第1話:「瞳に映る未来 ~図書室の窓辺で~」
藤葉学園の図書室は、いつも静寂に包まれていた。古い木の匂いと、幾重にも重ねられた知識の香りが、部屋中に漂っている。窓から差し込む午後の柔らかな光が、本棚の間を縫うように進み、机に座る少年の髪を優しく照らしていた。
佐伯楓は、数学の参考書に目を落としていた。彼の指先が、複雑な方程式をなぞるように動く。眉間にうっすらと皺を寄せ、真剣な眼差しで問題と向き合う姿は、まるで修行中の若き僧侶のようだった。
楓の心の中では、数式が踊っていた。複雑に絡み合う数字と記号の間を、彼の思考が軽やかに駆け抜けていく。この瞬間、彼にとって世界は数学だけで構成されているかのようだった。しかし、その集中を破る声が、静寂を切り裂いた。
「あの、すみません……」
突然の声に、楓は我に返った。顔を上げ、声の主を見つめる。そこには、月城遥が立っていた。長い黒髪が肩に優雅に流れ落ち、大きな瞳が不安そうに揺れている。彼女の手には、分厚い古典文学の本が抱えられていた。
楓は一瞬、言葉を失った。遥とは同じクラスだが、これまでほとんど言葉を交わしたことがない。彼女の存在を意識はしていたが、こんなに間近で話すのは初めてだった。楓の心臓が、普段よりも速く鼓動し始める。
「この席、空いてますか? 他に空いてる席がなくて……」
遥の声には、かすかな緊張が混ざっていた。楓は自分の動揺を隠すように、冷静を装って答えた。
「あ、ああ。どうぞ」
楓は慌てて隣の椅子を引いた。遥は小さく会釈し、静かに腰を下ろした。
二人の間に、なんともいえない気まずい沈黙が流れる。楓は再び数学の問題に目を落とそうとしたが、どうしても隣に座る遥が気になって集中できない。チラリと横目で見ると、遥も同じように落ち着かない様子で本のページをめくっている。
楓の頭の中では、数式と遥の姿が交錯していた。普段なら簡単に解けるはずの問題が、今は難解な暗号のように思える。彼は自分の動揺に戸惑いを覚えていた。
「……なに読んでるの?」
思わず口をついて出た言葉に、楓は自分でも驚いた。普段、こんなふうに見知らぬ相手に話しかけることはない。しかし、この瞬間、彼の中で何かが変わりつつあることを、楓自身も感じ取っていた。
遥は少し驚いた表情を浮かべたが、すぐに柔らかな微笑みを浮かべた。その笑顔に、楓は心臓が跳ねるのを感じる。
「ヘルマン・ヘッセの『デミアン』です。あなたは?」
楓は思わず息を呑んだ。遥が自分の名前を知っていることに、小さな喜びを覚える。同時に、自分が遥のことをほとんど知らないという事実に、わずかな罪悪感を抱いた。
「僕は……数学の問題集。来月の数学オリンピックの予選に向けて」
「すごいですね。そういうのは私には難しすぎて……」
遥は尊敬の眼差しで楓を見つめた。その視線に、楓は少し照れくさくなる。同時に、自分の狭い世界を恥じるような気持ちも芽生えた。
「いや、そんな。遥さんだって、すごいじゃないか。あんな難しい本を読んでるなんて」
遥の名前を呼んだ瞬間、楓は自分の心臓の鼓動が少し速くなったのを感じた。それは、単なる緊張だけではない。何か新しい感情が、彼の中で芽生え始めていることを、楓は薄々と感じ取っていた。
二人は互いに微笑み合い、それぞれの本に目を戻した。しかし、もはや内容に集中することはできない。時折、互いにチラリと視線を交わしては、慌てて目をそらす。その度に、二人の心の中で、小さな波紋が広がっていく。
図書室の窓から差し込む夕暮れの光が、二人の横顔を優しく照らしていた。まだ言葉にはできないが、この瞬間、二人の心の中で何かが芽生え始めていた。それは、まだ形のない、けれど確かな温かさだった。
やがて、図書室を閉める時間を告げるチャイムが鳴った。楓と遥は同時に顔を上げ、目が合う。二人とも、時間が経つのがこんなにも早く感じたのは初めてだった。
「じゃあ、また……」
「はい、また」
ぎこちない別れの言葉を交わし、二人は別々の方向へ歩き出す。しかし、数歩進んだところで、同時に振り返った。
その瞬間、二人の心に同じ思いが浮かんでいた。
((明日も、ここで会えたらいいな……))
その思いは、まだ漠然としたものだった。しかし、それは確実に、二人の人生に新しい色を加え始めていた。楓は数学以外の世界に目を向け始め、遥は自分の内なる感情と向き合い始めていた。
図書室の扉が閉まる音と共に、新しい物語の一ページが開かれたのだった。二人の心に芽生えた小さな感情は、やがて大きく育ち、二人の人生を大きく変えていくことになる。しかし、その時はまだ、誰も知る由もなかった。