第4話:「雨音のシンフォニー ~心が濡れる東屋で~」
梅雨の季節、藤葉学園は連日の雨に包まれていた。佐伯楓は図書室での勉強を終え、寮に戻る途中だった。
「あれ? 傘、忘れたな……」
楓は空を見上げ、しばし躊躇した。グレーの空からは、今にも雨が降り出しそうな気配が漂っている。彼は心の中で、自分の不注意を叱りつつ、雨脚が強くなる前に急いで戻ろうと決意し、歩き出したその時だった。
「楓くん?」
振り返ると、そこには月城遥が立っていた。彼女も同じく傘を持っていない。
「遥さん、傘、忘れちゃったの?」
「うん……油断してた」
二人は思わず苦笑いを交わした。その瞬間、空から大粒の雨滴が落ち始めた。
「まずいな……」
楓が周りを見回すと、近くに小さな東屋が見えた。
「あそこで雨宿りしよう」
楓が遥の手を取り、東屋まで走る。息を切らせながら到着した二人は、ようやく雨から逃れることができた。
「はぁ……危なかった」
楓が言うと、遥も頷いた。しかし、すぐに二人は現状に気づく。狭い東屋の中で、二人きり。しかも、楓はまだ遥の手を握ったままだった。
「あ、ごめん」
慌てて手を離す楓。その手のひらに残る遥の温もりに、楓は心臓が大きく跳ねるのを感じた。
「い、いいの」
遥も少し慌てた様子で答えた。その頬は、雨のせいだけではない赤みを帯びている。
狭い空間に二人の気まずい空気が満ちる。雨音だけが、その沈黙を埋めていた。楓は、この状況をどう打開すればいいのか、頭を悩ませていた。数学の難問を解くよりも、今のこの状況の方が、彼にとっては難しく感じられた。
「ねぇ、楓くん」
遥が静かに口を開いた。「雨って、好き?」
楓は少し考えてから答えた。
「うーん、あんまり好きじゃないかな。数学の本が濡れちゃうし」
遥は楓の答えに、くすりと笑った。その笑顔に、楓は心が和むのを感じる。
「楓くんらしいね。でも私は、雨が好きなの」
「どうして?」
「雨の音を聞いてると、色んな物語が浮かんでくるの。それに……」
遥は少し躊躇してから続けた。
「今みたいに、思わぬ出会いがあったりするから」
遥の言葉に、楓は心臓が少し早く鼓動するのを感じた。彼女の瞳に映る自分の姿に、楓は言いようのない感情を覚える。
「そう言えば、遥さんが書いてた詩にも雨の描写があったよね」
「覚えててくれたの?」
遥の目が輝いた。その輝きに、楓は思わず見とれてしまう。
「うん。『滴る雫に、君の名を見た』っていうフレーズが印象的だった」
楓の言葉に、遥は驚きと喜びの表情を浮かべた。
「楓くん……私の詩、ちゃんと覚えていてくれたんだ」
遥の瞳が潤んでいるのは、雨のせいだろうか。それとも……。楓は、その瞳に映る自分の姿に、不思議な高揚感を覚えた。
二人の間の空気が、少しずつ変わっていく。気まずさは消え、代わりに温かな親密さが芽生え始めていた。雨音が、二人の心の鼓動と重なり合う。
「ねぇ、楓くん。私、もっと詩が上手くなりたいの。でも、時々言葉が見つからなくて……」
遥の言葉に、楓は自分の悩みを重ね合わせた。数学の問題が解けないときの焦りと、きっと似ているのだろう。
「僕は詩のことはよく分からないけど……数学だって、最初は答えが出ないことがある。でも、諦めずに考え続けると、必ず道が開けるんだ」
楓の言葉に、遥は静かに頷いた。
「ありがとう、楓くん。そう言ってもらえると、勇気が出るわ」
二人は互いに微笑み合う。その笑顔に、これまで感じたことのない温かさを、二人とも感じていた。
やがて、雨も小降りになってきた。
「そろそろ戻ろうか」
楓が言うと、遥も頷いた。
東屋を出る前、二人は思わず同じ方向を見た。そこには、雨上がりの空に美しい虹がかかっていた。
「きれい……」
遥のつぶやきに、楓も同意した。その瞬間、二人の指先が触れ合う。しかし、今度は慌てて離すことはなかった。
この雨宿りの時間が、二人の関係に新しい色を加えたことは、まだ気づいていなかった。しかし、これからの日々が、虹のように輝かしいものになることを、二人の心は確かに感じ取っていた。
楓と遥は、小さな笑みを交わしながら、雨上がりの学園を歩き始めた。その背中には、新しい物語の始まりを告げるかのように、虹の光が優しく降り注いでいた。