第8話「静かなるうねり、そして牙」
泉の封印が解かれた日から、村に少しずつ、けれど確かな変化が訪れた。
湧き水を分け与えるようになった精霊の泉は、村人たちに必要なだけの水を供給し、リーナの設計でつくられた簡易の水路は畑を潤した。水と塩、そして知識――三つの柱を得た村は、かつての静けさのなかに、わずかな活気を取り戻し始めていた。
それは、まるで干上がった大地に最初の雨が降るような、小さな再生の始まりだった。
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「ミナト、こっち手伝ってー!」
畑で腰に手を当てて叫ぶリーナの声が、丘にまで届いた。
「はいはい、今行くって」
ミナトは木製の桶に泉の水を汲み、慎重に持ち上げながら歩き出した。少しの距離でも、重さと集中力が必要だったが、それでも――彼はどこか楽しそうだった。
その理由は、泉の水を運ぶたびに、自分の掌がほんのわずかに反応するからだ。
“水の気配”が、分かる。
目では見えない流れ、空気に溶け込む湿り気、それらが今のミナトには、確かに感じ取れた。
(少しずつだけど……異能ってやつ、育ってるのかもな)
泉の守人から与えられた“役割”。
それを完全に理解したわけではなかったが、今の彼には確かに、村のためにできることがあった。
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その夜、長老の家にて。
ミナトとリーナ、そして長老は地図を囲んでいた。描かれているのは、この地を中心とした、いくつかの街道と村の名前。そして、そこに書き込まれた幾本もの“×印”。
「……これは、かつて存在したが、すでに滅びた村々じゃ」
長老は地図を指でなぞりながら語った。
「共通しているのは、“水源が尽きた”という記録。そして……“塩が手に入らなかった”という話じゃ」
ミナトが目を細める。
「つまり……村だけじゃない。この世界全体が、ゆっくりと渇いてる?」
「うむ。かつて“海”があったという神話の断片は、今では迷信とされておる。だが、その神話に登場する“水を操る民”の記述……まさに、今のおぬしのような存在じゃな」
リーナが目を丸くする。
「えっ、ミナトが神話の中の……?」
「まさかとは思うが……そうだとしたら、これから先、おぬしを狙う者も現れるかもしれぬ」
長老の言葉に、部屋の空気が少し重くなる。
そのとき――外で「パン!」と乾いた音が鳴った。続けて、走り出すような足音と、村の若者の叫び声が聞こえた。
「村の入口に、人影が……っ!」
ミナトたちは一斉に立ち上がった。
長老が杖を手にし、リーナが腰のナイフを握る。
ミナトは深く息を吸い込み、自分の掌に意識を集中させた。
静かに脈打つ“水の気配”が、手のひらから肩へ、そして全身へと広がっていく。
――泉の力よ、導いてくれ。
外へ出ると、空気が変わっていた。どこか、張り詰めたような緊張感。リーナが眉をひそめる。
「……何か、起きてる?」
遠くから、駆け寄ってきた村人の少年が叫んだ。
「たいへんだ! 外に、よそ者がいる! 武器を持ってる!」
ミナトは一瞬で察した。旅の途中で見かけた、あの獣の皮をまとった影――。
「盗賊か……」
急ぎ広場へ出ると、村の出入り口で十数人の男たちが立ちふさがっていた。粗末な革鎧と刃こぼれした剣、強張った笑み――明らかにただの旅人ではない。
「よう、おとなしく差し出してくれや。塩も、水も」
リーダー格の男が、嘲笑を浮かべる。
「お前らには多すぎる贅沢品だろ?」
村人たちは怯え、後ずさる。リーナが一歩前に出ようとするのを、ミナトがそっと制した。
「ここは……俺に任せて」
ミナトは、精霊の泉の前で得た“感覚”に意識を集中する。
――水よ、応えてくれ。
掌を広げると、空気の中に漂っていた水分が微かに震えた。足元にあった小さな水瓶が、カタリと音を立てて揺れる。
「何を……?」
盗賊の男が目を細めた、その瞬間。
ミナトの掌から、しぶきのように水が弾けた。
「なっ……!」
水は細い刃のように伸び、男の足元を正確に撃ち抜く。大地に突き刺さった水の針が、乾いた音を立てて砕けた。
「これは……!」
「警告だ。それ以上、村に近づくな」
ミナトの声は静かだったが、そこにある“力”は明確だった。
「こいつ、ただの村人じゃねえ……!」
一人が叫び、慌てて引き下がろうとする。だがミナトは追わなかった。ただ、胸の内に確かな確信を抱いていた。
――これが、俺の“始まり”だ。
村人たちが一斉に息を吐き、リーナが微笑んだ。
「やっぱり、ミナトは……すごいよ」
ミナトは静かに頷いた。風が吹く。どこか遠く、海の香りがした気がした。