第7話「静かな波紋」
泉を満たしていた淡い光が、すうっと引いていく。
それとともに、精霊の守人の姿も、霧が晴れるようにかき消えた。
「……消えた、ね」
リーナが息をつめたまま呟く。
確かにそこにいたはずの人影は、もはやどこにも見えなかった。残されたのは、ただ静かに波打つ泉の水面だけ。
「幻じゃ……ないよな」
ミナトは泉のそばにしゃがみこみ、水面をそっと指先でなぞった。
――ひやりと冷たい。けれど、その奥には、確かな“ぬくもり”があった。
「……“対価は、海の記憶”か」
長老は泉に背を向けると、ゆっくりと古びた門のほうへ歩いていく。その背に、疲れのような重みがにじんでいた。
「なあ、長老。ひとつだけ、聞かせてくれ」
ミナトが後ろから声をかけた。
「さっき、“塩も水も知恵も外から来た風がもたらす”って言ってたよな。でも、あんた自身もそれを知ってたんじゃないのか? だったら、なぜ今まで……」
長老は立ち止まり、振り返ることなく答えた。
「……わしは、“信じること”ができなかったのじゃ。外から来た風が、この村に恵みをもたらす日が、本当に来るなどと」
その声には、悔いとも哀れみともつかぬ、深い感情がにじんでいた。
「だが……おぬしを見て、やっと思い出したのじゃ。信じるとは、与えられるものではなく、自ら選ぶものだとな」
ミナトは静かに目を閉じた。
その言葉の重みが、胸に沁みた。
「……ありがとう、長老」
振り返った長老の目元には、うっすらと光るものがあった。
だがそれをぬぐうことなく、彼は泉を見つめて言った。
「この村は、変わる。今度こそ、本当に。……だが、目覚めとは時に災いも呼ぶ。忘れるでないぞ、ミナト。この世界は、おぬしに“海”を求めている。だが同時に――その“海”を恐れている者たちも、確かに存在する」
不意に、空気が変わった。
泉の奥、閉ざされた岩壁のわずかな隙間から、冷たい風が吹き抜ける。
リーナが身体を震わせるようにして、ミナトの腕に寄り添った。
「……ねぇ、今の……」
「分かってる。なんか……来る」
ミナトはゆっくりと立ち上がった。
手のひらに刻まれた水の紋様が、じんわりと輝きを放ちはじめる。
――静かな波紋は、やがてうねりとなって、世界を動かし始める。