希望(後編)
百人一首の河原左大臣(彼が源融です!)の歌を引用しています。
陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに乱れそめにし われならなくに
に出てくる【しのぶもぢずり】について補足。
「しのぶ(信夫)もぢずり」とは、現在の福島県信夫地方で作られていた、乱れ模様の摺り衣のこと。忍草の汁を、模様のある石の上にかぶせた布に擦りつけて染色したそうです。
そんな意匠の狩衣を希は愛用していた、ということで。
「望……、お前は愛を知らない」
希の口から出てきた言葉は望には全くの予想外で、耳朶が拒絶しそうになった。お返しにと皮肉たっぷりに答えた。
「お前の得意な欲望ってヤツなら、知らなくても構わん」
「違う……情熱ってヤツだ……」
ジョウネツ?
望には聞き慣れない言葉だった。
「情動、情愛、ジョウネツ、か、みんな欲望の仲間だろう」
「違う」
普段は饒舌な希が今日は単語で話すのが、望には訝しくてたまらない。
「ご丁寧にもわざわざ私に化けて一夜を共にするなど、欲望以外の何物でもなかろう?」
「お前のフリをしたのは、橋姫を謀るためじゃない……」
「は?」
望は隣の男の際立った横顔をまざまざと眺めてしまった。
「じゃあ、なぜ?」
「貴重な逢瀬の時間を家人に邪魔されないため」
「なに?」
望の頭は理解が付いていかない。
「橋姫の女房や私が付けた侍従などのことか?」
「そうだな……」
希は濁流から目を離さずに続けた。
「お前は橋姫がなぜ死んだと思っているんだ?」
「無体なことをされたからだ。時代の寵児といい気になってるバカな宮様にな」
「その程度か……」
望の内にムラムラと殺意が湧いた。
「私を虚仮にしたいならいくらでもするがいい。だが橋姫を貶めることは許さん!」
「どうして俺が橋姫を貶める? 愛していたと云っただろう?」
「お前の愛とやらは信じられんと云ってるんだ」
希は怒ったというより脱力して、ため息混じりに、見えもしない川の向こう岸を見やった。
「橋姫も、そう云っていたよ……」
「何だって?」
「お前の奥さんは、お前の愛が信じがたいと云っていたんだ」
「いい加減なことを云うな、私は彼女を屋敷に迎える準備に忙しくしていたんだ、文のやり取りは頻繁で、妻も分かってくれていた!」
「体裁を整え、世間に認めさせ、俺に奪われないために入念に、だろう?」
今度は希のほうが皮肉に満ちた声音だ。
望は応酬する。
「橋姫が大切だからこそ、念を入れた!」
「自分のためだろう?」
望は「気でも違ったのか?」と希を見据える。
「屋敷も局も前栽も調度も桐箱を重ねるほどの衣装も要らない。望さまがそんなものに腐心するのは私の身分が低いため……と橋姫は云っていた」
「バカな! 何を根拠に?!」
「大君……、お前が愛したのは大君であって橋姫ではない」
望の顔から血の気が引いた。
「大君は私の腕の中で身罷られた」
「そうだ、お前はよく似た橋姫を身代わりにしようとしただけだ」
「そんなことはないっ!」
希は川岸の柳の木のように、望の荒い語気を受け流す。
「大君の異母妹である橋姫は、父は同じでも母親の身分が低いから自分には至らないところが多く、望さまをがっかりさせてばかりだと零していた」
「……」
黙ってしまった望に希は追い打ちをかける。
「お前は結局、欲しかった大君が手に入らず先立たれ、身代わりにしようとした橋姫も失い、自分が可哀想なだけなんだ」
「好きになった女ふたりに先立たれたら、自分を憐れに思ってもいいじゃないか!」
「お前の自己憐憫は自信の無さから来ている。もういい大人だろうに、実の親が誰かとか、母に愛されてないのでは、とかで閉じ籠るのはやめろ。形を整えて愛されるのを待つのではなく、傷つくのを覚悟で自分から愛してみろよ」
図星を突かれた望にできることは、未確認の噂であっても、それを使ってわめき返すだけだった。
「な、なぜお前に、そんなことまで言われなきゃならない? 橋姫はお前が殺した、お前が遊び相手にしたんだろうがっ」
「違うな」
「お前にとってはたくさんの相手のひとり、その他大勢のひとりじゃないか!」
希はほんの少し皇子様風を吹かせた。
「立場上、あてがわれる女もあれば、慰めようと思う女もいる。だがな、橋姫と俺には分かり合えるところがあった」
「私と妻が分かり合えてなかったように云うな!」
「なかっただろう? その証拠が、これだ」
希は懐から一通の文を取り出した。
「読むか? 見たくなければ見なくてもいい……」
「は? 何だというんだ? 妻の遺書でも見つけたとでもいうのか?」
希は悲し気に肩を落とす。
「見つけたのではない、送られてきたのだ。橋姫は、最期に、母親と俺に手紙を書いた」
「バカな! なぜ私じゃない? なぜ夫の私でなくお前宛なんだ?!」
「そういうことなんだよ、望」
「妻は、お前に心を移していたというのか?!」
望は崩れ落ちるように自分の体重を橋の欄干に支えた。
「浮気だの、不倫だのというつもりなのか?」
「そうじゃないか、妻は私の気持ちを踏みにじって、お前に身体も心も預けたのだろう……」
望は両手で頭を抱え、欄干に両肘をついて震えた。
「だから、その程度かというんだ……可哀想なのは自分だろう?」
希の言葉は、情け容赦がない。
「裏切られたほうが可哀想で当然だ……」
それに引き換え、望の声は弱弱しく、水音にかき消されそうだ。
「だからお前の愛はその程度だというんだ。自分に雁字搦めで、相手が求めるものも知ろうとせず、自分の愛を相手に届けようともしない」
「届けるって……」
「橋姫は立派な牛車や調度の行列で都を練り歩き、源望の正妻だと認められたかったんじゃない。こんな秋の夜長に独り寝は辛い、傍に居させてくれとお前が馬で駆けてくることを望んだ。夫婦と呼ばれるなら求めあう関係でいたかった。お前の心の内側を見せてほしかったんだ。そして、自分の立ち居振る舞いの向こうに、他の女の面影を探すのはやめてほしかった……」
欄干の上に突っ伏した望の背中に、希は次々へと言葉を落とす。
「お前にはお前の悩みがある。それは誰でもいろいろだ。俺にだって云ってはないだけで悩みくらいある。でもそれにかかずらわって、自分のほうを向いてくれている相手の視線を外そうとは思わない。自分の悩みを言い訳に閉じ籠るのも躱すのも、俺は違うなって思ってる。それが、この手紙が俺宛だった理由だと思う……」
望は顔を上げて、希の指の間から書状を引き抜いた。開くと見慣れた妻の水茎が上から下へと優しく流れる。
「桐箱の柾目正しく望むにも信夫もぢずり狩衣の宮 橋」
「もちろん元歌になってるのは俺の祖父さんでお前の父親、融のあの歌、陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにしわれならなくに」
「私が用意している美しい着物の入った桐箱の木目のように正しくありたいのに、信夫もぢずりの狩衣で駆けてくる宮さまに乱される心を隠しています、といったような意味か?」
「そうだ。橋姫はな、俺を閨には入れてくれなかった。俺がどれだけ心惹かれても、御簾越しに話し楽を奏でただけ。そして死んだ後になって、こんな歌を届けさせて……」
今度は希の声が涙に崩れた。
「云ってくれれば、御簾の端をふわりとでも揺らしてくれたら、俺は、俺は……」
希は直立不動で遠くの水面を眺めながら、頬を濡らしていた。
望は茫然と呟く。
「生きてくれたらよかったのに。そして私に人の愛し方を教えてくれたら……」
希も嗚咽の間に囁いた。
「愛させて……くれたら……よかったのに……そうしたら、生きる……道も……探せただろうに……」
宇治川は男たちの涙を何粒も集めて、昏く遠く、流れ続けていた。
-了-




