第2話:『筋肉大家と、脂肪の塊(俺)』
「……いいか、カズマ。これから挑むのは、このアパートの絶対君主にして、筋肉の権化だ。失礼のないようにしろ。……いや、失礼よりも『筋肉への敬意』を忘れるな」
猫――自称・未来の俺は、僕の肩に乗って、まるで戦場に赴く軍師のような緊張感を漂わせている。
僕は手にした「一等賞:最高級黒毛和牛セット」の目録と、実物の保冷バッグを握りしめた。正直、これを自分で焼いて食べれば一週間は幸せに暮らせるはずなのだが、猫が『これをお前の血肉にするより、大家の機嫌に投資しろ』としつこいので諦めた。
大家の居住スペースである一階の重厚なドアを叩く。 直後、「ヌンッ!」という、人間が出すとは思えない気合の入った声と共にドアが開いた。
「……何の用だ、佐藤。家賃なら、貴様の細い大腿四頭筋のように、まだ一歩も前に進んでおらんようだが?」
そこに立っていたのは、巨大な岩石に手足が生えたような老人、轟厳五郎だった。
二月だというのに、彼は「背中に鬼が宿っている」と言わんばかりのタンクトップ姿。剥き出しの腕は、僕の太ももより太い。
「あ、の……大家さん。これ、商店街の福引きで当たったんですけど、僕一人じゃ持て余すので、良ければ召し上がってください……」
僕は震える手で保冷バッグを差し出した。
轟さんは一瞬、鋭い眼光で僕を射抜いたが、バッグの中身を確認した瞬間、その分厚い胸筋がピクリと跳ねた。
「……ほう。黒毛和牛。しかも、このサシの入り方……。植物性タンパク質では到達できん、圧倒的な力を感じるな」
轟さんは肉を手に取ると、そのまま僕を部屋の中へと手招きした。
そこは「部屋」というより「ジム」だった。ソファの代わりにベンチプレス台があり、壁には歴代のボディビル大会の賞状が並んでいる。
『おい、カズマ。今だ、畳み掛けろ。「大家さんの上腕二頭筋、キレてますね!」って言うんだ!』
肩の上の猫が耳元でささやく。
僕は死ぬほど恥ずかしかったが、背に腹は代えられない。
「お、大家さん……。今日も、その……上腕二頭筋、キレてますね……!」
空気が凍った。
轟さんは動きを止め、ゆっくりと僕を振り返った。 やってしまった。バカにされたと思っただろうか。
しかし、轟さんの口角が、見たこともない角度で吊り上がった。
「……貴様。……分かってきたではないか」
轟さんは、僕の細い肩をドシンと叩いた。その衝撃だけで僕の鎖骨が折れるかと思った。
「いいだろう。この肉のバルクに免じて、今月の家賃の遅れは、スクワット百回……いや、来月まで待ってやろう! ただし! その猫はどうした? やけに眼光が鋭いな。良い、実に良い広背筋(?)になりそうな猫だ」
『ニャ、ニャーーン(訳:当然ですよ、元はあんたにボロ雑巾のようにされた男だからね)』
猫がまたしても媚びを売るような声を出した。 こうして、高級肉と猫の営業努力により、僕は当面の住処を確保することに成功したのだ。
「……待て、佐藤。肉を受け取ったからといって、ただ食わせるわけにはいかん。摂取したタンパク質をどこに運ぶか、その『住所』を筋肉に教え込んでからだ!」
轟大家の咆哮が、防音仕様の(というより壁が厚すぎて音が漏れない)ジム部屋に響き渡った。 僕は案の定、そのまま拉致される形でトレーニングに強制参加させられていた。
「いや、僕はただ肉を届けに……。それに僕は運動不足で、いきなりそんな……」
「黙れ! 貴様の腹を見ろ! それは腹筋ではなく、ただの『絶望の蓄積』だ! 筋肉が泣いているぞ!」
轟さんは、どこから取り出したのか、猫用の巨大な円形器具を僕の前に突き出した。
「そしてその猫! 良い目つきをしていると言ったが、運動不足は万死に値する。我が特注の『超高速回転キャットホイール・マッスル仕様』を使え!」
それは、ハムスターの回し車を巨大化させたような、重厚な金属製のキャットホイールだった。
「さあ、佐藤! 貴様はベンチプレスだ! 猫はホイールだ! 共に汗を流し、肉を食う資格を勝ち取るのだッ!」
「ひっ……!」
僕は強制的にベンチに寝かされ、二十キロのバーベル(大家にとっては羽毛のような重さらしい)を握らされた。
「上げろ! 筋肉を信じろ! 過去の自分を殺して、新しい大胸筋を産むんだ!」
「ぐ、ぐぬぬ……! 重い、死ぬ……!」
数ヶ月間、キーボードと箸より重いものを持っていない僕の腕は、生まれたての小鹿のようにプルプルと震える。視界が白くなり、酸欠で頭がクラクラする。
ふと、隣に設置されたキャットホイールに目をやった。 未来の俺(猫)は、さぞかし必死に走って僕を鼓舞してくれるのだろう――。
『ふあぁぁ……。お、やってるなカズマ。いいぞ、その調子でパンプアップしろ』
そこには、ホイールの真ん中で丸まり、気持ちよさそうに欠伸をする猫の姿があった。 走るどころか、ホイールの回転軸を枕にして、完全に居眠り体勢に入っている。
「おい……! お前もやれって言われてるだろ! なんで寝てんだよ!」
『……うるせぇなぁ。俺はもう人生(五十年分)を走り抜けたんだよ。猫の体っていうのは、一日の大半を寝て過ごすのが仕事なんだ。……ムニャ……明日のカズマなら、きっと、あともう一回……上げる……ゴロゴロ……』
「都合のいい時だけ猫になりやがって!」
僕が怒鳴る隙に、轟さんの怒声が飛ぶ。
「佐藤! どこを見ている! 意識を大胸筋の停止部に集中させろ! 貴様が止まれば、その猫の眠りを妨げることになるぞ!」
「そんな殺生な……!」
それから一時間。 僕は轟さんの「キレとる!」「デカいぞ!」という(自分では全く実感できない)掛け声の嵐の中で、ボロ雑巾のように使い古された筋肉を苛め抜かれた。
ようやく解放された時、僕の腕は自分の意志では一ミリも動かなくなっていた。床に這いつくばり、荒い息を吐く僕の横で、猫はパチリと目を開けた。
『……おっ、終わったか? 良いトレーニングだったな、カズマ。おかげで熟睡できた。さあ、腹が減ったな。大家さん、早くあの肉を焼いてくれ。俺はレアで頼むぞ』
「……この猫、都合が悪くなると寝やがって。いつか絶対に後悔させてやる」
生まれたての筋肉痛に震えながら、僕は心の中で、未来の自分(猫)への殺意に近い感情を、タンパク質と共に飲み込むのだった。
トレーニングの後、轟大家の部屋には、至福の香りが立ち込めた。 鉄板の上で弾ける脂の音。一等賞の黒毛和牛は、大家の手によって「完璧なバルクアップ飯」へと姿を変えていた。
「食え、佐藤! 筋肉の破壊は創造への序曲だ。この肉が貴様の繊維を繋ぎ、明日への力となる!」
「は、はい……いただきます……」
箸を持つ手が震えて、せっかくの高級肉を落としそうになる。口に運ぶと、とろけるような脂の甘みが広がった。……生きててよかった。ニート生活で忘れていた、強烈な「報酬」の感覚が脳を焼く。
『ふむ……焼き加減は悪くないな。大家、次はもう少し強火で表面をカリッとさせてくれ』
猫――未来の俺は、ちゃっかり自分の分の小皿を完食し、さらなる要求を大家に突きつけていた。
「ははは! 言うようになったな、この猫! 佐藤、貴様よりもこの猫の方が『食に対する闘争心』があるぞ!」
「……そりゃ、中身は五十代の食い意地が張ったおっさんですからね」
僕がぼそりと毒づくと、猫はピクリと耳を動かしたが、聞こえないふりをして毛繕いを始めた。
「ところで佐藤。貴様、その細い腕でいつまでも私の肉を当てにするわけにはいくまい」
轟さんが、プロテインシェイカーをジョッキのように煽りながら言った。
「……分かってます。明日、バイト探しますよ」
「探す手間は省いてやったぞ。私の知り合いがやっているコンビニだ。夜勤の枠が一つ空いている。そこなら『深夜の品出し』という名の、全身持久力トレーニングができる!」
『……カズマ、そこだ。そこが俺……いや、お前が三十年前、面接に落ちて「もう一生働かない」と決めた運命のコンビニだ』
猫が、大家に聞こえない低い声で僕に囁いた。
「えっ……?」
『あの時、お前は緊張して面接で一言も喋れなかった。だが、今回は違う。俺という「人生のベテラン」がついている。……まあ、基本的には寝て見守るだけだがな』
猫はまたしても、都合よく目を閉じ始めた。
「大家さん……。そのコンビニ、面接に行かせてください」
肉の力か、それとも未来の自分の情けない後悔を聞かされたせいか。 僕の口から、柄にもない前向きな言葉がこぼれた。
「よし! ならば明日の22時だ。履歴書を持ってこい。……あ、そうだ」
轟さんは、何かを思い出したように棚から小さな箱を取り出した。
「これは、私が現役時代に集中力を高めるために使っていた耳栓だ。名付けて……」
『……おっと、それはまだ早いですよ、大家さん』 突然、寝ていたはずの猫が割り込んだ。
「……? 猫が何を言っているかは分からんが、まあいい。佐藤、明日は遅れるなよ!」
猫が守り抜いた(?)謎の耳栓。
そして、かつて僕が挫折した場所への再挑戦。 僕は残りの肉を噛み締めながら、明日という日が来るのが、少しだけ怖くて、少しだけ楽しみになっていた。
翌日。筋肉痛で歩くたびに「あだだだ……」と情けない声を出す僕を、猫(未来の俺)が後ろから急かす。
『シャキッと歩け、カズマ。面接官は、お前の歩き方から「こいつはシフトに穴を開けないか」を判断するんだ』
「……お前、さっきから偉そうなことばっかり言って。自分は猫のフリして寝てるだけじゃないか」
『寝てない、瞑想だ。……あ、ほら、あそこにいるのは白雪さんじゃないか?』
コンビニへ向かう道中、前方から研究資料らしき重そうな束を抱えた白雪さんが歩いてきた。
「あ、佐藤さん! コンビニ?」
「ええ、まあ、ちょっと面接に……」
「すごい、頑張ってるのね! 猫ちゃんも一緒なの?」
『ニャ、ニャーン(訳:彼を立派な納税者にしてみせますよ、お姉さん。だからもっと俺の顎の下を撫でて……)』
猫がまたしても媚びを売り始め、白雪さんの手にかじりつくように甘える。その隙に、僕は彼女の視線から逃れるようにコンビニの自動ドアを潜った。
店内は、深夜独特の静寂と、揚げ物の匂いが混じっていた。 レジの奥から出てきた店長は、死んだような目をしていた。……あ、この人、未来の僕と同じ目をしている。
「……面接? 轟さんの紹介なら、まあ、いいけど……。君、長続きする?」
店長の言葉に、僕は喉が詰まった。かつての僕なら、ここで「あ、あの、えーと」と吃り、不採用通知を待つだけのマシーンになっていただろう。
その時だ。
カバンの中から、猫の低い声が届いた。
『……カズマ。店長の右足を見ろ。サンダルの鼻緒が切れかかってる。予備の輪ゴム、お前のポケットに入ってるだろ? さっき俺が入れさせたやつだ。それを出して「これ、良ければ使ってください」と言え』
「……え?」
『いいから言え。これは「未来の俺」が、この面接で失敗した後に気付いた、店長の最大の悩みだ。この人はケチで、サンダル一足買うのも惜しんでるんだよ』
僕は震える手で、ポケットの中の輪ゴムを取り出した。
「あ、あの……店長。サンダル、切れそうですよ。これ、良ければ……」
店長が目を見開いた。
「……え。君、よく気づいたね……。いや、助かるよ。これ、お気に入りなんだけど、買いに行く時間がなくて……」
そこからの面接は、驚くほどスムーズだった。 店長は僕のことを「気の利く、観察力のある青年」だと勘違いしたらしい。 採用が決まり、僕は呆然とコンビニを出た。
「……受かった。受かっちゃったよ」
『フン、当然だ。俺はこの三十年、あのサンダルが切れた瞬間に店長がブチ切れて面接が台無しになった光景を、一万回は思い出して後悔したんだからな』
猫はカバンの中から這い出し、満足げに夜空を見上げた。
「お前……。もしかして、大家さんが持ってたあの『耳栓』も、未来で使ってたのか?」
『……。さあな、どうだったか。……ふあぁぁ、知恵を使ったら眠くなった。カズマ、帰ったら高級なカニカマだぞ。……ムニャ……』
猫は、またしても都合よく眠りに落ちた。 大家さんが持っていた『スルー・パッシブ』という謎の道具。そして、それを知っているらしい猫。 僕の人生を無理やり軌道修正しようとする「未来の俺」の計画は、どうやら僕の想像以上に、周到で、そして自分勝手なものらしい。




