15ー2 溢れそうな想い、膨らみ始めた想い。
無風の状態では鏡のように景色を映しこむ湖面は、今日は青空と時々流れる白い雲を映していた。
「きれい…」
湖面に伸びる桟橋の傍で馬を止めると、彼女はそう言ったきり絶句した。
森の爽やかな空気と、柔らかく降り注ぐ光、そしてどこからか聞こえる鳥の鳴き声が響くだけの林道は、物語で読んだ妖精の国へと続いていそうな幻想的な光景だった。
湖岸の東屋まで彼女を連れてくると、共にベンチに腰掛ける。
彼女の目線はずっと湖を追っていた。
「物語の世界でも語り切れない美しさが外にはあるんですね」
景色に圧倒されつい「外には」と不思議な単語を入れてしまったが、彼女はそんなことにも気づかないほど見惚れていた。
「綺麗だな」
ルートヴィッヒは湖を背景にした彼女の横顔を見てそう言ったが、レジーナはそんなことに気づかず「はい」と同意した。
急に風が吹いて、湖面が揺れると鏡の世界は消えてしまった。
僅かな力で消えてしまった美しい光景は、自分の未来を暗喩している気になってしまう。
ルートヴィッヒとのこの穏やかな時間が続けばいいと思うのに、そうならないことなどわかりきっている。
波紋が広がる湖面のように、彼女にも悲しい気持ちが広がった。
「どうした?なぜ悲しい顔をする?」
「いえ…なんとなく、もうルト様ともお別れなのかなって思ってしまって」
ルートヴィッヒは俯いてしまったレジーナの隣に移動すると、「不安か?」と聞いてきた。
彼女はルートヴィッヒの顔を少しだけ見つめると、素直に「寂しいです」と答えた。
彼はそれに返答する代わりに、そっと肩を抱き寄せてきた。
この距離感は嫌ではない。むしろ触れ合う温もりは彼の優しさが伝わって来て安心する。
だけどすんなり安心感で埋められない理由があった。
これはきっと、婚約者がいる人が取っていい距離ではない。
もし自分がルートヴィッヒの婚約者で、知らない所で姉の肩を抱き寄せていたと知ったら、きっと嫉妬でどうにかなってしまう。
物語の中でこういう嫉妬心を抱くのは相手に恋をしている人物だった。
自分は、決して実るわけない相手に恋をしているのだろうか。
せめて、せめて相手があの姉でなければ納得がいったのかもしれない。
それか、姉が“癒しの天使”と世間から言われるのと同じ美しい心を持っていれば。
「どうして婚約者がいるのに」
気づけば無意識に心の声を零していた。
言ってからはっとして彼を見るが、もう遅い。
「婚約者?」
なぜか彼は不思議な顔をしていた。
自分は婚約者の存在で苦悶しているのに、彼の意味が分からなそうな表情は堪えていた彼女の気持ちを溢れさせた。
「ルト様には…ルートヴィッヒ殿下には婚約者がいらっしゃるではないですか。2年前、姉が嬉しそうにそう言って!」
「ジーナ?」
「旅が終わればやがて姉と結婚するのに、今だけの優しさを私に向けないで下さい!」
姉と言ってしまったことにも気づかず、彼女は潤んだ瞳のまま叫ぶように言った。
唇をきゅっと結ぶ彼女を見て、ルートヴィッヒは正面に座り直した。
逃げようとする彼女の肩を押さえ、しっかりとその目を合わせる。
「ジーナ、俺に婚約者はいない」
「え…?でも…え?」
「俺にいるのは婚約者“候補”だ」
レジーナは首をひねる。
候補が付くのと付かないのでは何か違いがあるのだろうか。
それに、だとしたら姉はなぜ婚約者と言い切ったのか。
「婚約者と婚約者候補はまるで違う。候補はあくまで候補。旅立ちの儀で2年社交界から遠のく王子が戻ってから慌てることがないよう、相手に“その可能性がある”と伝えるだけだ。全員解消してもなんの問題もないし、契約の拘束力もない」
「全員…?たくさんいるのですか?」
「そうだ。主に良家の適齢期の女性から選ばれ、俺の場合は10人いる。誰も相手が決まらなければ候補者から選ぶこともあるが、父のように自分で選んだ女性と結婚することも多い。俺も候補者から選ぼうとは思っていない」
「でも…ならなぜ姉は」
「君に自慢したかっただけじゃないか?候補とは言え選ばれることを名誉と思う家や令嬢もいる。旅立ちまでの間、やたら王宮に押しかけアピールする令嬢もいるからな。君の姉、マリアンネ・フォン・ゼーレンベルクのように」
レジーナが姉のフルネームを言われルートヴィッヒを凝視した。
そうだ、自分は“姉”と言ったのだ。
でもだからといって、どうしてすぐにマリアンネを言い当てたのか。
「すまないジーナ…最初から知っていたのは性別だけじゃない。君がレジーナ・フォン・ゼーレンベルクであることも知っていたんだ」
「最初から…あの街で門番に怪しまれた時からですか!?」
「いや、もう少し前。君が脱走するその日、俺は君の屋敷にいたんだ」
レジーナは脱走した日を思い出す。
あの日、レジーナの見える範囲でもいつもと違うことが1つだけあった。
「騎士…騎士団の練習があの日長引いて…」
「俺がわざと長引かせた。あの屋敷に幽閉されている令嬢がいると気づいたから。でもまさか飛び降りるとは思わなかった。今ならいざ知らず、まだあの時は翼がなかっただろう?」
「そんなことまでご存知で!?」
ルートヴィッヒは腕を伸ばし、レジーナの頬に触れると「痛かったろう?」と聞いた。
「痛かった…です…。プレッツェルがたくさん守ってくれたから怪我はなかったけど、息ができなくて…でも見張りが来るといけないから、早くどこかに移動しないとって…」
そこでレジーナははたと気づいた。
脱走も知っているのなら、街で彼と出会ったのは偶然ではないはず。
「もしかして、最初から私を追いかけて来てくださったのですか?」
「そうだ。もし幽閉が真実なら、君を保護する必要があると思ったから。本当はどこかでしかるべき相手に預けようと思っていたのだが、結局俺自身が一緒に旅を楽しんでしまった」
「私も楽しかったです…薄れた子供の頃の記憶なんかよりずっと世界が広くて、楽しくて…でもきっと最初に出会ったのがルト様だったから輝いて見えたんです」
いつの間にか潤んでいた瞳は乾き、レジーナは最初に彼に抱いた憧れの眼差しを向け続けた。
「そうじゃなかったら私、きっとあの門番のところで家に戻されていたと思います。そこでずっと世界を羨み、憧れ、憎んだのだと思います…私に世界を教えてくれたのはルト様です」
頬に伸ばされていた手は、今度は力強くレジーナを抱き寄せた。ぶつかるようにルートヴィッヒの胸に引き寄せられた彼女が身を固くすると、頭上から笑い声が漏れた。
「婚約者はいないのだし、こうしても問題はないだろう?」
「…はい…いえ、あります、困ります。多分これは適切な男女の距離じゃないと思います」
腕の中のレジーナが恥ずかしそうに身をよじるのが可愛くて、もっと力を込めた。
この勢いのまま、レジーナに気持ちを告げたくなる。
自分の婚約者の席は空白であり、願わくばレジーナにその席に収まって欲しいことを。
でもそうはいかない。
少しだけ腕の力を緩めると、これからのことを話した。
「ジーナ。このまま聞いてくれ。俺は明日にはもう旅に戻らねばならない。そして君をそこに連れて行くことはできない」
「わかって…います」
震える声に、彼はそっと上を向かせ目線を合わせた。
「だが君をここで放置するわけじゃない。俺には君を巣立たせる責任があると言った。その責任を伯母上が引き継ぐ」
せっかく乾いた目が、別れを意識した途端涙を溜め始めた。それでもルートヴィッヒの目を見上げて続きを聞いた。
「君に必要な教育を伯母上が施してくれる。だがそんな気がないのなら断っていい。実家に戻りたくないのならそう言えばきっと身の振り方を考えてくれる。だが出来れば俺は君に受けて欲しいと思ってる。その方が、先にある可能性が広がるからだ」
「可能性?」
「何者かになれる可能性だ。君のやりたいこと、目指すもの、そういったものの幅が広がる。いつか見た空のように」
「私でも掴めるものがありますか?」
「君の手だけで掴まなくていい。だが掴みたいのなら、それを手助けしてくれる手を取ればより多くのものに届く。伯母上や…俺もそうだ」
ルートヴィッヒは1度彼女を離すと、再びベンチに座らせた。腰を抱き寄せて密着して座っても、もう彼女が嫌がることはなかった。
「最後まで傍にいれなかったことは詫びる。かっこつけておきながら、そこはまだ子供だと伯母上に叱られてしまった」
レジーナがくすっと笑ってルートヴィッヒを見上げた。
「本当に叱られるんですね」
「ああそうだ。流石に隠れて泣くことはないがな」
「じゃあ泣きたくなったら、私がお慰めいたしますね」
「へえ。…どうやって?」
急にルートヴィッヒの声が低くなった気がして、レジーナはドキッとする。空気感が変わってしまいそうなことに慌てた彼女は、急いで誤魔化した。
「えっと…泣いてからのお楽しみです」
「泣くことを楽しみにするのか。すごい矛盾だな」
レジーナが自分の不思議な発言に気づくと、声を上げて2人で笑った。
気づけば湖面はまた静かになり、太陽の光を反射していた。
「ルト様、私勉強を頑張ります。いつかルト様に言ったように、10年を取り戻すつもりで学びます」
「簡単ではないが、君は飲み込みが早い。案外、俺よりずっと楽に吸収してしまうんじゃないかと思うぞ」
「まだ何になりたいとかはわかりませんけど、カタリナ様のご厚意に甘えて見つけたいです」
「ああ、そうするといい。そしていつか…」
いつか、俺の隣に来てくれないだろうか。
その言葉は飲み込み、「夢を見つけるといい」と続けた。
「さあ、そろそろ戻ろう。君もまだ本調子ではないだろう。後は伯母上から詳しく話を聞いてくれ。どこにいても、君を応援している…」
「ありがとうございます……ルト様…?」
立ち上がり馬に向かうと思ったのに、なぜかルートヴィッヒはじっとレジーナを見つめた。右手が頬に伸び、そのまま親指で唇をなぞる。
何を求められているのか全くわからなかったわけじゃないが、芽生えたての恋心のレジーナには応えられなかった。
すっと一度だけ撫でた親指はすぐ離れると、彼はそっとレジーナの手を取り歩き出した。
共に乗った馬の上で、彼女はずっと胸の高鳴りを抑えられずにいた。
次回…「旅路、再び」
旅支度を整えるルートヴィッヒは、庭で伯母と話すレジーナに群がる兵士を目撃する。
可憐な彼女に話しかける彼らに、言いようのない嫉妬心を抱くルートヴィッヒ。
翌日早朝、まだ眠るレジーナに別れを告げることなく旅立ってしまい…




