憂鬱FRIDAY NIGHT
田舎生まれ田舎育ちのもの知らずの初投稿です。実は本作のネタは約半年前から温存していたものなので、楽しんでいただけることを心から願っています。
元からの語彙力や文学センスの無さ、支離滅裂な文法の使いまわしなどは華麗なるスルーをお願いします。
本作品を執筆するにあたって本職を全う出来ず、頭を下げ続ける日々を送っています(笑)
第一章 憂鬱! FRYDAY NIGHT
理想論を語るも押し付けるも人の勝手と言ってしまえばそれまでだが、「押し付け」は私の美学に反する故に、それを行う人間を、「同じ人類と認めたくない」と言う程までに毛嫌いしている。
何故美学に反するのか、何故理想論を語るなら良いのか。その答えはどこまでも単純明快なもので、一つ、語るならいい理由は、自分の理想を持たなければクリエイターとしての仕事は全うできないものであるに加え、理想を語る人間というのは、どこまでも輝いて視えるというもの。
そしてもう一つ、何故、私の美学に反するのか。これは答えが既に出ている、私がどこまでも「自分の理想」を追い求める、クリエイターであるからだ。
今日もいつものように午前と午後の狭間の起床、慣れた手つきでパソコンの電源を入れ、電気ケトルの湯が沸くのを待った。
湯が沸くとコーヒーを淹れながら、今日のうちに消化するべき案件をまとめ上げ、片手に案件依頼の書類の束と電源の付いたノートパソコン、もう片手にはコーヒーの入ったカップ。
この猫の手も借りたいと言わんばかりの状況で私は肘を巧みに使い、ドアノブを捻り、隣室の事務室の扉をかろうじて開くことが出来た。
バランスを崩せば私のライフラインが途絶える為に、慎重にデスクの上にこれら全てを収めた。
ふとため息をつき、期限までの仕事の消化のために机上に道具の準備をしながらコーヒーを啜る。
「あ、柊先生・・・どーもです・・・」
昨日中に指定の案件の消化が不可能だったための徹夜明けなのか、社員である九条全体から疲労感と気怠さの「オーラ」と形容するに相応しいものがにじみ出ている。
…これは、九条には多額の残業代が支払われるのだろうな・・・
「お疲れ、九条。・・・例の作品はどうなってる?」
「出来ましたよ…先生の無理難題な条件を全てクリアして。」
資本回収が未だ出来ていない小さなゲーム制作会社ともなると残業はつきものだった。現に私も、就寝時間は午前六時以降の日がほとんどだ。加えて事業所での寝泊まり。
甘ったるい戯言を吐きまくっていた学生時代とは一回りも二回りも質量の高い毎日だからこそ、生きているっていう感じがするんだと、何時かの九条は言っていたが、さすがに今日は仕事を上がってもらおう。さもなくば彼の過労死は避けられない。
「九条、今日はもう上がって良いぞ。明日は休みにしとくからな。」
「あー、はい。有難く。今日は・・・」
過労がそうさせているのか、九条の語彙力は破滅的だ。
こんな恰も親切そうな対処をしつつも私の内心では、二日程度の徹夜でこのありさまとは貧弱な。私は一週間連日の徹夜なんてざらだぞ、と嘲笑を浮かべている。これだからサイコパスだ、人でなしだと言われてしまうのだ。
九条の退場とほぼ同時刻に、もう一人の社員である近衛の出勤があった。
「っちーす。柊先生。」
そんな軽い挨拶と共に少し大きめのレジ袋を掲げる。
「あぁ、飯の買い出しを頼んでいたっけか。お疲れ。」
因みに私はこの会社の経営者ではなく、専属のイラストレーター兼作家だ。「先生」と呼ばれているのはそのためだ。
「良い作品じゃないか。キャラの個性が生きている。」
私は九条の机に無造作に置かれた作品を拾い上げながら言った。
「あれ、あの柊先生が人の作品を褒めるだなんて珍しい。」
近衛は若干の皮肉交じりに言う。が、私は気づかずに感想を続けた。
「ウン、あいつ程にこの事業所で頑張った奴はいないからな。聞けばあいつは高卒らしいじゃないか。やはり、学歴なんてものはただの肩書で、結局は一つの事にどれだけの情熱を費やしたかが肝心なところだ。期待の新人、といったところか。」
私の座右の銘を軽々しく織り交ぜて語ってしまったことを少し後悔する。
「先生はまだアイツを新人扱いなんっすね。」
半笑いで言う近衛の情熱だって生半可なものではないと私は買っている。そんな瞳の奥の私の思考を読めるはずもなく、近衛の冗談っぽい話し方は変わらない。
「この、主人公が空を舞う姿、想い人を必死で追いかけるシーンなんか、感情が込もっていて良いじゃないか。しかし…」
近衛は固唾を呑んだ。私が「しかし」という言葉を使う時は凡そ人の作品にあれこれ言う時だからだろう。しかし私は冒頭道理、理想は語っても、された批判を更にこっぴどい「暴言に近い批評」で返したりしても、理想は押し付けない。だから「そう固くなるな」という風に目配せをした。
「しかし、台本の登場人物の名前を許可を取ったとは言え、モデルの本名にしたのは間違いだったかな?」
私が思う限りでの失態には照れくさいような小恥ずかしさを覚える。
「いや、その判断は間違っていないはずですよ。」
肩透かしを食らったかのように煙草を吹かしながら言う近衛は窓の外、晴れ渡る虚空の彼方を眺めていた。
「…今日も案件が少ないとは言えない量だ。残業は覚悟しろよ?」
「はは、流石ブラック部署の主任様と名高い柊シンヤ先生だ。」
「それと、室内禁煙だ。」
鼻をつまみながらの私の容赦ない規制に、悲鳴に近い声を上げながらも、近衛は自分のデスクの電気スタンドの電源を点ける。
今日も仕事が山積みだ。しかし、それを期待してくれる人が居るからこそ頑張る気持ちになれるのだ。否定する数々の人間の存在なんかよりも、期待する人の声の方が存在感は大きい。
独りでも期待する人がいてくれるのなら、私はその人の期待に応える義務が在る。
「さぁ、頑張るぞ!」
窓の外に限りなく広がる蒼穹は、私の創作意欲を掻き立てた。
描きはじめはこうするとしよう。
ある意味、目指す未来がある人程、客観的に視てもそうでなくても毎日が輝いて視えるのだろうか。そんな問いかけが僕の脳内を巡る。
例えば想いを寄せる人に届きたいとその瞬間を足掻く人も、夢を叶える為に足掻く人も、復讐に身を燃やす日々を描く人も。独りの無力に嘆くよりかはどれも今の僕からすれば輝いて視えるんだろう。
そんな無力に嘆く日々を送る現在は、数日前の僕とは明白なる違いがあった。
数日前までは、家には同棲する彼女が居て、出勤前には愛らしい姿で見送りをしてくれて、仕事が終わって六時半、真っすぐ帰る家には彼女が旨い飯を作って待っていた。だが。
それは丁度今日の様な土砂降りの日の夕方の仕事場。連絡担当課に鳴り響く多数のコール音に混じり掛かってきた突飛な連絡は、僕を失望させるには十分過ぎた。勿論、失望するにはまだ早すぎるのだが。
その突飛な連絡を告げる電話を取り次いだ上司は、いかにも「務めて」落ち着いていたという様子だ。
「御剣、落ち着いて聞いてくれ。お前の彼女の柊さんが…」
そこまで来た所でサクノの身に何か良くない事が起こった事を察する。時が凍り付く、とはこういう事を言うんだな、と実感させられる。
「交通事故で、意識不明らしい…」
耳を疑う。いや、耳を疑いたかったのだ。
嘘であってくれ。何かの冗談で。もしくは僕の聞き間違いで。そんなことを願うように僕は上司に聞き返す。それでもその上司の潜める声を聞き取った周囲の事務員たちは一瞬の沈黙の後に騒めきだす。仕事中の人も、これから帰る家には妻子が待つ人も。だから、聞き間違いなんてことは可能性としては限りなく低い。
その声を制する上司の意図は誰にも届かず、騒めきは更に騒めきを呼ぶだけであった。
「そんな…サクノが意識ないって…どういうことなんですか…?」
周囲の眼は僕を憐れんでいたのか、はたまた同情していたのかは判らない。
少し思案顔で悩んだ末、上司は僕に言う。
「行ってやれ。柊さんは市内の総合病院に居る。お前の受け持っている案件は俺が引き継ぐから安心しろ。」
そう言いながら上司は僕に微笑んで見せた。だがそれは僕を安心させる為の作り笑顔で、演じて作っていたことは必死であった僕でも判る、引き攣った笑顔であった。
そんなことは当時の僕には気に留めている程の事ではなかった。その上司の一言を聞き終える前に僕は既に走り出していた。荷物を纏めることさえも、外に出た後、傘立てから自分の傘を抜くことも何もかも忘れ、ただただ走る。土砂降りに中の街並みの上空図を喧しく彩る多種多様な色の傘の群れ、僕はそれを掻き分けながらただ走る。乱れるネクタイを直そうともせず、ずぶ濡れで走る僕を、街ゆく群衆は珍妙なものを見る眼で見ていた。でもそんなものすらも気にならない程に必死だった。故に懸命な思考を停止して走る以外術が無く、タクシーを拾ったりという手段も既に思考停止状態の頭には無い。それ故に受けた視線だったのだろう。
市内の総合病院に到着後、病院に居た人々は僕の血走る眼とずぶ濡れ満身創痍寸前の容姿に気圧されたらしい様子で居た。群衆による異様なものを見る眼はこの状況下ではどこでも変わらなく、共通だった。
サクノが治療を受ける病室には、サクノの親族より先に強面の刑事が居た。
「言葉を選ばなければならんようだが、柊さんを轢き逃げした犯人はまだ捕まっていなければ、重要参考人すらも上がらない。職務上言えんことだが、これは事故ではない可能性が高い。」
この人なりのこの容姿の僕へのせめてもの憐れなのだろう。敢えて職務上言えないことを公開して見せた。
だが、逆効果だった。
その一言は僕をどん底に突き落とした。
――轢き逃げした犯人は捕まっていない―
――これは事故ではない可能性が高い―
つまりは恨みをもった犯行、重用参考人が挙がらない、つまり証言や証拠が数多く残っていないと推測されることから計画性のある犯行か。勿論、憶測に過ぎないのだが。
――あのサクノが、恨みを買うようなこと、するはずがない。
僕は自分の頭でそう判っていたから、その憶測は正しくないと直ぐに判断した。それでも僅かな可能性であったとしても、浮かび上がった線は捨て切れない。
「御剣さん。」
強面刑事の呼びかけに我に返る。
「事件について考えるのは自由だが、事件に首を突っ込むことだけはやめてくれよ。」
――なぜ、僕がそんなことを考えていたことが判ったのか―
その疑問を投げかける前に刑事は僕の表情で察したらしく、
「君のその思案顔を見ていると、私の新米の頃を思い出すようでね。」
と、苦笑を浮かべながら言った。
これ以上は何も訊けなかった。刑事が事件のことを職業上言えないのもそうだが、僕には何も変えられないことが大きい。
運命とかいう奴はどう足掻いてもとことん残酷で、如何なる手段を講じても僕をどん底に突き落としたいらしい。
この状況がまさにそうだ。回復を祈ることしか今の自分には出来なくて、サクノの為に何か出来ることもなく、事件当時の局面をひっくり返すことは勿論出来ず。
帰宅後の僕はまるで糸が切れた操り人形の様に脱力し、濡れた服を着替える事もせずに寝室で膝を抱いて泣いた。
土砂降りも、溢れ出る悲しみの雫も、一向に止む気配はない。
サクノの存在が自分の想像以上に大きかったことを、思い知らされる時だ。
帰宅すればいつものようにあった暖かい笑顔は。笑いあえたこの時間は。過去の思い出を共にしたサクノは…今は病室で、魔法を掛けられ眠らされたおとぎ話に登場するお姫様の様に、深い深い眠りに付いている。そして今も尚、生死の狭間を彷徨いながら悪夢の中で独り、孤独と闘っている。
こんな状況で、いや、こんな状況だからこそ、最悪のシチュエーションを考えてしまう。
明日を変えなくてもいい。だから、サクノと笑いあえる現在を、返してくれ。独りぼっちの明日なんていっそ来ないでくれ!だから…。
部屋に響く静かな嗚咽は、雨音によって掻き消された。その嗚咽は寝息へと変わり、アヤトの願いに反してまた日は昇る。
独りの無力に嘆き、上手く笑えず、全てはモノトーンにしか視えないセカイ。そんな過去を持つアヤトだからこそ、サクノがいない「現在」はあり得ないのだ。
そして再び、視界は全てモノトーンに色彩を失う。
それ以来の毎日は味気がなく、ただストレスでしかなかった。
帰宅すればそこにあった笑顔、暖かい会話。でも今この眼に映るのは、温もりの消えた、時計の秒針の進む音だけが静かに鳴り響く、思い出と時間の抜け殻から成る空間だった。
やっと思い知らされた。サクノがいなければ僕は何者にもなれず、独りで歩くことなんてできやしない。勿論、サクノはまだ死んだ訳ではないのだ。病院に行けばその愛らしい顔を拝むことだって叶う。だが。
いつ目覚めるかも望めない、サクノがただ眠り続ける姿を思い浮かべるだけで、涙が零れ落ちそうになったから。だから僕は真っすぐ家路を急ぐ。
今日だって何もしなくても過行く、ただ浪費される時間を少しでも有意義に、と仕事場で時間を金に換え、灰色の街並みをあの日の様に傘もささずに歩いている。
ただ今回は以前とは違い、ただ脱力し、走ることはしていなかった。あの日まで眼に宿っていた活気は、活力は、彩りは。今はそんなものは微塵も残っていない。
群衆過行く街並みの真ん中で、灰色の雨降らしの空を仰いだ。
「よ、アヤト!何こんなところでシケた面しながら突っ立ってんだよ。休日前の社会人のすることじゃあないだろ?」
いかにも僕に気を遣っている様子が丸判りな、カップルのように見えて実はそうでない二人。
天野川コウセイとその姉のセイナだ。
「傘くらいさしなさいよ~。もう、ずぶ濡れじゃない・・・」
そう言ってセイナはボクと無理やり相合傘を組ませた。セイナの心配性とお人よしな性格は昔から変わらず健在のようで、少し微笑ましさを覚える。が、この状況で相合傘だけは止めて欲しいと正直思う。この状況、とはかなり多くの意味を含めるが、それ以上に僕とセイナの様子を見てにやけ顔を作るコウセイを早くどうにかしたい気分だ。
過度に姉弟仲良く一緒に居るから、ろくな社会人になってもコウセイはシスコンなのかと思えば、どうやらコウセイとセイナも偶然出会ったらしい。自炊のできないコウセイの食生活を案じたセイナが夕飯を作るためにこれから買い出しをするのだというが、コウセイが「お前も手伝ってくれ」という目配せをしてくるもので、どうやら今から家路を急ぐことは叶わなそうだ。
近所のスーパーで軽い買い出しを済ませた一行は二つ傘の下で駄弁りながらコウセイ宅へ。
「へー、コウセイん家って僕ん家から意外と近かったんだな。」
僕は素朴な発見を投げかけた。意外そうな表情をしながら恒星は苦笑い。
「お前、俺ん家誘ってもいっつも断ってただろ?いっつも走りながら家帰ってて。なるほど、一つ屋根の下で同棲する彼女が居る奴は違いますなぁ~」
少し挑発口調で、それでも悪意の見当たらないコウセイに、僕は何も言い返すことが出来なかった。その様子をセイナは、何かを案じる様な表情で視ていた。
コウセイ宅に着いて真っ先に上がったのはコウセイではなくセイナだった。濡れたまま上がる訳にも行かない僕にバスタオルを取ってきてくれるそうだ。しかし、セイナよりも先にセイナの悲鳴がやってきた。どうしたと言わんばかりに声のする方向を見る。
「コウセイ!アンタこんな汚い部屋で生活してんの?」
「やだ、これなんか消費期限一週間前のじゃない!」
部屋に響くセイナの甲高い叫び声から予想できるコウセイの生活ぶりは尋常ではない程悲惨であることが伺える。
部屋に上がれば案の定。サクノが居なくなったあの日以来の僕の部屋よりも悲惨な状況だ。
そんな悲惨な状況で部屋を片付けるセイナと、ごめんごめん、とやや恥ずかしそうに笑みを零すコウセイ。この二人のやり取りを見ていると、未来の僕らを妄想してしまうようで、それでもその日が叶わなかった時の事を考えてしまうようで、形容し難い感情に苛まれた。
何時までも子供のようなコウセイの世話をするセイナの様子は、そのお人よしと心配性な性格が幸いしてなのか、輝いても視えた。そんなセイナは、やはり目指す未来があるのだろうか。
「じゃあ私、料理してるから。…ってコウセイ、ちゃんと自炊してるの~?」
「フッ、俺に料理なんて出来ると思うか?」
何故か自慢げに料理が出来ない自分を語ろうとするコウセイ。それに対し呆れ気味なセイナ。
「あ、毎日インスタント食品でしょ?体壊すからそういう生活はやめなさい?」
「はは、善処するさ。マジ、姉ちゃんが近くに居て助かったよ!」
そのコウセイの笑顔に焦がれたセイナの火照った横顔に、何となく微笑ましさを感じた。やはりこの二人は、姉弟、というより恋人同士に視えてしまう。それこそ、付き合い始めたばかりの初々しい雰囲気の。
客観的な視方だが、この二人がもし、血が繋がらない仲だったのであればあるいは。そんないつかライトノベルで読んだ様な物語を想像してしまう。
想像と創造は紙一重。しかしそれは過程を除けばの話だ。
色々無駄な思考を巡らせているうちに、台所からいい香りが漂い始め、腹の虫が鳴る。
――なんだか、やたらと今日は思い出すことが多いな。
しかし、思い出す事は一貫してサクノのことだけ。現に、セイナの手料理を目にしてサクノが旨い飯を作って待つ、つい数日前のことを思い出し、我ながら女々しく思う。
「アヤト?どうした?さっきからボーっとして」
無意識のうちにぼんやりと考え込んでしまったらしい。セイナとコウセイはそんな僕を心配そうな表情で伺っていた。
「お前、言っちゃあなんだが最近様子がヘンだぞ?今日だって帰り道雨の中突っ立ってたり。」
「アヤト、サクノちゃんに何かあったんでしょ?…言いたくないなら、言わなくてもいい。だから…その。出来れば教えて欲しい。力に、なりたいから。」
コウセイは若干怪訝そうな顔色だ。
二人の顔色に探りを入れる前に、素朴な疑問を投げかけてみた。
「言ってもいいけど、なんでそこまで僕に気を遣うの?」
僕のその問には答えてくれなかった。だが、最初からセイナは何か察している風な反応をしていたが、やはり、知っていたのだろうか。
虚ろな視線で窓の外の街並みをおぼろげに眺めながら言った。
「丁度一週間くらい前かな。今日みたいな土砂降りの日だった。」
その後少し間を置いて僕は言った。
「その日、サクノは交通事故に遭って…それ以来、サクノは目覚めない。意識不明の重体だそうだ。しかも…轢き逃げた奴はまだ…捕まっていない」
言葉の最後あたりに、轢き逃げ犯が捕まっていないことを告げる僕は無意識のうちに拳を作り、小さく震わせていた。
セイナは怒りに震える僕の手を、その小さな両手で覆った。ふと我に返る。
怒りに震える僕の中には、犯人への復讐劇やその復讐方法を必死に構築する自分と、過去に願う程無駄なことはない、と自らに言い聞かせる自分がいる。
「セイナ?」
セイナの円らな瞳によって作られる大粒の雫。その雫は絶えることなく重力の影響を受け、セイナの頬を伝い、静かにエプロンに染みを作る。
何も言わず、コウセイはセイナの背中をさすった。
「なんで…セイナが泣くんだよ…」
ふと、言うつもりも無かった台詞を無意識のうちに吐き出す。
「だって。…だって…好きな人がいきなりいなくなっちゃうなんて…いくら何でも悲し過ぎるよ。そんなの」
他人の「恋人がいなくなった状況」を真っ先に共感したセイナ。何時も何故か「何時までも子供のままのコウセイ」の世話をし、その様子は輝いても視えたセイナ。「目指す未来がある人程、輝いて視える」という現象。僕の中で何かが繋がった気がした。
セイナの嗚咽は嗚咽を誘った。それはまるで伝染病か何かの様に。
「ごめんね、ちょっと感情的になっちゃった…」
何故、セイナが謝るのか…そんなこと訊く気にもなれなかった。
「さ、辛気臭い話はこれまでだ。飯食おうぜ!せっかく姉ちゃんが作ってくれた旨い飯が不味くなっちまうだろ?」
コウセイの恰も「無理やり」といった話の締め方に不信感を抱きながらも、努めて明るく、談笑に浸ることとなった。
雨は一向に止む気配もなく、談笑に浸る三人の声は夕闇の街並みに消えていった。
「それじゃあ僕、そろそろ帰るね。」
午後七時半頃、雨も小降りになってきた時を見計らい、言った。
「おう、気を付けて帰れよ?」
コウセイは例の話以降、努めて明るく振舞っていた。
「あ、言い忘れていたけれど、セイナ、飯、旨かったぜ!」
「感想言ってくれるの遅いよ!」
笑いながら、セイナは言った。
「あはは、ごめんごめん。…じゃあ僕、そろそろ行くよ。」
別れ際の挨拶もほどほどに僕は走り出した。
アヤトが去った数十秒後、玄関先で恒星は言った。
「いいのか?本当に。」
セイナは首を傾げながら「何が?」と問う。
「いや、姉ちゃん、あいつのこと、好きなんだろ?」
一見照れくさい恒星の質問に動じることもなく、セイナは毅然としていた。
「確かに…好きだよ。でもね。」
通り雨過ぎた星空を、先を見据える様に見上げるセイナの瞳には何か力強いものが宿っていた。
「好き、と愛し合っている、じゃあ、何光年も違いがあるんだ。」
それ以上コウセイは何も言えなかった。予想以上の姉の強さに面食らったのだ。
「それにしても、アヤト、大丈夫かな?」
「…あいつは意外とタフな方だから、心配はいらんだろ。」
セイナの言葉の意図することを読み取れずに少し困惑気味に言ったが、セイナは少し間を置いて、その言葉の意図を打ち明けて見せる。
「違うよ。…アヤトには、復讐鬼だけにはなって欲しくないな…」
そんな願いを、虚空に瞬く流星に願った。その姉の姿を、いつか見た気がするその光景に重ねてしまう自分が居た。
よく人は流星が消えるその前に、三回願えば望みは叶うというが、本当のところは「その瞬間も願い続けている」からこそ望みは実現されるのだと思う。想い人を思う気持ちも、社会的に成功を収めたいと願う気持ちも、誰かを救いたいと願う気持ちも、復讐を成し遂げたいと願う気持ちも。だが、その瞬間だけ願う望みまでに浅ましいものは無い。
そんな恰も自分を正当化できそうな考察を並べている今、今日が金曜日ということもあり、素直に帰る気分は何故かなかった。
つい一週間前までの僕は、金曜の帰宅ともなればどれほど浮かれた気分での帰り道だったことか。今ではそんな感覚は既にマヒ状態にあったのか、何となく湧き出る虚無感しかなかった。それなのに素直に家に帰りたくない金曜日。矛盾している。
殆ど自暴自棄だったのか、行動を全て衝動に任せ、サクノと付き合う以前に行きつけだったバーへと歩みを促した。
行き交う人々の嬉しそうな表情や悲しそうな表情。そして休日前の疲労や解放感に満ちた匂いを纏った、交差する人々の群れの群れ。
それらを彩る街並みは煌びやかなコントラストに包まれていたはずが。過去に抱いていたイメージとは裏腹に、今眼前に在る街並みは排気ガスに塗れる白黒に彩られた、「描く気力のない画家」によって描かれた背景。空虚な繁栄の抜け殻。
視界に映るものというのは、どこまでも限りなく視界の持ち主の精神状態を反映するものらしい。価値観の急激な変化を伴うというのは想像以上に恐ろしいものだ。
そんな憂鬱な金曜の夜を、投げ出したいような気分で。
サクノと付き合う以前に行きつけだったバーというのは、高層ビルが立ち並ぶ繁栄の面影を感じる街の地下街にこじんまりとした、「隠れ家」といった雰囲気の佇まい故に知名度の低い、知る人のみぞ知る名店だった。そのため客足は少なく、店に来る人のほとんどは知り合いだった。
店の扉を開くと同時に来客を告げるそこそこ高い鈴の音。マスターの上弦がそれに気づいたのか、店のカウンター付近から「いらっしゃい」という若干野太い声を放った。
「久しぶりだなぁ、上弦。」
上弦が食器の手入れをするカウンターの中央の席に腰掛ける。それと同時に、僕に気付いた上弦は若干演じ気味に聞こえなくもない調子の声色で、
「お、おう!なんだアヤトか。随分と久しぶりだが、景気良くないようだな?」
「景気悪いのは上弦の方なんじゃないか?こじんまりした店だから客も少ないようだが?」
一瞬むっとした表情を見せる上弦もすぐに口元を歪ませた。
「前店に来た時よりやつれているお前よりかは、良い暮らしが出来てるさ。こんな小さい店だからこそ、良いって言ってくれる人がいるからなぁ。」
そう言って上弦は手に付いた水気を払い、食事の用意を始める。
「とは言ってもお前、本当にかなりやつれているけど、何かあったのか?」
遠慮気味に上弦は僕に尋ねる。
誰かの気持ちを無碍にしては、気付かぬうちに心の片隅で罪悪感に締め付けられる。これ以上疲れない為にも、偽り続けるのは手放すべき答えなのだ。
「僕と上弦の付き合いはそう短くないからな。愚痴かどうかは微妙だが、聞いてくれや。」
「付き合いが長い、と言っても腐れ縁に近いんだがな。」
「おいおい、客にその台詞はタブーだろ?接客業としての品位が疑われる発言、聞き捨てならないなぁ。」
長い腐れ縁故の軽い冗談を皮肉っぽく受け流しつつ考える。…やはり、サクノのことは話題に出すべきなのだろうか。
悩ましく思い、無意識のうちに眉間に皺が寄る。
「接客業の品位が疑われる…か。鬼の首を取ったつもりか?。さて置いて、どちらかと言えば俺は情報屋の方が本職なんでね。だからお前が何を言わんとしているか、予想が付かないことはない。」
随分と遠まわしな言い方だが、バーの経営は趣味のようなものだと言いたいようだ。仕事を楽しいものだと思ったことが無い僕にとっては羨ましいと純粋に思う。そして、「情報屋が本職」というのは主な情報源が客であり、情報提供するのも客であるということなのだろう。
「…流石の情報網だな。」
「あぁ。…まぁ、同じ出身校の人間ってのもあるからな。」
そう言って上弦は頼んだ覚えのない飯を僕の目の前に置いた。
「…頼んでないが…」
「おうよ、サービスだ。…常連に飢え死にされるとこっちも商売になんねぇ。」
「元」常連にサービスをすることほど商売に仇をなすことはないと僕は思うのだが。
さっきコウセイの家で食ってきたなんて上弦の好意を無碍にすることは言えるはずもなく、ありがたく頂くことにした。
真夜中の人数少ないバーの中、帰っても孤独に襲われるだけの休日の使い方を考える。
一週間の疲労とかつてない孤独と虚無感が一気に襲ってきたのか、既にその時点でヤケクソ気味。酒に弱いにも拘わらず今日は酔いつぶれることにしようと脳は判断を下していた。
酒が入れば入る程に、それ相応に思考力が奪われ、思考回路は支離滅裂な理想論を構築し始めている。
…もし僕が、サクノの事故現場に居合わせたのなら。もしくは何かしらの手段を講じて事故を阻止できたのであれば。自分の職場から事故現場までは徒歩十分程度。もしも過去にこの記憶が抹消されぬまま戻れるならば、サクノの笑顔をもう一度、近くで感じられるのであれば。
サクノの笑顔が不意に脳裏に過った。そして声にならない叫びを上げる。
――帰ってきてくれよ―サクノ!
どんなに適当に、はたまた投げ出すようなやり方でも息は続く。どんな人間でもやはり、誰かに縋りながら生きている。その度に気付かないところで形容し難い感情に苛まれる。
どんなに普通に、何事もなく生きていても。
案外突飛な出来事というのは、意外にも身近に、且つ何の前触れもなくやってくるものなんだと実感させられる。今回の出来事が僕の中で例として一番相応しいと思わされる。
考察を浮かべた脳内に、木霊するサクノの声は幻聴なのだろうか。未だに僕の名前を叫び続けるサクノの声が響き渡る。
そんな時、僕は夢を見ていた。それは「夢」と形容し難い、現実的な情景で、しかしながら内容は「非現実的」なものであった。そんな僕の心の情景は、「こんな現実から目を背けたい」の一心だった。
――そんな一心で閉ざす瞳の奥の感情を読み取れるのは、感情の持ち主ただ独りだけなんだろうな。
現在、僕は空っを舞っている。だが、乗り物に乗っているかいないかと問われると少し困惑せざるを得ない状況だ。
というのも、飛行機やヘリコプターなどに乗っている訳では無く、両足にジェットエンジンらしきものを靴のように装備しているSFやライトノベルの登場人物になった感じの状況だった。
情景がリアリティーに長けているというのは、文字通り。とにかく目に映る風景全てがリアルで、それに加えて「空を舞う」感覚があるのだ。
――肌に当たる風の感覚や轟音、雲の上に居るということを感じさせられる肌寒さなど。
…それだけではなかった。僕は「見覚えのある」複数の人物と共に飛んでいた。
妹のユイとさっきまで会っていたコウセイとセイナ、そして、目覚めることを今も尚、想い続けている…
「サクノ!」
風を切り裂く轟音の中、僕はサクノに届くように、孤独の温度を忘れないように叫んだ。
僕はこの夢の中で「飛び方」を知っていた。いや、夢の中だからというべきか。だから僕は例え夢の中とはいえど希望があるのなら、とサクノのもとへ。
「どうしたの?アヤト君。そんなに慌てた顔して…」
不意に僕の瞳から溢れる塩辛い雫。ただ、高度5000メートルから地へと滑空する今。雫は下へ落ちることはなく、上へ上へと向かってゆく。
厚い雲の層を突破し、水平線を見出した。僕の視界に映る夕焼けは、蒼穹と水平線の狭間の輪郭を暈かし、絵画にしたら高値が付くことに間違いが無い、幻想的な風景を映し出した。
風を切り裂く轟音は、秒針を刻む速度ごとに音量を増す。そんな中だからこそ僕は必死に愛を叫んだ。今も尚思い続けるこの気持ちや、いろんな思いを一言に。
「サクノ!僕は、僕はサクノを…」
その瞬間に、僕の装備するジェットエンジンは轟音を閉ざした。
夢で終わってしまうのなら。否。どんな状況においても僕はこの時点での最善を尽くそうと思う。だから。 夢でもいい。ここで会えたならせめて!
セカイがモノトーンな視界に包まれる前に伝えたい。
「サクノ!僕は、例え君が僕の事を思い出せなくなったとしても、何時までも・・・」
――愛している。―
両腕両足を広げ、滑空が出来なくなった僕は叫んだ。
無作為に言い放ったこの台詞は、この時点で特に意識出来たものではなく、後に「予知夢」の存在を信じざるを得ない状況を作るものだった。それが判るのも未来の話。
サクノは僕に何を言い返すでもなく、意味ありげに愛らしい笑みを浮かべていた。
夢が覚めた時の感覚は水面から顔を出した時の感覚に限りなく酷似している。そして、夢が覚めた時の感情は、夢の内容によるが、夢の内容を覚えているときに限定して副作用として現れる。
今日の僕はどんな気分なのかは自分でも判らない。何故なら、夢の中の世界観は変わっても、あれから僕のセカイが変わることは無いのだから。
――あれから会ってもっと話したかったなんて、ちょっと女々しいかな?
そんな呟きを心の中に留めるからこそ、口元を引き攣らせてしまうんだろう。
そんな夢の時間の余韻に浸っていられるのも束の間。
見覚えのある天井、見覚えのある背景。
――あれ?バーで盛大に寝落ちをかました後の記憶が無いぞ…
やけ酒とは場合によらず、仇をなす確率の方が極めて高い。故の今。
――あの後僕がどうやって家まで帰ってきたか、何かあったか、上弦に訊いてみよう。
寝落ちして翌朝気づいたら自宅のベッドの上なんてことはサクノと付き合う以前はかなりよくある事だった。訊けば意識がもうろうとする状態での帰宅、翌朝に記憶が無いという事例八割、酔いつぶれて上弦が家まで送り届けた事例二割。しかしその二割の場合は一貫して目覚めは玄関前だった。今回はベッドの上の起床ということを考えるに、きっと前者の八割のパターンだろう。
夢の事はこの時点では特に気に留めるでもない事だったが、奇しくもこの夢は今後一週間以上似たような内容を繰り返す。しかし「夢」は映画かアニメの様に回数重ねるごとに内容を更新する。それはまるで何かの「伏線」を張っていると思ってしまうような。
酔いつぶれ&不思議な夢事件から約一週間後の六月十三日の金曜日、縁起の悪い数字の集まる今日は寄り道なんかせずにまっすぐ家に帰ろう。
帰宅後の僕は何度も「リスタート」する夢の内容を反芻し、何度も心理学や脳科学にまつわる本を読み漁った。
――一体何が原因なんだ?…確かに僕はずっと「還してくれ」と願い続けた。
それから考察に耽り、私生活のテンプレートをなぞり。帰宅からおよそ五時間が経過した二十三時半。突然、僕の部屋に電話のコール音が鳴り響く。
こんな深夜に電話をかけてくる電話の主の品位と常識を疑いながらも僕は受話器に手を伸ばす。
それがいかに急な要件かも予測できず。
「…はい…」
若干怠そうな声色で電話に出た。
「アヤト君か!…私だ!シンヤだ!」
突然の電話の主は僕の上司兼サクノの兄のシンヤだった。シンヤは酷く息を切らしており、今にも酸欠で倒れておかしくない程過呼吸といった状態が伺えた。
「シンヤさん?一体どうしたんですか?」
電話の声の背景には誰の声も無いために状況の把握が難しいが、サクノの兄が息を切らして僕にかけてきた電話ともなれば思い当たる要件は一つ。
「あぁ、…この件は、君が取り乱す可能性があるから・・・言葉を選ばなければならんな。」
そんな呟きじみた言葉の発し方は意味深さを増す要因となった。やはり要件はサクノの身に何かあったのだろう。そんな推測が正しい可能性が増す中、僕は正気を保てるか不安になりつつあった。
「突飛な出来事」は、何時だって誰も、「自分や親族の身に起こるとは思っていない」から、あるいは「親族含めた自分に起こって欲しくない」と常日頃から願わざるを得ない状況だからこそ、「突飛な出来事」と形容されるのだろう。今回のサクノの件で痛いほどに判った気がする。
しかし、事件が起こったそのまた直ぐに、新たな、もしくは前者の事件に関りがある事が立て続け起こるだなんて、余計に予測不可である。
「実はな、サクノが目を覚ましたんだ。…だが…」
シンヤの継言葉を聞く前に、体は動き出していた。
…この時をずっと待ってた。ずっと思い描いていた…はずだった。
運命とかいう奴はとことん残酷だ。だから僕をどん底に突き落とす。それでも僕はわずかな可能性に縋りたい。どんな絶望的な状況に陥っても、わずかにも可能性が残されているのなら、その可能性に縋るのが人間のやり方。
以前の様な失態を二度と繰り返すまいとし、今回はタクシーを拾った。
アニメやライトノベルでよく見かける展開の、「時間ループ」を経験している気分になった。
同じような状況を繰り返して縋って。終点と最終日を追い求めて。
焦燥と疑念は人の思考回路をショートさせる原因、人格を飛躍的に悪い方向へ持っていく要素。
冷静になろうと努めても、やはり人間にはその時点の限界値というものがあった。僕がこの時、何かやらかしていた可能性も無きにしも非ず。
タクシーの運転手に市内の総合病院まで急ぐように頼むと、ゲーム内でのショートカットの様な速さで病院に到着。代金を支払い、釣りはいらない、と言い残して僕は南病棟七階七〇五号室へと駆け抜けた。
深夜の病院だけあって、人気は無く、居たとしてもそれは清掃係員か看護師か医者。昼間の病院の病室以外に居る人間の大多数である患者の姿はどこにも見当たらない。おかげでサクノの部屋までさほど時間はかからないだろう。
サクノの病室に近づくごとに、僕の胸は高鳴った。同時に形容し難い不安感にも襲われた。
「サクノ!」
勢いよく病室の扉を開き、開口一番にサクノの名前を口にする。
病室に居たのはシンヤと、その両親と医者と看護師。肝心のサクノの姿はない。
「アヤト君、今すぐサクノに会いたい気持ちはわかるが、少し…話がある。」
電話越しで聞き取れたシンヤの声とは異なる、言葉の演出する雰囲気の重さを感じた。
固唾を呑み、ゆっくりと頷く。
「…場所を変えよう。ここではまともに話が出来そうにない。」
サクノの両親、特に母親の方は顔を伏せながら嗚咽を漏らしていた。
南病棟七階の自販機と待合席が申し訳程度に備え付けられた仄暗いホールへと場を移し、シンヤは本題に入ると言わんばかりに待合席に腰掛け、足を軽く組んだ。
「単刀直入に、サクノがどういう状況に置かれているか、君には判るか?」
「…僕の知る限りでは交通事故で意識不明、という事しか…でも、さっき病室に居なかったってことはもう意識は戻ってるんですよね?」
「確かに、意識は戻った。しかし…」
痛々しげに、シンヤは目を背けた。
「しかし、サクノには記憶が戻ることはないらしい。」
耳を疑った。サクノと過ごした日々を思い出す程に、言葉が出なくなる。
「そんな…サクノは…サクノは今どこに居るんですか!」
それは疑問というよりかは叫びに近いものだった。
感傷的になる僕を見るシンヤの眼もまた、悲観的な色彩を持っていた。
「屋上で風に当たってくると言っていた。…だから、屋上にいるんじゃないかな?」
――サクノの記憶が戻っていなくても。
抱いた希望論を実現することが出来るかどうかは判らない。しかし僕は希望に縋りたい。
「…彼を見ているとなんだか、私の過去を再び見せられているようで…実に不快だ。」
シンヤのそんな吐き出すような呟きは、何かを示唆するものかと考察する以前に、アヤトの耳に届くことはなかった。
屋上に吹く風は暖気を孕み、季節の変わり目を感じさせる。
煌く夜景のコントラストに溶け込むサクノはアヤトに背を向け、フェンスの向こう、夜空の彼方を眺めている。
「サクノ!」
その声に反応したサクノは振り向く。
駆け寄る僕は咄嗟に言葉を探す。意識のある状態のサクノに久々に会えた喜びからか、言葉が出なくなる。しかし…
「どなた…ですか?」
「…?サクノ?何かの冗談…だろ?」
――あぁ、判っていた。判っていたが…
――運命とかいう奴はとことん残酷で、僕をどん底に突き落としただけでは満足できないらしい。
その警戒していると見て取れる、「他人」を見る眼に、僕は「サクノが記憶を失ってしまった」こと以上に、「あの日にはもう二度と戻れない」ことに深い失望感を覚えた。
眼を背けたいと願うこの事態を目の当たりに、言葉を失う。
「――何故、そんなに悲しそうな顔をするのですか――?」
記憶の戻らなかったサクノの問いかけに、感情のない微笑を返すのが精いっぱいだった。