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第3話:『深夜のレジと、消えないトラウマ』

 深夜22時。駅前の「コンビニ・マッスルマート」の制服に袖を通しながら、僕は鏡に映る自分の顔を見た。  死んだ魚のような目は相変わらずだが、昨日の轟大家による地獄の特訓のおかげで、肩周りだけが不自然にパンプアップして、制服が少しきつい。


『おい、カズマ。顔が固いぞ。お前は今、戦場に立っているんだ。もっと広背筋に力を入れろ』


 僕の足元で、茶トラの猫が商品を陳列する棚の陰から囁く。当然、猫は「備品」のフリをして忍び込んでいる。


「戦場って……ただのコンビニだろ。……あ、店長。今日からよろしくお願いします」


「ああ、佐藤君。……うん、昨日より少しだけ『バルク』が良くなった気がするね。まずは品出しからお願いするよ」


 店長は、昨日僕が渡した輪ゴムで補強されたサンダルをペタペタと鳴らしながら、バックヤードへ消えていった。  深夜のコンビニは、独特の緊張感がある。不自然に明るい照明、冷蔵ケースの唸り、そして、いつ入ってくるか分からない「客」という名の未知の生物。


 僕は震える手で、おにぎりの検品を始めた。


 実は、三十年前――いや、猫のいた未来のルートでは、僕はここで「ある事件」を起こして、三日でバイトを辞めている。その記憶は、今の僕にはないが、猫の中には鮮明に残っているらしい。


『……くるぞ、カズマ。22時15分。あと三十秒で、あの「グレーのパーカーの男」が入ってくる』


 猫の声が、床すれすれから響く。


「えっ……?」


『いいか、そいつはカゴを持たずにレジに来る。そして、タバコの番号をわざと間違えさせて、お前を罵倒し始める。前の世界のお前は、そこでパニックになってレジを放り出して逃げたんだ。……それが、お前の「引きこもり人生」の真の始まりだった』


 心臓がドクン、と跳ねた。


 自動ドアが開く音が、まるで処刑台の鐘のように聞こえた。


 入ってきたのは、猫の予言通り、グレーのパーカーを深く被った男だった。  男は店内を一周もせず、一直線にレジへと向かってくる。その足取りには、最初から「誰かを攻撃しよう」という暗い意図が張り付いているように見えた。


「……15番」  男が、低く、刺すような声で言った。


 僕は緊張で指が震えた。15番。棚を見る。そこにはタバコが並んでいる。

 だが、その時。


『……待て。15番じゃない。そいつが指差してるのは16番だ。だが口では15番と言った。わざとだ。……カズマ、16番を取って「こちらですね?」と笑顔で言え。もし怒鳴られたら……』


 猫の声が、一瞬だけ途切れた。


『……もし怒鳴られたら、俺の尻尾の先を見てろ。左右に振るリズムに合わせて呼吸しろ。外界の音を「ただのノイズ」だと思え。……いいな?』


 僕は生唾を飲み込み、16番のタバコを手に取った。


「……こちら、16番でよろしいでしょうか?」


 男の目が、獲物を狙う蛇のように細まった。


「……あ? 俺は15番って言っただろ。耳ついてんのかよ、お前」


 始まった。


 空気が一気に冷え込み、僕の脳裏に「逃げろ」という信号が点滅する。  だが、足元を見ると、猫が棚の陰で、ゆったりと、機械的なまでに正確なリズムで尻尾を左右に振っていた。


 右、左。右、左。


 それはまるで、メトロノームのようでもあり、あるいは……不都合な現実を遮断する、メロディのようでもあった。

 「……おい、聞いてんのかよ! 15番だって言ってんだろ! 謝罪もできねえのか、この無能が!」


 男の罵声が、レジカウンター越しにナイフとなって突き刺さる。  僕は男の顔を見ることができない。視線は足元、棚の陰にいる「未来の俺」に釘付けだった。

 頼む、リズムを止めるな。その尻尾の揺れだけが、僕をこの場に繋ぎ止めているんだ。


 右、左。右、左。……右…………左…………。


 血の気が引いた。  あんなに正確だったメトロノームが、目に見えてスローダウンしていく。  猫のまぶたが重そうに閉じられ、あろうことか、この絶体絶命の局面でそいつは「ふぁ……」と間の抜けた欠伸をもらしたのだ。


「お、おい……嘘だろ……」

『……わりぃ……カズマ……。知恵を絞りすぎた……猫の脳は……長時間の集中には……向いて……ムニャ……』


 尻尾が、完全に止まった。


   その瞬間、ダムが決壊したように周囲の雑音が耳に流れ込んできた。


 男の荒い鼻息、床を叩くイラついた足音、そして心臓を直接握りつぶすような「ドクン、ドクン」という激しい鼓動。  汗が滝のように流れ、視界が滲む。三十年前の猫の俺が体験した絶望が、冷たい泥のように足元から這い上がってくる。


「おい! 何黙ってんだよ! 逃げんのか? 逃げるのかよ!」


 男が身を乗り出し、カウンターを激しく叩いた。  その音が頭の中で爆発した。……もうダメだ。レジを捨てて、店の裏から逃げ出そう。そうすれば、またあの暗い六畳一間に戻れる。そこは地獄だけど、少なくとも誰にも怒鳴られなくて済む。

 僕が最後の一歩を後ろに引こうとした、その時だった。


 ――ウィィィィン。


 深夜の静寂を切り裂く、自動ドアの開放音。

 それと同時に、店内の蛍光灯が、一瞬だけ別の輝きを放ったような気がした。


「……ヌンッ!!」


 地鳴りのような気合と共に、一人の巨漢が足を踏み入れた。  轟大家だ。  彼はコンビニの制服が破れんばかりの超絶バルクを誇示するタンクトップ姿で、プロテインシェイカーを片手にカズマを凝視した。


 その鋭い眼光は、僕の滝のような冷や汗を一瞬で蒸発させるほどの熱量を持っていた。  罵倒を続けていたパーカーの男が、異様な威圧感に気付いて言葉を詰まらせる。  男が振り返るよりも早く、轟さんの巨大な影が、山が崩れるようにクレーマーの背後を完全に覆い尽くした。


「……佐藤。貴様の心拍数、レジの外まで響いておるぞ」


 轟さんの低い声が、店内の空気を振動させる。  パーカーの男が恐る恐る見上げると、そこには、天井に届かんばかりの広背筋を広げた「筋肉の壁」がそびえ立っていた。


「な、なんだよ、あんた……。俺はこいつの態度が……」


「黙れ、小市民スモール・バルクッ!!」


 轟さんの咆哮に、店内のポテトチップスの袋が一斉に震えた。


「この佐藤は今、己の大胸筋と対話しながら、接客という名のメンタルトレーニングに励んでおるのだ。貴様の細い声は、筋肉への『刺激ストレス』としては不純すぎる!」


 轟さんは丸太のような腕を伸ばすと、男が注文していた16番のタバコを、棚から直接ひっつかんだ。


「タバコなどという肺活量を下げる毒素よりも、これを飲め! 筋肉の栄養だ!」  轟さんは、手に持っていたシェイカー(中身は大家特製の超高濃度プロテイン)を、有無を言わさぬ勢いで男の手に握らせた。


「ひ、ひぃぃっ……!」


 男は、タバコも受け取らず、プロテインを抱えたまま、脱兎のごとく店から逃げ出していった。


 静寂が戻ったレジ前で、僕は膝から崩れ落ちそうになった。

「佐藤! 筋肉の緊張を解くな! 敵は去ったが、貴様の人生というセットはまだ終わっておらんぞ!」


 轟大家の声が頭上で響く。僕はカウンターに手をつき、必死に呼吸を整えていた。


「はぁ、はぁ……あ、ありがとうございました、大家さん。死ぬかと思いました……」


 静寂が戻ったレジ前で、僕は膝から崩れ落ち尻もちをついていた。  足元では、ようやく目を覚ました猫が、のんきに前足を舐めている。


『……おっ、大家さん。いいタイミングですね。……さてカズマ、今のうちにレジの点検を済ませろ。……大家さん、俺にはあの『高級カニカマ』を……あ、もちろんプロテイン抜きでな』


「情けないことを言うな! 貴様の毛細血管は今、かつてないほどに活性化しておる。(そこから30分、筋肉談義を聞いていた。)……ん? その猫、どうした?」


 轟さんが、カウンターの下を指差した。  そこには、先ほどまでのんきに欠伸をしていた茶トラの猫が、不自然なほど静かに横たわっていた。


 ただの居眠りじゃない。  猫の体は小刻みに震え、うわ言のように『……聞こえる……やめろ……もう、消してくれ……』と、掠れたおっさんの声で漏らしていた。


「おい、お前……? しっかりしろよ!」


『……。……。……あ……』


 猫の意識は、深い、深い闇の底へと急速に吸い込まれていった。


【猫が見ている悪夢――三十年後の『あの日』】


 それは、2056年の、凍てつくような冬の夜だった。  五十四歳になった佐藤カズマは、暖房も切れたアパートの部屋で、ボロ布のような毛布に包まっていた。

 部屋には、絶望的なまでの「音」が溢れていた。  壁越しに聞こえる、隣の家族の楽しげな笑い声。  テレビのニュースが垂れ流す、輝かしい若者たちの成功体験。  そして何より、自分自身の脳内で鳴り響く、『お前の人生は何だったんだ?』という容赦ない自責の叫び。

「うるさい……。静かにしてくれ……。もう、何も聞きたくないんだ……」

 心臓が不規則なリズムを刻み、視界がチカチカと明滅する。  死が、すぐ隣の部屋からこちらへ歩いてくる足音が聞こえるようだった。

 その時、開けっ放しのベランダの窓から、一匹の野良猫が迷い込んできた。  猫は、動けなくなったカズマの胸の上に飛び乗り、不思議そうな顔で彼を見下ろした。

「……お前、いいな。言葉なんて、分からなくていいんだろ。……不都合な声なんて、全部無視して……ただ、寝ていられるんだろ……」

 カズマは、枕元に転がっていた「あるもの」に手を伸ばした。  それは、数年前に大家の轟さん(百歳を超えてなお筋トレを続けていた超人だ)が、『心の雑音を殺せ』と強引に押し付けてきた、特殊な形状の耳栓だった。

 ケースには、古びたマジックでこう書かれていた。  『スルー・パッシブ:外野の声より、自分の昼寝。』

「これを……つければ……」

 震える指で、耳栓を装着しようとした瞬間。  カズマの心臓が、最後の大きな鼓動を打った。  意識が遠のき、指先から耳栓が滑り落ちる。

 ――いやだ。まだ死にたくない。  ――誰の声も聞こえない場所で、ただ、ゆっくりと眠りたかっただけなんだ。

 その強烈な自己愛と逃避願望が、落ちていく「スルー・パッシブ」の量子的ゆらぎと共鳴した。  カズマの魂は、目の前にいた猫の体へと、滑り込むように吸い込まれていった。

 冷たくなっていく自分の体を見下ろしながら、猫になったカズマは思った。 『ああ……これでようやく、静かに昼寝ができる……』


 ――ガシャン!!

「佐藤! ぼさっとするな! 客だ!」  轟さんの怒声で、僕は現実へと引き戻された。

 足元を見ると、猫がハッと目を見開き、ガタガタと震えながら起き上がったところだった。 『……。……あ、……カズマ。今のは……』

 猫の目は、いつもの図々しさが消え、深い恐怖に染まっていた。  その時、轟さんがカウンターの上に、重厚な金属ケースを「ドンッ」と置いた。

「佐藤。そして猫よ。貴様ら、今のままでは『音』に負ける。……これを使え。私が現役時代、己の鼓動以外のすべてを遮断するために使っていた聖具だ」

 蓋が開かれる。  そこにあったのは、猫が悪夢の中で見ていた、あの古びた耳栓――。

『……スルー・パッシブ……』  猫が、震える声でその名を呼んだ。


「だ、大家さん……その耳栓……」  僕は、金属ケースの中で鈍い光を放つ『スルー・パッシブ』を見つめた。  足元の猫は、悪夢から覚めたばかりの虚脱状態で、その耳栓を親の仇か救世主か判別できないような複雑な目で見つめている。

「……ふん。今の貴様らにはまだ早い。これは、己の筋肉と魂が完全に一致した者のみが許される『絶対静寂』の境地へ至るための鍵だ」  轟大家がケースを閉じようとした、その時だった。

「……師匠。相変わらず、無茶な理論を押し付けてますね」

 レジの奥から、力のない声が響いた。  店長だ。彼は、昨日の輪ゴムで補強されたサンダルを引きずりながら、ゆっくりと姿を現した。

 その風貌は、まさに「絶望の造形」だった。  制服のボタンは、はち切れんばかりの腹に押し出されて悲鳴を上げている。顎のラインは三重に重なり、かつて筋肉だった場所はすべて、重力に従順な脂肪の波へと成り果てていた。

「……フン。貴様か、松井まつい。その醜いバルク……見るに堪えんぞ。かつて私の下で『鋼鉄の腹筋』を目指していた男の面影が微塵もないな」 「……やめてくださいよ。僕はもう、筋肉の競争バトルからは降りたんです。今はただ、この店で売れ残った廃棄弁当を胃袋という名のゴミ箱に詰め込むだけの毎日ですよ」

 店長――松井さんは、自嘲気味に笑い、自分の巨大な腹を「パンッ」と叩いた。その振動が波のように全身を駆け抜ける。

「佐藤君。……君に一つだけアドバイスだ。その大家さんが持っている耳栓スルー・パッシブは、劇薬だよ。僕も一度、それを借りたことがある」 「店長も、これを使ったことが……?」

「ああ。……外界の音が、一切消える。客の罵声も、レジの警告音も、自分の将来を不安視する内なる声もね。……最高だよ。でも、使いすぎると僕みたいになる。聞こえなきゃいい、見えなきゃいい……そうやって自分を甘やかした結果が、この脂肪の塊さ」

 店長は、悲しげな目で僕の足元の猫を見た。 「猫も同じだ。都合が悪くなると丸まって寝る。……君のその猫も、どうやらその『素質』があるみたいだね」

『……ギクッ』  猫が露骨に肩を震わせた。

「いいか、佐藤! そして猫!」  轟さんが再びケースを掲げ、雷のような声を張り上げた。

「この『スルー・パッシブ』が必要になる瞬間は、必ず来る。だが、それは逃げるためではなく、次の一歩を踏み出すために『雑音を殺す』ためのものだ! それまでは、この私が厳重に保管しておく!」

「……。……はい」  僕は、店長のだるんだるんの体と、轟さんの鋼のような体を見比べた。  どっちも極端すぎて、僕の目指すべき中間地点が見つからない。

 猫は、ようやく落ち着きを取り戻したのか、僕の足に体を擦り寄せながら囁いた。 『……カズマ。今は大家の言う通りにしておけ。……だが、覚えておけ。第10話くらいになったら……いや、本当に行き詰まったら、俺がそれを手に入れてやる。俺たちの「最強の昼寝」のために、な』

 こうして、僕の初出勤の夜は、クレーマーの退散と、師弟対決(?)の余韻、そして謎の耳栓の出現という波乱と共に更けていった。

 窓の外には、薄明るくなり始めた空。  僕の筋肉痛はさらに激しさを増していたが、心のどこかで、昨日の自分よりは「重いもの」を支えられるようになった気がしていた。

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