第4話:『猫になった日。絶望のメロディと、黄金の耳栓。』
「……なぁ。さっきの店長、最後の方ちょっと怖くなかったか?」
『……あぁ、松井か。あいつ、普段はあんなナリだが、スイッチが入るとやべぇんだ。……おっと、誰か来たな。俺は先に戻ってるぞ』
アパートの階段の下で、猫は耳をピクリと動かすと、僕の返事も待たずに壁を蹴って一階の屋根へ飛び乗った。そのまま軽やかな身のこなしで、二階にある僕の部屋の開けっ放しの窓へと消えていく。相変わらず、不都合な気配を察知して逃げる足だけは速い。
「あ、佐藤さん! お疲れ様!」
上から降りてきたのは、隣の白雪さんだった。 だが、今日の彼女はいつもの白衣姿ではなかった。
「……えっ、白雪さん。その格好……」
「あ、これ? 最近の大学院生の間では、こういう『伝統的な宗教服を用いた文化人類学的考察』が流行ってるの。気にしないで!」
ゴスロリ風のシスター服。そして手には、十字架の形をした、やけにチカチカと青白く光る精密機械のようなものを握っている。彼女はそのまま、機械の画面を真剣な顔で覗き込みながら、駅の方へと足早に去っていった。
「……文化人類学、奥が深すぎるだろ」
僕は首を傾げながら自室のドアを開けた。 部屋に入ると、猫はすでに僕の布団の真ん中で丸くなっていた。窓から入り込んだ際に、何を見たわけでもないようで、ただ眠たそうに片目を開ける。
『……誰かいたのか?』
「白雪さんだよ。また変な格好してたぞ」
『……ふーん。興味ねぇな。俺が気になるのは、次の飯がいつか、それだけだ』
猫は無関心を装うように欠伸をした。どうやら窓から忍び込む際にも、彼女の奇妙な装備や挙動には一切目を向けなかったらしい。文字通り、自分に関係のないノイズは「スルー」したのだ。
僕は着替えもせず、猫の横に腰を下ろした。
猫は再び目を閉じ、今度は独り言のように、静かに語り始めた。
『……カズマ。孤独死っていうのはな、急に来るんじゃない。……「音」から始まるんだ』
『あの夜……外はひどい吹雪だった。俺は、もう何日も誰とも喋っていなかった』
猫の声が、薄暗い部屋の空気を震わせる。
『部屋の壁は薄くてな。隣の住人が笑う声や、テレビのクイズ番組の歓声が、まるで自分を責める刃物みたいに聞こえてくるんだ。「お前は何をやってるんだ」「なぜここにいるんだ」ってな。……その時だ。轟の大家が、鍵もかかっていないドアを蹴破って入ってきたのは』
猫の回想の中の大家さんは、今よりも少しだけ年老いて見えた。だが、その筋密度は今の比ではないほどに高まっていたという。
『大家は俺をベッドから引きずり出すと、耳元で怒鳴った。「佐藤ッ! 貴様の心拍数は、もはや死人のそれだ! 筋肉が休眠しておるぞ! これをつけろ!」……そう言って、無理やり耳にねじ込まれたのが、あの黄金の耳栓だった』
それが、伝説のアイテム『スルー・パッシブ』。
装着した瞬間、猫の記憶の中の「音」が完全に消失した。
『驚いたぜ。隣の笑い声も、吹雪の音も、自分の心臓の音さえ聞こえなくなった。……ただ、頭の中に一つのメッセージだけが浮かんだんだ。――【不都合な現実より、快適な昼寝。】……ってな』
完全なる静寂。それは、絶望の淵にいたカズマにとって、この上ない甘美な誘惑だった。 あまりの心地よさに、彼は意識を手放そうとした。
『だが、その時だ。俺の魂が「人間という面倒な器」を脱ぎ捨てようとした瞬間、耳栓の機能が暴走したらしい。……量子的ななんちゃらが、俺の「働きたくない、猫になりたい」っていう願いと共鳴して……気づいたら、ベランダにいた野良猫の視界に切り替わっていた』
猫は、自分の前足を不思議そうに見つめた。
『俺がいた未来では、俺はあの夜に死んだはずだ。……だが、俺は猫として、三十年前のこの部屋に飛ばされた。……あの耳栓には、時間すらもスルーする力があったのかもな』
僕は黙って話を聞いていた。未来の自分が、それほどまでに「静寂」を求めていたことに、胸が締め付けられるような思いがした。
「……だから、お前はあんなに昼寝にこだわるのか」
『……フン。それもあるが、単純に猫の体は眠いんだよ。……おい、カズマ。変な顔するな。俺はもう、あの「音」には戻りたくない。だからお前を働かせて、俺はこの世で一番安全で、静かな場所を確保するんだ』
その時、部屋のドアが「ドンドンドン!」と激しく叩かれた。
「佐藤ッ! 起きておるか! 筋肉の回復には良質な睡眠が必要だが、寝すぎは筋肥大を妨げるぞ!」
現世の轟大家だ。 猫は「ヒッ!」と声を上げると、即座に布団の中に潜り込んだ。
『……出たな、筋肉の化身。……カズマ、大家を追い返せ! 俺は今、一番いいところなんだ……ムニャ……』
さっきまでのシリアスな雰囲気はどこへやら。 猫は再び、都合の悪い現実(大家)をスルーするために、深い眠りへと逃げ込んでしまった。




