プロローグ『リバース』
最悪な事に初っ端から寝坊。今日久々に講義を受けるはずだった俺は、人混みの中で揉まれていた。
昼夜が逆転していたせいか眠気が酷い。夏季休暇で乱れきった生活習慣を戻すには、もうしばらく時間がかかるだろう。
スマホを見れば授業開始五分前。そして出席不可時間まで残り二十分。既に遅刻は確定だろうが、欠席には多分ならないだろう。
「ふぁ〜、にしても眠い……」
そんな呑気なことを言いながらガムで睡魔を誤魔化して、人混みに流されつつ交差点を進んでいく。
そう、それはあまりにも唐突だった。
まずはじめに、脳を震わせる程の振動音。
何かが爆ぜるその音は、まさしく終わりのはじまりだった。
「な、嘘だろ……」
音の方向に目を向ければ、階層ごと砕かれた無数の高層ビル達。
何百もの瓦礫が轟音を響かせながら、こちらに向かって崩れ落ちて来る。
──それはまるで、流れ星の様だった。
「──っ、逃げな」
その瞬間何かが身体に直撃し、俺の下半身を押し潰した。
無論上半身も無事ではない。いくつもの破片が突き刺さり、血液が零れ出している。
頭だけは直撃を免れたが、それはもはや幸いとは言い難いだろう。
肉が裂かれて骨は粉々、身体は少しも動かない。肺は潰され呼吸もできず、ヒューヒューという音だけが微かに聞き取れる。
……俺、死ぬのか。
それは嫌、だな。
もはや思考はままならない。段々と熱が、俺が失われていく。視界が狭く、黒くなっていく。
それは人生の終わり、──即ち『死』を意味する暗転だった。
*****
全身を包む激痛から解放されると共に、襲いかかるとてつもない喪失感。俺の内側を蛇のように這いずり、ただ俺を蝕んでいく。
それは寒気であり、恐怖であり、また痛みだった。同じ"痛み"というジャンルではあるが、全身を潰される痛みよりもこちらの方が余程耐え難い。
それは今での全てを否定されるかのような感覚。魂に重くのしかかる、一種の呪いのような物だった。
(……ここは?)
黒くて暗くて冷たい。ただ闇のみで満ちた場所。そんな空間に俺はいる。
目を凝らそうとも、耳を澄ませようとも、そこからは何の反応も帰ってこない。
(俺、死んだのか?)
いや、恐らく違うだろう。もし死んでいるならば、俺に自我があるのはおかしい。
なら俺はまだ死んでいないはずだ。
きっとあれは夢だ。寝不足だった俺の見た悪い夢だったのだ。
だって子が親より先に死ぬだなんて、そんな親不孝があっていいはずがない。
両親だけじゃない。兄弟だって友人達だって、きっと俺が死ねば悲しむだろう。
だから生きていたい。
こんな所で終わりたくない。
だから頼むから何らかの奇跡で助かったりしてないだろうか。
*****
俺がここに来てから、一体どれほどの時間がたったのだろう。
もう随分とここに居る気がするし、まだそこまで長く居ない気もする。
もう何も感じなくなってきた俺だが、そんな俺にもまだ一つだけ分かったことがある。
ここには何も存在しない。死の後に残る物は無く、ただ終焉として在り続ける。
だが、物事の終わりははじまりでもあり、故に唐突に訪れた。
目の前が白、いや光に変わった。
眩いそれに目を凝らし、久々に見る色彩に目を慣らす。
時間と共に世界が開け、段々とそれは輪郭を帯びていく。
(病院じゃ、ないか……)
分かっていた。あの状況で助かるはずがない。
だがそうと分かってはいたはずでも、やはり気落ちはしてしまう。
(となると天国、或いは地獄か?)
そんな俺の予想とは裏腹に、見えたのは意味不明な光景。
全く持って知らない部屋の中に俺は居た。
その部屋はまるで屋敷といった風体で、複数の調度品に備え付けられた暖炉。少々古臭くはあるが、金持ちの家に違いない。
部屋にいるのは三人、いや四人。
だが生憎として誰一人として見知った顔はない。俺に外国人の知り合いなど居ないのだから当たり前だ。
ベットの上に金髪の女、その横に茶髪の男。この二人は恐らく俺と同年代、二十代前半だろうか。
男の後ろにはこの二人の子供なのだろう。二、三歳ぐらいの少女がいて、興味津々といった様子で覗いている。
そして最後に、中年の赤毛女。この人は俺より確実に歳上だ。
そして彼女だけが質素な服を着ている。こう言っちゃ何だが、その差は主人と従者のようにしか見えない。
そして驚くべきことに、俺は彼女に持ち上げられていた。
(意味が分からない……。やはり幻覚か?)
皆が皆整った容姿で、まるで絵本の中のようだ。西洋風の服装や部屋も相まって余計にそう感じてしまう。
だがそんな光景に似合わず、聞こえるのは喧しい赤子の泣き声。
普段なら赤子相手にそう思う事は無いだろうに、俺は何故だかそれに苛立ちを覚えていた。
「……ぁ、きゃぁああああ!!!」
耳元に響くは絶叫。
赤毛の女性が唐突に叫び、俺は浮遊感に包まれる。俺は彼女の手から滑り落ちたのだ。
(っ、また死ぬのか──)
経験があるからだろうか。この現象が死に繋がる物だと、俺は直感で感じ取った。
「────!」
死の気配を感じ取った俺だったが、落下は地面スレスレで止まる。
若い茶髪の男、恐らく父親であろうその男が、ギリギリで俺を受け止めたのだ。
(し、死ぬかと思った……)
ホッとした気持ちと共に見上げれば、同じくホッとした様子の彼と目が合う。
だがその瞬間、彼の表情は色を失った。それはまるでこの世の終わりかのような表情。
そして事態は動きだす。
「───!! ─────────!」
俺を放り出した女性が何か訴えるように叫んでいる。
それは先程の男のそれと同じように、全く知らない言語だった。
(何だ? 何なんだこの空気感……)
それが発された瞬間、部屋中に不穏な空気が漂いはじめる。
その場のほぼ全員の表情に影が落ち、状況を掴めていないのは俺と恐らく姉であろう少女のみ。
こちらの困惑を他所に、知らない言葉で始まった口論。
言葉の意味は全く分からないが、母親らしき女性が父親らしき男性にたしなめられている形だろう。
(何なんだよコレ……)
状況が全く掴めないが、空気感から良い事が起こるはずも無いことは母親だろう女性に抱えられたままの俺にも予感できていた。
*****
恐らくそのまま寝てしまったのだろう。その後の事は正直あまり覚えていない。
気づけば夜になっていて、見知らぬ森の中に俺はいた。
見えるのは鬱蒼とした木々と満天の星空。そして、見知った物よりも巨大な月。
それはまさしく大自然といった様相で、人の気配はひとつも感じられない。
何もかもがあやふやで、だが脳裏にはよく分からない断片的な記憶がある。
馬と牛の中間のような生き物に、上下に揺れ流れゆく視界、蹄と地面の打突音、そして俺を置いて立ち去る父親の後ろ姿。
(何だよ、それ。意味わかんない……)
いや、理解はしている。
俺はいわゆる"異世界転生"をしたのだ。
前後色々端折ってはいるが、端的に言ってしまえばこうなるだろう。
だが逆に言えば、俺はこれぐらいしか分かっていない。
この森も、この世界も。ここが何処なのかも分からない。
なんの説明もなく唐突だった。だから何故転生したのかも分からない。
自分についての事だって、この身体が、今の俺が、どこの誰なのかすらも分からない。
そう。俺には何一つ分かっていないのだ。
だがそんな俺にも一つだけ言えることがある。
なはりこれは悪夢だ。現実じゃない。
これが、こんな物が、現実であっていいはずが無いのだ。
"死んで生まれ変わった"だなんて、しかもそれが異世界だなんて、まるで空想の産物じゃないか。
あぁ確か、最近読んだ小説も大体こんな感じだった気がする。唐突に死んで、転生して、神様に貰ったチート能力で無双するのだ。
対して今の俺はというと、深々とした森に放置。こんな状況に置かれるのなら、チートの一つや二つあったって許されただろうに。
あぁそれに、このようなおかしな生き物が現実に、目の前にいていいはずがない。
そこに居たのは一匹の獣。
眩い月明かりに照らされたその姿は、気高さを取払ってから顔面をミキサーにかけた狼のようだった。
背景の美しい星空に似合わないその醜い顔面が、大量の涎を垂らしながら迫ってくる。
"二度目の死"はすぐそこまで近づいていた。
「───────!!!」
恐怖で自然と出てしまう泣き声。もう二十歳そこらだと言うのに、涙どころか他の液体までもが溢れ出す。
自分でも情けないとは思うが、俺はそのおぞましい外見に怯えていた。そしてそれ以上に、迫り来る"死"に怯えていた。
あの喪失が、静寂が、暗闇が、虚無が、この世の何よりも恐ろしい。
そうしているうちにも、奴はじわじわと近づいてくる。
「─────────!!!」
泣き声が強まる。頭も体も感情も、何一つ思い通りにいかなくて、逃げようとすらできやしない。
どうせこの体じゃ逃げる事は叶わないだろうが、最後に足掻く手段さえも今の俺からは奪われていた。
(嫌だ…… 死にたくない……)
化け物が俺を飲み込もうと口を開く。
その瞬間だった。
鋭い石の弾丸が獣の顎を撃ち抜く。それは前世の物よりも眩い月明かりを反射して、光の残像を闇に引く。
そして飛び散るは獣の鮮血。およそこの世の物とは思えない外見のこいつでも、流れる血の色だけは赤だった。
「%%%%%%%%%」
森に響くは身の毛のよだつ呻き声。最後の力を振り絞るように、獣は射手に向き直る。
釣られるように俺もその方を見れば、彼はそこに佇んでいた。
一言で表現するなら彼は老人だった。
白髪混じりの黒髪に、少し曲がった細い身体。それに覆いかぶさるように黒いローブを着込んでいた。
彼はゆっくりとこちらに近づくと、念を入れる為か至近距離でもう一発獣に撃ち込む。
「ピギュ!」
(こ、怖かったぁ……)
心底安心できたのか、何だか緊張が緩んでしまう。身体の方もそれと同じようで、自然と涙は止まっていた。
ふぅ、と息を吐いた老人は俺の方に目を向ける。
「──」
ポツりと呟かれる単語。確かあの部屋でも同じ単語が飛び交っていた気がする。そして発されたその声色には、明らかに驚愕の色が含まれていた。
(また捨て置かれるのか?)
頭に浮かんだのは絶望的な未来。
だがその予想に反し、俺は抱き上げられる。俺に向けられたその顔は、何故か懐かしげな笑みが浮んでいた。
*****
ここまでは悲劇でも喜劇でも無い普通の話。色々なマイナスが色々なプラスで帳消しにされただけだ。
こんな事を言っちゃ何だが、幸と不幸の天秤は案外上手くできているのかもしれない。
だから、うん。こんな事に不満を言えるのも俺が助かったからで、今後生きていけるという希望があるからに他ならない。
それは重々承知している。
だが一つ、一つだけ言わせてほしい。
──俺、女じゃねぇか!!!




