剥き始めた。 その手つきは、なぜか外科手術のように正確で、剥かれた皮の厚さはミクロン単位で一定だった。僕はそれを見て、またしても「ないよな……普通は」と笑うしかなかった。
「――待てぇぇぇ! その廃棄弁当は、私の血と汗と、圧縮された筋肉の結晶だぞッ!」
深夜の住宅街に、店長・松井の怒声が響き渡った。
見れば、数日前にレジで僕を罵倒したあの「パーカーの男」が、大量のおにぎりを抱えて全力で疾走している。 その後ろからは、凄まじい地響きと共に、脂肪を筋肉に再構築し、制服のボタンを弾丸のように飛ばしながら爆走する「全盛期モード」の店長が迫っていた。
「ひ、ひぃぃっ! なんだよあの店長、バケモノかよ!」
ハスハラが角を曲がろうとした、その時。
闇の中から、カチリ、と機械的な音が響いた。
「……ターゲット、捕捉。不法渡航罪、および窃盗罪。現行犯で確保するわ」
街灯の上に、忍者のようなポーズで立っていたのは、和服にサイバーガントレット、さらに「暗視ゴーグル風のキツネのお面」を被った白雪さんだった。 彼女は空中から音もなく舞い降りると、ハスハラの首根っこを掴み、そのままコンクリートの地面にめり込ませた。
「ぎゃあああッ!?」
「静かにして。これ、『21世紀の最新重力セラピー』なんだから」
そこへ、筋肉を蒸気のようにたぎらせた店長が追いついてきた。
「はぁ、はぁ……あ、白雪さん! 助かりました! この泥棒、警察に……」
「いいえ、店長さん。それよりいい提案があるの」
白雪さんはハスハラの顔をお面越しに覗き込むと、彼にしか聞こえない低い声で囁いた。
「……ねえ、あなた。未来へ強制送還されて『電子刑務所』で百年過ごすか、このコンビニで一生『納税者』として働くか、どっちがいい?」
「え……ええっ!? なんであんたがそれを……」
「選んで」
白雪さんのガントレットが不気味に唸りを上げる。
「は、働きます! コンビニで働かせてください!!」
ハスハラが涙目で叫ぶと、店長は「……えっ?」と目を丸くした後、だるんだるんの脂肪モードに戻りながら快諾した。
「おお……更生の意志があるなら大歓迎だよ! うち、万年人手不足だったんだ。よかったね、佐藤君! 後輩ができたよ!」
「いや、店長、これ明らかに脅迫……」
僕のツッコミを無視して、店長はノリノリで拳を突き出した。
「よし、この男の根性を叩き直すには、あの人しかいない! ……師匠ー!! 出番ですよー!!」
夜明けの空に、どこからともなく「ヌンッ!」という気合の声が響き渡る。 アパートのベランダから、轟大家がプロテイン片手に飛び降りてくるのが見えた。
『……おいカズマ。あの泥棒、未来で見たことあるような顔だな……。まあいい、これで俺のライバル(?)が増えるってわけだ。大家の指導、あいつが全部引き受けてくれれば、俺の昼寝時間が増えるんじゃねぇか?』
猫は、白雪さんが鮮やかに犯人を「スカウト」した手口には目もくれず、ただ自分の昼寝時間の増加を計算して、ほくそ笑んでいた。
「……というわけで、佐藤。今日からこの男――ハス……ハラ? とやらの教育係は、貴様に一任する!」
大家の轟さんが、震えるハスハラの首根っこを掴みながら宣言した。
ハスハラは、白雪さんのバイオレンスな「スカウト」と大家の威圧感に完全に魂を抜かれ、小刻みに震えている。
「えっ、僕が教育係ですか!? 僕だってまだ新人なのに……」 「案ずるな! 貴様には、教育者の『威厳』と『集中力』を強制的に引き出すための聖具を貸し与える!」
大家は腰のベルトから、あの黄金のケースを取り出した。 それを見た瞬間、背後で様子を伺っていた猫の毛が、文字通り「逆立った」。
『……なっ、なんだと……!? 俺があんなに苦労して掠め取ろうとしていた「スルー・パッシブ」を、カズマに……その、マヌケな新人教育のために貸し出すっていうのか!?』
猫は、大家が僕の手にケースを握らせる瞬間、電光石火の勢いで割り込んだ。
『ニャ、ニャアァァァ(訳:それは俺のものだ、よこせぇぇ!)』
猫の爪が、黄金の輝きにあと数ミリで届く。 だが、その刹那。
「あ、佐藤さん。これ、教育係の任命祝いに。……はい、お裾分け!」
白雪さんが、どこからともなく取り出した「未来の新人研修用ホログラム投影機(という名の、変な映像が流れるプロジェクター)」を僕の目の前で起動させた。
――ピカァァァ!
「うわっ、眩しい!」
『ニャアァァァッ!? 目があぁぁぁ!!』
猫は、白雪さんの放った強烈な光(お裾分け)に視覚を焼かれ、あえなく軌道が逸れてゴミ箱へ直撃。今回も「失敗」である。
「よし、佐藤。この『スルー・パッシブ』を耳に装着し、ハスハラの情けない鳴き声をシャットアウトして、完璧な業務指導を行うのだ! いいな!」
大家から授与された黄金の耳栓。 僕はそれを恐る恐る手に取った。 一方で、ゴミ箱から這い出した猫は、涙目で白雪さんと僕を見比べながら、絶望的な声を上げた。
『……クソ……。カズマ。お前、絶対にそれを使うなよ。……そいつは、お前にはまだ早すぎる。……あぁぁ、俺の耳栓があんなヤツの手に……』
「佐藤さん、頑張ってね! 困ったことがあったら、いつでも私の『研究室』に相談に来ていいから!」
白雪さんは満足げに微笑むと、捕獲した未来の犯罪者を僕に押し付け、優雅に去っていった。
手元には、黄金の耳栓。 背後には、ガタガタ震える未来人の新人店員。 そして足元には、嫉妬と眩暈でふらふらになった未来の俺(猫)。
僕のコンビニバイト第2章は、どうやら「教育係」という名の、更なるカオスから幕を開けることになりそうだ。




