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『誰かの明日を照らす髪』

作者: 小川敦人

『誰かの明日を照らす髪』


「髪型を変えられたんですね」

私がそう声をかけたのは、三年前の晩秋のことだった。向かいのデスクに座している奈緒子さんが、いつものロングヘアを惜しげもなくショートボブに変えていたのを見て、思わず口を衝いて出た言葉だった。


今では女性の容姿について言及することは、セクシュアルハラスメントの烙印を押されかねない。そうした時代の風潮を承知しながらも、彼女の新たな髪型があまりにも美しく、率直な感嘆を伝えずにはいられなかったのだ。コンプライアンス研修で「容姿に関する発言は慎むように」と再三にわたって説かれているにも関わらず、奈緒子さんの佇まいがあまりにも魅力的に変貌していて、言葉を発せずにはいられなかった。


奈緒子さんは薄紅色に頬を染めて、「ヘヤードネイションなのです」と、鈴の音のような声で答えてくれた。


「ヘヤードネイション?」


聞き慣れない言葉に首をかしげる私に、彼女は小さな声で説明してくれた。髪の毛を寄付して、医療用ウィッグの材料にしてもらうボランティア活動のことだと。英語で書くとHair Donationで、文字通り髪の寄付という意味だった。


「実は、長女が最近…」


奈緒子さんの声が震えのような沈黙を孕んだ。そこで彼女の言葉が途切れたのを見て、私は無言のうちに待った。奈緒子さんは深く息を吸い込んで、再び口を開いた。


「長女が癌で他界いたしました。三人姉妹の筆頭で、私は末娘なのですが」


奈緒子さんの声には、心を落ち着かせる静けさが漂っていた。彼女が三人姉妹であることも、長女を喪ったということも、私は初めて知った。普段は極めて内向的で個人的な話を口にしない人だったから、こうして内に秘めた思いを分かち合ってくれることに、私は特別な感情を覚えた。


「姉は…とても優しい人だったんです」奈緒子さんの瞳に、過ぎし日の残り香が、金色の光となって一瞬きらめいた。「五歳年上で、物心ついた頃から、私にとっては小さな母親のような存在でした。幼い日々、次女と私が些細なことで争いを起こすたび、姉は穏やかな微笑みを湛えて仲裁に入ってくれるのでした。『奈緒ちゃん、こういう時はね』と、いつも慈愛に満ちた声音で諭してくれて」


私は静寂のうちに耳を傾けていた。奈緒子さんが「奈緒ちゃん」と愛おしまれていた頃の面影を想い描きながら、胸奥に温もりが宿るのを感じていた。


「青春の頃は、恋愛の機微についてもよく相談したものです。高校生の時、初めて心を寄せる人ができて、どのように接すれば良いのか分からずに。そんな時、姉は花のような笑みを浮かべて『男の子というのは案外単純なものよ、素直でいればきっと伝わるから』と教えてくれました」奈緒子さんの唇に、ほのかな微笑が宿った。「就職の折も、結婚を決めた時も、いつも真摯に私の話に耳を傾けてくれました。『奈緒ちゃんなら大丈夫、でも何かあったら遠慮しないで』と、いつも変わらぬ愛情を注いでくれて」


その瞬間の奈緒子さんの表情には、深い愛慕と哀愁が複雑に絡み合っていた。


「姉は自らの病のことを、最期まで詳らかに語ろうとはしませんでした。私たちに憂いを与えたくないという、あの人らしい配慮から。けれど、ウィッグのことに限っては『女として生まれた以上、髪を失うのは堪え難い』と、心の奥底からの嘆息を漏らしたことがありました」


奈緒子さんは入社より八年を数える。経理部の主任として、常に細やかで精確な職務を遂行する人だった。そして、何にも増して美麗だった。控えめな化粧と品格のある装い、穏やかな語り口。薬指に静かに煌めく結婚指輪を目にするたび、私は胸の奥底で小さな嘆息を漏らしていた。


「姉が抗がん剤治療を受けていた折、髪の毛が抜け落ちてしまって。ウィッグを探し求めたのですが、人毛で作られた良質なものは法外に高価で。安価なものは人工毛で、見た目がどうしても不自然でした」


奈緒子さんは遥か彼方を見詰めるような眼差しをしていた。その横顔が、いつもにも増して美しく映えた。哀しみが彼女の美貌に深遠さを与えているかのようだった。


「そのときに、髪を寄付してウィッグを作る活動があることを知ったんです。JHD&Cという団体があって、31センチ以上の髪があれば寄付できるって」


私は黙って聞いていた。奈緒子さんの話に込められた想いの深さが、ひしひしと伝わってきた。こんな風に、家族のことを語る彼女を見るのは初めてだった。


「姉は結局、市販の安いウィッグを使っていました。でも、鏡を見るたびに悲しそうな顔をしていて。『やっぱり変かな』って、いつも気にしていました」


奈緒子さんは自分の短くなった髪に軽く手を触れた。その仕草が、どうしようもなく愛おしく見えた。


「私と次女で『全然変じゃないよ、似合ってるよ』って言ったんですが、姉は『お世辞はいいから』って笑って。でも、その笑顔が無理をしているのがわかって」


彼女の声が少し震えた。私は何か慰めの言葉をかけたかったが、適切な言葉が見つからなかった。


「だから、今度は私が誰かの役に立てればと思って。31センチ以上必要だったので、一年半かけて伸ばしました」


「一年半も」


私は驚いた。一年半も前から、こんな素晴らしい計画を立てていたなんて。


「ええ。最初は単純に、姉のためにできることがしたかっただけなんです。でも伸ばしている間に調べてみたら、抗がん剤の副作用で髪を失う人、円形脱毛症で悩む人、生まれつき髪が少ない子どもたち、本当にたくさんの人が髪のことで苦しんでいるって知って」


奈緒子さんの優しさが、言葉の端々から滲み出ていた。彼女のそんな一面を知って、私の心は激しく動いた。美しいだけでなく、こんなにも思いやりの深い人だったなんて。


「姉が亡くなったのは、私が髪を伸ばし始めてから半年後でした。でも、その時にはもう、姉のためだけじゃなくて、同じような状況の誰かのためにも続けようって決めていました」


奈緒子さんのショートヘアは、彼女の美しさをより際立たせていた。以前のロングヘアも美しかったが、今の髪型の方が彼女の内面の強さと優しさを表しているような気がした。首筋のラインが美しく、小さな耳たぶが可愛らしく見えた。


「美容室でカットしてもらう時、美容師さんに事情を説明したんです。そうしたら、『ヘアドネーション専用のカット』をしてくださって」


「専用のカット?」


「はい。普通にショートにカットするのとは違って、寄付用に髪をまとめて切るんです。髪の根元に近いところで輪ゴムで束ねて、その上をハサミで切る。そうすると、長さが均一になるんです」


奈緒子さんは実際の手順を丁寧に説明してくれた。その時の彼女の表情は、まるで大切な秘密を教えてくれるような、特別な親しみやすさがあった。


「カットしてもらった美容師さんが、『本当にきれいな髪ですね。カラーもパーマもしていないから、きっと喜んでもらえますよ』って言ってくださって」


確かに、奈緒子さんの髪は美しかった。自然な黒髪で、いつもつややかで手入れが行き届いている。そんな美しい髪を、見知らぬ誰かのために切ってしまうなんて。


その時の奈緒子さんの笑顔が、今でも忘れられない。少し寂しそうでありながら、同時にとても温かな表情だった。その笑顔に、私は完全に心を奪われてしまった。


「私の髪で、誰かが少しでも前向きになってもらえたら嬉しいです。姉も、きっと喜んでくれると思うんです」


その日より、私は奈緒子さんを異なる眼差しで見つめるようになった。いや、より正確に言うならば、元来抱いていた特別な感情が、より深淵で複雑なものへと変貌したのだった。表面的には静かで慎ましやかな彼女の内奥に、これほどまでに深い愛情と強固な意志が秘められているとは、夢想だにしなかった。


そして同時に、私は自らの心情が単なる憧憬ではないことを認めざるを得なくなった。奈緒子さんへの想いは、疑いようもなく恋愛感情だった。しかし、彼女は既婚の身。薬指に静かに煌めく結婚指輪が、私の感情を冷厳な現実へと引き戻すのだった。


数ヶ月後、私は奈緒子さんから思いがけない話を聞いた。


「実は、ウィッグを受け取った方から手紙をいただいたんです」


奈緒子さんは大切そうに封筒を手にしていた。


「中学二年生の女の子でした。円形脱毛症で学校に行くのが辛くて、でもウィッグをつけるようになってから、少しずつ外に出られるようになったって」


彼女の目が潤んでいた。その涙ぐんだ瞳が、どうしようもなく美しく見えた。


「『髪を寄付してくれた人に、ありがとうを伝えたい』って書いてありました。お母さんと一緒に手紙を書いてくれたみたいで」


私も胸が熱くなった。奈緒子さんの優しさが、遠く離れた誰かの心に届いている。そのことが、私には誇らしく感じられた。


「その子が『今度は私も、髪が伸びたら寄付したい』って書いてくれていて。そういう風に、思いやりが循環していくのがとても嬉しくて」


奈緒子さんの笑顔を見ていると、私の胸は締めつけられるような痛みを感じた。こんなに素晴らしい女性を愛してしまったのに、その想いを伝えることは絶対にできない。


それから一年が経った。奈緒子さんの髪は再び肩まで伸びていた。


「また寄付されるんですか?」


私が尋ねると、奈緒子さんは頷いた。


「今度は、つな髪っていう団体に寄付しようと思って。18歳以下の子どもたちに無償でウィッグを提供している団体なんです」


奈緒子さんは続けた。


「前回の経験で、ヘアドネーションについてもっと詳しく調べるようになったんです。日本では年間約5000人の子どもが小児がんと診断されて、その多くが抗がん剤治療を受ける。でも、子ども用のウィッグって大人用よりもさらに少なくて、高価なんです」


彼女の知識の深さに驚いた。きっと、一度目のヘアドネーション以降、相当な時間を費やして調べたのだろう。


「姉が大人だったから気づかなかったんですが、子どもの場合はもっと深刻なんですね。学校に行けなくなったり、友達との関係に悩んだり」


奈緒子さんの表情が曇った。他人の痛みを自分のことのように感じることができる人なのだ。


「だから今度は、子どもたちのために使ってもらいたいんです」


私は奈緒子さんの話を聞きながら、彼女への想いがますます深くなっていくのを感じていた。美しいだけでなく、これほど優しい心を持った女性を、私は他に知らない。


でも同時に、その想いを心の奥に封じ込めることの辛さも、日に日に増していた。毎日向かいのデスクで仕事をする彼女を見ながら、何気ない会話を交わしながら、私は常に自分の気持ちと格闘していた。


先月、奈緒子さんは二度目のヘアドネーションをした。今度は前回よりもさらに短く、ベリーショートに近いスタイルになった。


「どうでしょうか?」


彼女は少し照れながら聞いた。


「とても、お似合いです」


私は正直な感想を伝えた。本当は「美しい」「愛している」と言いたかったが、当然そんなことは言えない。


「ありがとうございます。実は、美容師さんから『今度はもう少し短くしても、その分多くの髪を寄付できますよ』って提案されて。40センチ近く切ることができたんです」


奈緒子さんは嬉しそうだった。そんな彼女を見ていると、私は複雑な感情に襲われた。彼女の美しさと優しさに心を奪われる一方で、その想いを誰にも言えない孤独感に苛まれる。


「今度は、姉のためじゃなくて、純粋に誰かの役に立ちたいという気持ちでした。姉への思いもありますが、それ以上に、髪で悩んでいる人たちの力になりたいって」


そう言って微笑む奈緒子さんを見つめながら、私は自分の無力感を噛み締めていた。


ある日、奈緒子さんが少し元気がないように見えた。


「何かあったんですか?」


思わず声をかけると、彼女は小さく首を振った。


「いえ、大したことじゃないんです。ただ、主人が転勤になるかもしれなくて」


私の心臓が止まりそうになった。


「転勤ですか?」


「はい。まだ確定ではないんですが、もしかしたら来年の春に九州の方に」


私は何も言えなかった。奈緒子さんがいなくなってしまうかもしれない。でも、それは彼女の家庭の事情であり、私がどうこう言える立場ではない。


「でも、まだわからないですから」


奈緒子さんは私の動揺を察したのか、そう付け加えた。


その夜、私は一人で奈緒子さんのことを考えていた。もし彼女が本当に転勤してしまったら、私はこの想いをどうすればいいのだろう。言えないまま終わってしまうのだろうか。


でも、たとえ彼女がここにいたとしても、私には何もできない。奈緒子さんは既婚者で、私の想いは一方通行でしかない。


現在、奈緒子さんの転勤の話は立ち消えになった。彼女は相変わらず向かいのデスクに座り、三度目のヘアドネーションに向けて、再び髪を伸ばし始めている。


「今度は何か違う団体にしようかと思って。日本全国には、ヘアドネーションを受け付けている団体がいくつもあるんです」


奈緒子さんは相変わらず熱心だった。


「地域によって活動の特色が違うのも面白くて。子どもに特化したところ、大人も対象にしているところ、海外に送っているところもあるんです」


私は奈緒子さんの話を聞きながら、彼女の変化に気づいた。最初にヘアドネーションを始めた時は、姉を亡くした悲しみが大きかった。でも今は、純粋に社会貢献への情熱に変わっている。悲しみが、誰かを助けたいという前向きな力に変わったのだ。


そして、私の想いも変わった。最初は単純な恋愛感情だったが、今は奈緒子さんの幸せを心から願う気持ちが強くなっている。たとえ私と一緒になることはなくても、彼女が笑顔でいてくれるなら、それでいい。


「奈緒子さんの姉も、きっと喜んでいらっしゃいますね」


私がそう言うと、奈緒子さんは静かに頷いた。


「姉が教えてくれたんだと思います。どんなに小さなことでも、人の役に立てることの大切さを」


奈緒子さんのような心優しい人がいる限り、きっと誰かの明日は少しだけ明るくなる。そして、私にとっても、彼女の存在は毎日を明るくしてくれる。たとえこの想いが実らなくても、奈緒子さんのような人を愛することができたことを、私は誇りに思う。


オフィスの窓辺より射し込む午後の陽光が、奈緒子さんの髪を慈愛深く照らしていた。彼女の髪は以前よりも短いけれど、その輝きは従前よりもずっと美しく映えた。きっと、内なる魂より溢れ出る慈愛が、その光輝を創り出しているのであろう。


私たちは今日もまた、隣り合って職務に勤しんでいる。そして折に触れて、ヘアドネーションの話題に花を咲かせる。私は相変わらず奈緒子さんを愛慕している。しかし、その想いは胸の最も奥深い場所に大切に秘めて、彼女の幸福を静謐なる祈りとして見守り続けている。


愛することと、愛を告白することは別のものである。私は奈緒子さんを愛し続けるが、その想いを言葉にすることは決してない。それが、既婚者である彼女への、私なりの愛の表現なのだから。


髪という、誰もが等しく有するものが、これほどまでに大きな意味を孕むとは、三年前の私には想像すらできなかった。しかし今は、奈緒子さんが教えてくれた「ヘヤードネイション」という言葉が、私にとって特別な響きを有している。それは、私が奈緒子さんを愛するきっかけを与えてくれた、かけがえのない言葉なのだから。

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