第5話:『脂肪の鎧、筋肉の核。店長・松井の真実。』
「……なぁ、カズマ。昨日からアパートの周りに、妙な殺気が漂ってないか?」
バイトへ向かう準備をしていた僕の足元で、猫が鼻をひくつかせた。
「殺気っていうか、単に隣の白雪さんがバタバタしてるだけだろ。ほら、今日もまた……」
僕がドアを開けると、そこには案の定、廊下で「何か」を必死に探している白雪さんがいた。
今日の彼女は、光沢のあるエナメル素材のボディースーツに、なぜか巨大なウサ耳がついた、いわゆる「バニーガール風の近未来アーマー」姿だった。腰には大きなスパナ(のような形状の探知機)を差している。
「あ、佐藤さん! ちょうどいいところに。このあたりに『時空の歪みを感じさせる不審な粒子』、あるいは『野良猫の毛』とか落ちてなかった?」
僕は絶句した。 猫――未来の僕は、白雪さんの足元をふんふんと嗅ぎ回り、真顔で僕を見上げた。
『おいカズマ、見ろ。現代の大学院生っていうのは、ウサギの耳を立てて工具を振り回すのがトレンドなのか? 未来の歴史教科書には載ってなかったぞ、こんなエキセントリックな文化』
「……。白雪さん、それも……その、文化人類学的な……?」
「そう! 『21世紀初頭における特定職業の偶像化と、機能性を度外視した重装備の融合』についての検証よ! じゃあ、私、屋上の方も見てくるから!」
白雪さんはバニー耳を激しく揺らしながら、階段を駆け上がっていった。
店長が「だるだるモード」に戻り、深夜のコンビニに再び気だるい空気が戻った頃。 店の外の駐車場から、「ドガシャァァン!」という、車が壁に激突したような凄まじい音が響いた。
「な、なんだ!? また酔っ払いか?」
僕が窓の外を見ると、そこには街灯の下で「格闘」している白雪さんの姿があった。
相手は、全身を黒いライダースーツで固めた、顔の見えない不気味な男。白雪さんはバニー耳を振り乱しながら、手にした十字架型のデバイスから光の鎖を射出し、男をアスファルトに叩きつけている。
「……白雪さん、何やってるんだ……」
僕が絶句していると、彼女は男の首根っこを掴んで地面にめり込ませながら、こちらに気づいて爽やかに手を振った。
「あ、佐藤さん! 気にしないで! これ、最近の大学院生の間で流行ってる『古武術と現代ダンスを融合させたアヴァンギャルドな運動療法』のデータ取りだから! この人も、私の研究に協力してくれてるエキストラなの!」
――ガハッ、助け……。 エキストラにしては、男の吐血の仕方がリアルすぎる。
白雪さんは「はい、いいリアクションね! 単位あげるわよ!」と叫びながら、男の頭を電柱に叩き込んだ。
『……おいカズマ、いつまで外見てんだ。早く品出ししろ』
足元の猫は、陳列棚の下で丸くなり、窓の外の惨劇には一瞥もくれない。
「いや、お前、今のが『運動療法』に見えるか? どう見てもボコボコにしてるだろ!」
『……。……さあな。現代の女はバイオレンスなんだろ。……未来にゃ、あんなに「物理的」な女はいなかったな。もっとこう、精神的にジワジワ追い詰めてくるタイプばかりだったが……。ま、俺に関係ねぇよ』
猫は「スルー・パッシブ」の権化のように、不自然な光や悲鳴を完全に意識からシャットアウトしている。その間に、白雪さんは男をどこからともなく取り出した大きな布袋に詰め込み、「フィールドワーク終了!」と言い残して闇に消えていった。
「……。……。……店長、おにぎり並べてきます」
「うん、お願い。……佐藤君、あまり深く考えちゃダメだよ。この町には、筋肉でも脂肪でも説明できないことがたくさんあるからね……」
店長が、だるだるの頬を揺らしながら遠い目をして言った。 このコンビニには、現実を直視したら負け、という暗黙のルールがあるのかもしれない。
僕は、肩に乗ってきた猫の重みを感じながら、もはや何が日常で何が非日常なのか分からなくなった頭を振って、再び仕事に戻るのだった。
深夜の狂騒が嘘のように、東の空が白み始めた。
店長のマッチョ化と白雪さんのバイオレンスな「研究発表」で脳のキャパシティが限界を超えた僕は、もはや機械的にモップをかけるだけの存在になっていた。
「お疲れ様、佐藤君。……筋肉痛、少しは和らいだかな?」
レジカウンターで、店長が再びだるんだるんの肉体を揺らしながら声をかけてきた。あの鋼鉄の戦士と同じ人物とは到底思えない、締まりのない笑顔だ。
「……いえ、むしろ全身が『もう動くな』って叫んでます」
「ははは、それが成長の証だよ。はい、これ、廃棄のおにぎり。……師匠には内緒だよ」
店長からおにぎりを受け取り、僕と猫(いつの間にか僕の足元に戻っていた)は店を出た。
駐車場には、先ほど白雪さんが「研究」していたはずの場所があるが、そこにはアスファルトのささやかな凹みがあるだけで、男も布袋も影も形もない。
『……おい、カズマ。また来やがったぞ』
猫が低い声で警告した。 駐車場の入り口に、朝日をバックにして逆光で仁王立ちする巨影。轟大家だ。
「佐藤ッ! バイト明けの筋肉は最も飢えている! 今すぐ私の特製プロテインを摂取し、栄養の超回復を行うのだ!」 大家は巨大なシェイカーをバトンのように振り回しながら迫ってくる。
『……今だ。今回こそは逃さねぇ』
猫の目が、スルー・パッシブ特有の「無」の境地から、一瞬だけ鋭い「ハンターの眼光」に変わった。
大家が僕にシェイカーを押し付けようと腕を伸ばしたその刹那、猫は僕の肩を踏み台にして、大家の腰元へ真空飛び膝蹴りのような勢いで突っ込んだ。
黄金のケースが、大家の動きに合わせてわずかに宙に浮く。 猫の爪が、そのケースのカラビナを捉えようとした――。
その時。
「あ、佐藤さん! 忘れ物よ!」
背後から、いつの間にか「未来風のジャージ(という体の、妙なラインが入った潜入服)」に着替えた白雪さんが、猛スピードで自転車を漕いでやってきた。
「はい、これ! さっきの研究で使った『サンプルの残骸』がジャージに付いてたから、あげる!」
彼女が投げたのは、キラキラと輝く不思議な金属片(のように見える未来のゴミ)。それが朝日に反射して、猫の目の前で強烈なプリズムを形成した。
『ニャ、ニャアァァァァ!? まぶしっ!!』
猫の野性的本能が、黄金の耳栓よりも「キラキラ光る謎の破片」に反応してしまった。空中で進路がガタガタになり、猫は大家のプロテインシェイカーの蓋に激突。
「ぬおっ!? 佐藤! 猫がプロテインを求めてダイブしてくるとは! この猫、筋肉の資質があるぞ!」
結局、三度目の正直もあえなく失敗。 大家にプロテインまみれにされた猫は、地面に降り立ち、絶望に満ちた顔で白雪さんの走り去る後ろ姿を睨みつけた。
『……あ、あの女……。わざとか? 狙って俺の邪魔をしてるのか?』
「……いや、多分ただの親切だと思うぞ」
僕は、大家に捕まってプロテインを無理やり飲まされながら、悟った。この「スルー・パッシブ」を巡る戦いは、もはや僕たちの努力だけではどうにもならない。世界が、あるいは運命が、猫の昼寝を邪魔するために白雪さんや大家を配置しているのではないか。
ドロドロのプロテインを飲み干し、僕はふらつく足取りでアパートへの階段を上る。隣の部屋からは、白雪さんが「よし、レポート完了……」と呟く声が聞こえてきた。
僕の更生生活は、まだ始まったばかりだ。 筋肉、脂肪、コスプレ、そして耳栓。 カオスな日常の向こう側に、果たして「静かな昼寝」は待っているのだろうか。




