40. 綽名を付けに転生しました。
その時、城内の兵が左右に割れた。
「男爵閣下だ!」
声が走る。
その声は敬礼の声というより、安堵に近かった。――“まだ城主が立っている”という事実に、皆が救われたような響きだ。
中央に現れたのは、セレルナ男爵の甲冑だった。
甲冑は門内の石畳にしっかりと立ち、次いで男爵自身が陣中鎧姿で降りてくる。
……ゲームの法則を信じるなら、有能な人間は「ちび・デブ・ハゲ」のどれかに当てはまる。
そしてこの男爵は、堂々たるデブで、堂々たるハゲだった。
ただし、弛んだ太り方ではない。
腹は張っているのに腰が落ち着き、肩が厚い。いわゆるあんこうがた力士のように、重さがそのまま迫力になっている。
そしてその恰幅が、似合っているのが、なお腹立たしい。
伸ばした髭は汗で張り付いているのに、目だけは冴えていた。
そしてその顔には、深い苦悩の痕と――それでもどこか、ほっとしたような表情が浮かんでいる。
男爵が歩くたびに、周囲の兵が自然と道を広げる。
命令されたわけではない。誰かが合図したわけでもない。
それが「慕われている」ということなのだろう。
男爵は、まず兵の顔を見た。
一人ひとりの顔を――飢えで頬のこけた若い兵、腕に包帯を巻いた兵、杯を握ったまま立ち尽くしている兵。
視線は早いのに、雑ではない。数えている。生き残りを確かめるように。
次に、芋袋へ目が行く。
樽へ目が行く。
そして最後に、城内の方――市街の奥へと視線が流れた。
門前の兵だけではない。
この城壁の内側には、領民がいる。
泣くのも怒るのも、最後に待つのも、その領民だ。
男爵の顔に浮かんでいた安堵が、ほんの一瞬だけ曇った。
届いたからこそ、また思い出したのだろう、その苦悩を。
届かなければ終わりだった。
届いたからこそ、次を考えなければならない。――領民を飢えさせないために、何を選ぶべきかを。
その新たな苦悩が、汗の下に透けて見えた。
男爵は、私たちの方へ顔を戻した。
そして、腹の底から絞り出すような声で――しかし、城主として崩れない声で言った。
☆ ◆ ☆ ◆ ☆
「……助かった。礼を言う。
貴公らが来なければ、この城の胃袋は今夜を越えられなかった」
男爵が――まあ、私も男爵なのだが――目の前まで来て、深く頭を下げた。
その頭の下げ方が、形式だけではないのが分かる。
謝意というより、“責任を果たせた安堵”が混じっている。城主として、領民を飢えさせなかったという安堵だ。
「いや」
私は首を振った。
目の前の男爵を見ていると、私の中の記憶が勝手に繋がる。
ゲームの彼は、最後まで“領民の胃袋”を背負って戦い、そしてそのために、あえて汚名を被る――そんな男だった。
女性向けのゲームだったはずなのに、やっていることは骨太すぎて、正直、ターゲットを間違えているだろと言いたくなったのを覚えている。
それでも、熱く燃えた。嫌でも胸に残る。
……そして今、目の前の本物は、その“熱さ”を誇張ではなく、当たり前の顔で示していた。
私はその胸の内の熱を、できるだけ平らに戻す。
変に感情を見せると、余計な言葉になる。そんな場面ではない。
「こちらこそ。あそこで、突っ込んでくれたおかげです」
男爵は顔を上げ、怪訝そうに眉を寄せた。
おそらく、城主としては「助けたのはそちらだ」と言いたいのだろう。
だが私は、そこを譲る気はなかった。
守るべきものを守ろうとして、あの門前に立った。
領民を飢えさせまいと、最後まで城に踏みとどまった。
その覚悟に対して、私は敬意を払わずにいられない。
私は皮袋を一つ、男爵へ放った。
男爵は反射で受け取る。手つきが戦場のそれだ。
「ん? これは?」
「補給の『命の水』の素です」
私は、わずかに口元を緩めた。
「ちょっとくらい休んだ方がいい。
……指揮官が疲労で倒れたら、元も子もありませんからね」
それは建前でもあるが、本音でもある。
この男が倒れれば、城は折れる。領民が折れる。
そして何より――領民を守ろうとして苦しむ男を、ここで無駄死にさせたくない。
皮袋を受け取った男爵は、しばらくそれを見てから、苦笑した。
「……ありがたい。だが、借りは増えるな」
「借りで結構です。返しは、生きて次を選ぶことで返してください」
言ってから、私は少しだけ後悔した。
説教臭い。だが――この男には、むしろそのまま伝えていい気もした。
男爵は一瞬だけ目を細め、次いで短く頷いた。
「何はともあれ――あの激のおかげで、部下達の士気が上がりました」
「激?」
ホンザが横から覗き込むように言うと、男爵は真面目な顔のまま続けた。
「はい。城門前で、貴公の甲冑が仁王立ちになり、叫んだではないですか。
『寝返《double-crosser》』男爵、と」
私の背中に、嫌な予感が走る。
「……何を」
男爵は悪びれない。むしろ、少しだけ誇らしげだった。
その誇らしさが、私の嫌な予感を確信に変える。
「この国では、功績のあった下臣に、わざと“良くない通称”を与える習わしがございますな」
男爵が何かを言うより早く、背後に控えていた家令らしき男が、いかにも当然の顔で口を挟んだ。
家の家令見たいな言い方が腹立つ。だが、内容は間違っていない。
「綽名は、名誉の一つ。
かの、大王依頼の伝統です故」
そういいながら、重重しく男爵が頷く。
「ええ。『寝返《double-crosser》』など、言葉面だけなら最悪です。
しかし――あの場でそれを叫ばれた瞬間、うちの者は皆、理解しました。
“城主は逃げぬ。だが勝つためなら汚名も背負う”と」
そして家令が、淡々と追撃するように言う。
「つまり、我が殿が、命婦を通じて王国の綽名を下賜された………
も同然と」
「同然って言うな」
私の声は、思っていたより低くなった。
一拍。
私の顔が、勝手に引きつる。
笑うべきか、怒るべきか、どう反応していいか分からない“複雑な顔”というやつになった自覚がある。
男爵は、それを見てほんの少しだけ申し訳なさそうな顔をした。
だが次の瞬間、城内の兵の方から――抑えきれないざわめきが上がる。
「綽名だぞ!」
「やっぱり、正式な……!」
「それも寝返り男爵……
『裏切り者』級だって認められた?」
食糧が届いたこと、それだけでも士気は戻る。
だが、“名誉の形”が加わると、人はもっと単純に燃える。
今の城内は、まさにそれだった。
……今更言えねぇ……
単に、ゲームの通り名を思わず叫んだだけだなんて。
☆ ★ ☆ ★ ☆
ホンザが、私の脇で肩を揺らして笑いを噛み殺している。
ノルベルトはもう隠す気もなく、口元を押さえている。
テオドルまで、口元だけが僅かに緩んでいた。
ラヨッシュだけが不機嫌そうな顔をしている――が、目は笑っている。
(……面白がってるだけだろ)
言い返したいのに、城内の空気が明らかに軽くなっているのが分かる。
だから余計に、文句を言いづらい。
男爵は真面目に頭を下げたまま、最後にこう締めた。
「食糧の支援と、綽名の下賜。
この二つが揃ったのです。
……士気も上がります」
ホンザの肩が揺れた。
「――っ、ははっ……!」
ノルベルトが堪えきれず、声を上げる。
「駄目だ、耐えられない! “直々に通り名”って!」
テオドルまで、口元だけを僅かに緩めている。
ラヨッシュは、嫌そうな顔のまま、短く吐いた。
「……だから閣下って呼ぶなと言ったのに」
「言ってねぇ!」
俺が即座に叫ぶと、騎士団が一斉に爆笑した。
城内の兵まで釣られて笑い、芋袋を担いだまま肩を揺らす。
そんな中、男爵だけが、いたって真面目に頷いている。
「実に良い激でした。
部下も『勝利の女神がいるなら負けぬ』と」
「その理屈はおかしいだろ!
つか、女神ってなんだよ!」
俺の叫びは、笑いの波に飲まれた。
夕陽はもう城壁の向こうへ落ちかけている。
だが――城の中は、今、確かに温かかった。




