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205号室の人

作者: 泉田清

 202号室に住んでいる男は無職に違いない。

 203号室に住んでいるのが私だ。仕事の休みが不定期で土日が出勤の時もある。どの曜日でも昼夜問わず202号室から生活音が聞こえてくる。男は終日部屋にいる、仕事に就いていないのだ。顔は見たことがない。男の趣味はギターである。ポロン。主に昼過ぎから夕方にかけて練習している。ここ数年でずいぶん上達した。ポロン、ポロロン。時には歌声もある。昼間から呑気なことだ。声から男であると判明した。

 男の、このアパート住まいでの非常識な行動について、抗議の声があったようだ。ある日ポストに管理会社からの通知が入っていた。「アパートの住民から騒音等の苦情が寄せられています」と。声を上げたのは私ではない。201号室か102号室の住人だろう。静かになったのは最初の一週間だけだ。その後また、ポロン、ポロロン、である。


 204号室はない、205号室が隣だ。半年前から女が住んでいる。

 彼女が住み始めて間もなく、ポストに205号室の郵便が誤配達されていた。名前を見てドキリとした。別れた元・妻と同姓同名だった。もちろん元・妻であるはずがない。彼女がこの街にいるはずなど無いのだから。

 それでも、誤配達された郵便を205号室のポストに入れるのは緊張した。深夜、闇に紛れコソコソと、犯罪者のような気持ちで投函した。ドアには姓が掲げられていた。今時珍しい。それは間違いなく元・妻の姓であったし、生真面目そうな性格も元・妻ソックリである。まったく気味が悪かった。


 ピーローリー。石油ストーブのアラームがタンクが空だと告げる。パソコンの前で酒を飲んでいた。ベランダに置いてあるポリタンクから灯油を入れなければならない。ベランダを開けると冷たい風が入ってきた。三日月が冴え冴えと照っている。

 すぐ向かいもアパートで、窓にフライパンや泡だて器のシルエットがあった。自炊は何年もしていない。手動ポンプで灯油を入れる。ポンプを2、3回押すと灯油が無くなってしまった。これは困った。とりあえずポンプを引き抜こうとしたら、ガララッ!隣のベランダが開いた。ギクリとした。手先が狂ってしまい、ホースからダラダラ灯油が零れる。アッというのを堪え、灯油塗れになったタンクを部屋に入れ、音を立てないように戸を閉めた。

 未だ胸がドクドクいっている。いま開いたのは205号室だった。こんな夜中に。彼女も灯油を入れようとしたのか、換気のためか。いや、それより、私は彼女と顔を見合わせるのを、明らかに恐れた。仕方ない。誰であろうとアパートの住人と顔を突き合わせるのは億劫なものだ。事実、何年も住んでいてこのアパートの住人の顔を見たことがないし、名も姓も知らぬ。205号室以外は。


 さて。タンクには僅かな灯油しか残っていない、あと30分といったところ。まだ酒を飲みたい。それにはどうしても灯油がいる。

 ある大胆な考えが閃いた。205号室に行って灯油を貰ってくるのだ。こんな夜中に非常識ではあるが、205号室の住人が、まだ起きているのはベランダの件から分かっている。欲望がふくれあがる。元・妻と同姓同名の住人、彼女がどんな顔をしているのか今すぐ確かめないわけにはいかなくなった。

 ピンポン!ピンポン!空になったポリタンクを手に、205号室のインターフォンを2回押す。「どなたですか」少し間をおいて声がした。「隣の者です、灯油が無くなってしまって」、「あら、少し待ってください」。よし。どんな顔なのかついに明らかになる。同姓同名なんて珍しい事でも何でもない。元・妻が隣の部屋に住んでいるわけがない。元・妻は再婚相手をみつけ、性が変わり、幸せに暮らしているはずだ。

 少ししてドアが開いた。「大変でしたね」と、灯油の入ったポリタンクを持ってきてくれた。私は口をアングリとあけ何も言えなくなった。「どうかしましたか」彼女が怪訝そうに私の顔を覗き込む。元・妻にソックリな顔をして。言い知れぬ恐怖に、ガタガタ体が震え始めた。ソックリなんてものではない、元・妻そのものだ。それでいて私が誰なのか分かっていない。混乱してきた。恐怖と混乱で口の中に「何か」が湧いて、ますます口が利けなくなる。限界だ。たまらず「何か」を吐き出した。


 大量のツバがフローリングの床に吐き出された。すっかり冷え切った部屋で、床の上に丸くなっていた。飲み過ぎてしまい、いつの間にかそのまま寝てしまったのだ。

 目が覚めても恐怖と寒さでガタガタ震えていた。ストーブを点け、タオルで吐き出したツバをふき取る。大量だと思っていたツバはごく少量だった。枕元に置いた水を飲む。ポロン、202号室から呑気なギターが聞こえて来た。ようやく今のが夢だったいう実感が湧いた。それにしても、夜中に灯油を貰いに行く、などと言う非常識は今までに聞いたこともない。我ながら可笑しな夢だと苦笑した。カーテン越しに朝の光が差し込む、放射冷却でずいぶん寒い朝のようだ。

 朝一番でやらなくてならないことがある。スッカリ空になってしまった灯油を買いに行くのだ。ストーブのタンクだって---、今、ストーブは部屋を暖め、タンクは満タンを示している。一体いつ、満タンになったのだ?


 愕然とした。昨夜、205号室を訪ねたのは事実だというのか。ポロン、ポロロン、呑気なギターはいつまでも鳴り続けた。

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