第1話 アキレス腱と現実世界との断裂
ドラゴンから放たれた灼熱の炎がおれの体を容赦なく包み込んだ。おれは目を閉じ我が身の終わりを覚悟する。
あぁ……やはりおれには無理だった。胸に去来するのは後悔と絶望。おれを信じてくれていたであろう、愛する娘への悔恨の念。
「へったくそ……」
コントローラーを手に項垂れるおれに娘がぼそっと呟いた。モニター画面には見事ドラゴンを射抜き、決めポーズをしている弓使い『サーシャ』の姿が。
最近、娘の咲耶がドはまりしているオンラインゲーム。それこそ一日中、部屋に籠りっぱなしで夕食のテーブルにすらこのところ顔を出さなくなった。てっきり一人娘が生まれた頃は、「高校生になった娘が彼氏と夜遊びしてしかりつける」なんて未来を想像していたんだが、これはこれで頭を悩ませる。
一度ビシッと言ってやろうと意気揚々と腕まくりをしたことがあったが、逆におれが妻にしかられた。娘の多感な時期に父親が出る幕はないらしい。
どうにかコミュニケーションを取ろうと娘の部屋へと乗り込んだのだが、最近のゲームって凄いんだな……ボタン多過ぎないか?
「これでもファミコン世代だぞ」と息巻いた自分が恥ずかしい。
娘に部屋を追い出されガックリと肩を落としてリビングへと行くと、妻の真樹がネックレスを自分ではめながら冷たい視線をおれに投げかけた。
「だから言ったのに……。そろそろ出るからね。今日って町内会のバレーに行くんでしょ? 夕飯は咲耶の分もなんか買ってきてあげてよ」
そんな言葉と甘い香水の香りを残し、真樹はルンルンというオノマトペがぴったりな様子で出掛けていった。気のせいかもしれんが、最近やたらメイクが濃くなった感じがする。今日も友達との飲み会とは言っていたが……。
「はぁ……」
おれは小さくひとつ溜息を吐いた。結婚して二十年。そりゃ冷めてもくるかと自分を慰める。思えば数年前まで、おれは仕事に追われどこか家庭をないがしろにしていたかもしれない。妻の出産にも立ち会えず、結婚記念日や真樹の誕生日も残業で何度すっぽかしたか。娘の学校行事にも碌に顔を出さず、そりゃ二人に愛想尽かされるのも当然だろう。
再び娘の部屋へと入る。咲耶はピンクのヘッドホンを付けゲームに集中していた。部屋にはコントローラーのカチャカチャという音だけが無機質に鳴り響いていた。聞こえはしないとわかっていたが、一応声を掛けてみる。
「今日の夕飯は弁当だけど、なんか食べたいのあるかー?」
「唐揚げ」
声は聞こえるはずはないのだが、おそらく勘で応えたのだろう。咲耶はこっちに振り向きもせずそう答えた。器用に動く指先はまるで別の生き物のようだ。昔はアーチェリーをやっていて、結構将来有望な選手だったんだが。そういや中学最後の試合も見に行けなかったな……。
しばらくぼーっと娘を見ていると、視線を感じたのかちらっとこっちを見た。その時間わずか半秒。すぐにモニター画面へと向き直るとしっしっと手で追い払われた。「パパー」と抱きついてきていた、あの頃の娘が恋しくて仕方がない。
おれは静かに部屋を出る。背中に哀愁を纏わせてみたが娘には届いただろうか?
スマホのアラームが鳴っておれは家を出た。学校の体育館までは歩いていける距離のため、おれはジャージ姿のまま目的地へと向かった。灼熱の夏が終わり、ようやく涼しくなってきた。秋へと変わりゆく風が心地いい。
「こんにちは~柏木さん!」
声を掛けられ振り返ると、自転車に乗ったご近所の藤木さんだった。おれの真横でキュッとブレーキをかけると颯爽と自転車から飛び降りた。
「今日も参加ですか!? 最近出席率いいですね~」
明るく染めたポニーテールを後ろへパラリとなびかせながら、彼女は元気な声を響かせた。学生の頃はバレー部だったらしく、今日も背中に“KAORI”とプリントされたパツパツのユニフォームで来ていた。
それにしても相変わらず立派なモノをお持ちでらっしゃる。おれはなるべくブルルンと揺れる双璧に目が行かないようにしながら歩き始めた。
「最近腹が出てきちゃいましてね。やっぱり運動しないとダメですよねぇ。今日もご迷惑をかけないようがんばります」
「迷惑だなんてとんでもない! 今日も怪我なく楽しみましょ~」
もの凄く眩しい笑顔を向けられる。頭を過ったのは付き合い始めた頃の妻の顔だった。普段は冷たい感じでクールに見られがちな真樹だったが、二人でいる時は本当に楽しそうによく笑っていた。おれはそのギャップにズキュンときてしまったわけだが。
その頃をふと思い出し顔がにやけてしまう。すると目の前の藤木さんが笑顔のままで固まってしまった。やばいっ! これは変な誤解を生んでしまう。
「あっ! 早く行って準備しなきゃ。じゃあ先に行ってますね~」
「あっちょっ、これは――」
そそくさと逃げるようにとはこのことか。揺れるポニーテールを早馬が駆けていくが如く、颯爽と風になびかせながら去っていった。伸ばした手が虚しく空を切った。
「はぁ……セクハラとか言われなきゃいいけど」
体育館に着く直前、近くのコンビニ寄ってタバコに火を点ける。駐車場の隅にぽつんとある灰皿を見ると、なぜか自分の姿と重なってしまった。ブラック企業を辞めて転職したが、特にやりがいもなく期待もされずに淡々と業務をこなす毎日。
家に帰ればスマホをせっせと弄る妻との無言の食卓。風呂上がりに飲む一本の発泡酒が今のおれの一番の支えってどうなんだろう……。そろそろベランダでタバコを吸うのも寒くなる季節が来るなぁ、とおれは遠い目をしながら煙を吐き出した。
時間丁度に体育館に到着すると、シューズのキュッキュッという音と共に楽しそうな笑い声が聞こえてきた。今年からワンバンバレーなるものが町内対抗戦の球技となるらしく、週一回、こうして集まって練習を重ねている。最初は歪なボールに戸惑いはしたが、やっていると結構おもしろい。キャッキャとみんながはしゃぐ気持ちも大いにわかる。
「あっ柏木さーん! 早速ですけど向こうのチームに入ってもらっていいですかー?」
着いて早々、藤木さんが手を振りながらおれに声を掛けてきた。どうやらさっきのことは気にしなくていいのかな、と少しホッとしながらおれは荷物を端っこに置いてコートに駆け足で向かった。
「じゃあこっちのチームのサーブから行きますねー! そーれ!」
ぺこぺことコートのみなさんに挨拶をしていたおれの方にいきなりボールが飛んでくる。ボールは床へ一度ワンバウンドし大きく右へと跳ねた。思わずおれは飛びこむように手を伸ばした。その瞬間――
「バチンッ!」
ロープが切れたような音が足元から聞こえてきた。急に右足が言う事を聞かなくなり床にヘッドスライディングするように倒れ込んだ。こりゃアキレス腱やっちゃったな、と瞬時に理解した。周りから笑い声と心配する声が入り混じりながら聞こえてくる。それほど痛みはなかったが、体から血の気が引いて行くのを感じた。
『うわぁ……かっこ悪いなおれ』
そう心の中で呟きながら、おれの意識はすぅっと消えていった。
そして、目が覚めればそこは病室のベッドの――
「うおぉぉいっ! なんじゃこれっ!?」
真っ先におれの目に飛び込んできたのは見た事もない、まさしく化け物の血だらけの死体だった。刃物で切られたような傷があちこちにあり、ピクピクとまだわずかに動いている。おそらく爬虫類だろうが、その姿は化け物としか例えようがない。
アキレス腱を切ったからではなく、こういう時は本当に体が動かない。座り込んだまま辺りを見渡すと、荒れ果てた広大な大地。少し離れた所で変な衣装を着た男女数名が化け物と戦っていた。
ある者はもの凄い速さで剣を振るい、ある者は杖から炎を出している。まさにそれはまるで娘がやっているゲームの中のような光景だった。自分の体を見ると、なにか鎧のようなものを身に着け、右手には西洋風の剣、左腕には小さな盾をはめていた。
「これ夢だよな?」
ありきたりなセリフをおれが呟いた瞬間、一際でかい爬虫類の化け物が襲い掛かって来た。鼓膜が破れるくらいの大音量で叫び、大きく開いた口からは鋭い牙が覗いていた。
だが不思議とおれには恐怖心というものはなかった。まるで別の誰かがおれの体を動かしているかのように、すっと立ち上がると手にした剣を横薙ぎに振り払った。まるで居合抜きで巻藁を切るかのように、化け物の体はきれいに真っ二つに分かれた。そして切った瞬間、その傷口から激しい炎が噴き上がった。
「うわっ! 熱っつ!!」
化け物は一瞬で灰となったが、おれは思わず驚いてのけ反る。すると手を叩きながらひとりの男がこちらへとやってきた。
「見事な剣技だ。フレイムソードか?」
おそらくさっき向こうで戦っていた者たちのひとりだろう。スラリと背が高く、男のおれから見てもイケメンだ。男はニコニコしながら近づいてくると目の前で止まりおれの肩越しに後ろの方を覗き込んだ。
「ところで、あそこに倒れているのは君の仲間かい?」
顎をくいっとやりながらそう言われ、おれは後ろを振り返った。すると確かに少女と思しき誰かがうつ伏せで倒れていた。手には弓を握りしめ、頭からわずかに血が出ているようだ。
おれは慌てて駆け寄りその少女を抱き起す。すると長い黒髪に隠れていた顔がはっきりと見て取れた。
「さ、咲耶っ!?」
それは間違いなく我が愛娘、柏木咲耶の姿だった。




