希望(前編)
源望は篝火が照らし出す、橋の下の昏い流れを見ていた。愛しいと思った女が身を投げた濁流を。
遺体を探しに来たのではない、故人を偲びたいわけでもなかった。望の心は宙ぶらりんで、そのくせ遺された傷は、あまりにも生々しかったから。
――できることなら一年くらいは、ただ黙して服喪したかった。
それが望の正直な思いだ。上弦の月も沈んでしまった漆黒の闇夜に、絶えず恨み言を響かせる水音が忌まわしい。
望の胸元には幼い頃は兄とも慕っていた男からの呼び出し状が入っている。
今上帝に嫁いだ姉の息子、血筋でいけば甥だが一つ年上、地位も性格も敵わない希宮からの。
――子どものころから何も変わらない。引っ掻き回され奪われ、寝とられたわけだ。
希には、木に登らされたり、氷室に閉じ込められたり、庭の築山を滑らされたり、池で舟を漕がされたり。
希は内向的な望とは違って生来陽気な性格で、幼いころから微笑むだけで周囲の大人たちを蕩けさせた。
自分と似たような名前を持ちながら、
「願って手に入らなかったものは今までないからな」
などと宣う姿が憎たらしい。
――正真正銘の皇子様なのだからそういうもんだろう?
巷では希宮と望ふたりを当代きっての伊達男と褒めそやし、どちらがよりいい男か、希派、望派、喧しく意見を戦わせている。
どちらかと一夜でも共にできたら「今をときめく女性たち」の仲間入り。
そんな女の戦いを喜んでいるのは手の早い希宮だけだ。
望が幼い頃感じていた彼に対する信頼や憧れは、今では「距離を置きたい」という言葉に代わり果てている。
そして今回の事件。
希宮は望の妻に手を出した。
わざわざ望そっくりの装束と香をあつらえ、望に成りすましたらしい。騙されて身を許してしまった妻は罪に堪えかねて入水自殺。
――お前のものは俺のもの。
そんな傲慢さを漂わせる希に望はもう耐えられそうにない。
心に闇が広がっていく。いくら流そうとしても自分を飲みこみ窒息させるこの黒い川のように。
「何てことをしてくれたんだ!」と罵りたいのは望のほうだ。
手を上げないように、報復しないように希宮の顔を見ないようにしていたというのに、わざわざ手紙で入水現場、人里離れた川岸に呼び出すとは。
案の定、希は自分で指定した刻限に遅れている。
望は待ってしまうのが我ながら愚かしいと感じながらも、いつもの物思いに浸っていた。
望は自分の名前が嫌いだ。望むだけで何も手に入らないと突きつけられている気がして。
風流人で鳴らした父親が選んだ文字だとも思えない。
自分は父の胤ではないのではと心に燻る疑念と相まって、「望むのは自由だが、おまえには何もやらん」と聞こえてしまう。
一番上の兄の名は湛、なみなみと栄耀栄華みなぎる。すぐ上の兄でさえ昇、違いはあからさまだ。
とは言っても、その父自身の名が一番危うい。
「源融」、かなり前の天皇様の12番目の皇子だが、融けて流れるなんて、望まれて生まれてきたのかどうだか。
いや、融通が利くというわけか。
皆が権勢を持たんとしのぎを削る宮廷で、望の父は悠々と出世し、現在の中納言の位から末は大臣だろうと言われている。
父が都に持つ屋敷、六条河原院は趣向を凝らした広い庭で有名だが、望はそこで大した期待もされずに成長した。
――庭で一人遊びか、手習いか。
父も母も年の離れた兄姉も構ってくれないから、望は手習いに勤しんでしまい、乳母や侍従、父が形ばかりに手配した和歌や楽器などの師匠の教えを瞬く間に吸収した。
元服するや否や、「望さまはもののあはれを識るお方」などと噂がたったが何のことはない、庭の季節の移り変わりの中にわが身を置いて、自分としては満ち足りて、外から見れば引きこもり状態でいたにすぎない。
望の世界を乱すのは、姉の宿下がりに同行して来て長逗留する希宮たったひとりだった。
望は長じてからも自分を煩わせる唯一の男を、寒さが沁みてくる秋の夜に橋上で待っている。
「恨み言聞くも聞かぬも人の道流れに落つる涙一粒 希」
涙一粒とは情けない、と望は亡くなった妻・橋姫を想った。男同士の確執の板挟みになって命を落とした憐れな女。
一人で悩まずとも、何が起こったのか話してくれればよかった。騙されたのだ、浮気とは違う。
「おそらく、赦してやることができただろうに……」
望はその一点が口惜しくてならない。
希にとって望は暇つぶしの競争相手、足蹴にして楽しむ者、貶めて自分をよりよく見せようとするだけ。
そんなことをせずとも、希はおのずと光り輝いているというのに。
父、源融が若い頃はさんざん浮名を流し、宮廷中の姫や女官が彼の寵愛を得ようと目の色を変えた。
そういう男が反面教師になったのか、息子の望は静かで内省的、大切な人ひとりを大切にしたい。
融の孫にあたる希は、望よりよほど父に似ている。
「やはり煌びやかな希さまが……」
「いえ、誠実なのは望さま……」
女どもの噂話は絶えない。
当事者の望としては自分のことなどどうでもいい。
陽気で手の早い希が自分の見初めた女にちょっかいをかけないか、そればかりに腐心していたのだ。
足音に気付かぬうちに、望は後ろから声をかけられた。
「来るには来たんだな」
「呼び出しておいて待たせるとは……」
馬を速駆けさせてきたのだろう、狩衣に指貫、草鞋という軽装だ。
希は宮様でありながらこのように身軽に、夜な夜な女を漁るのだろう。
「子どもの頃のように六条に籠って泣いているのかと思った」
希の声は久々に聞くと思ったより低く感じた。
「お前は泣くようなことはなかろうがな」
望は苦々しく言ってのける。
「泣くのは大抵、自分が可哀想だからだ」
「何だと?! 可哀想なのは橋姫じゃないかっ!」
性分に合わない声を、望は上げた。希は肩を竦めただけ。
望は畳みかけた。
「どうしてあんなことができるんだ? 私の妻になぜ?!」
「愛したからだ……」
「気まぐれにな」
望は嫌悪と軽蔑にねじ曲がった表情を直すつもりもなく希に向けた。
「違う」
「言い訳してみろよ、何を思って私の妻の閨に忍び込んだのか」
気まぐれ、望への競争心、自己満足、どうせそのような言葉しか希の口からは出てきはしないだろうに、望は希を煽った。
「……」
ほら、何も言えやしない、と望は鼻白んだ。
こんな所にまで望を呼び出し、希という男はいったい何がしたいんだろう?
「お前の愛は愛じゃない。軽すぎる、薄っぺらだ」
望が非難しても希は、橋姫を死に追いやった弁解を始めもせずに、橋の下の黒い川に目を落とす。
「望……」
丸々一人分の余裕を開けて、望は希の横に立った。
「お前は愛を知らない」




