第三話 はやしたて、まくをあげ 後
美男子の合図で女は私から離れ、私はやっとまともに息を吸えた。駆け寄ってきたイチイに、私ははやる気持ちを抑えきれずに話しかける。
「話が通じるひとでよかったわ。私、父さんと母さんを絶対に助ける……あんた、そのお腹は大丈夫なの?」
イチイは私の心配をよそに、こちらに少し屈んで、小さく声を出す。
「今すぐここから逃げた方がいい。あいつが居てはこっちに勝ち目はない」
そうしてイチイの目線が指し示すのはあの美男子である。
「何言ってるの? これを逃したら父さんと母さんは助からないわ」
「お前の気持ちは痛いほどわかる。だが、あいつがいてはお前の両親は絶対に助からない⋯⋯それどころか、」
「お嬢さん、さあ、こちらに」
美男子の声に顔を向けると、ギロチンの前に二脚の椅子が向かい合うように据えられていた。そして、美男子がその一方を私に指し示しているのだ。日和見する弱気なイチイの言葉に苛々していた私は、はあいと愛想よく返事をする。
「あんたのこと味方だと思ってたわ。がっかりよ。私、あんたがいなくても自分でなんとかするから」
そう言い捨てて、私は用意された椅子の方にゆっくりと歩いていく。周りのひとたち皆んなが私を見つめているのがわかる。私、冤罪をかけられた父さんと母さんの弁護人になるんだ。それはまぎれもなく事実だったから、緊張感と同じくらい自分の心が高まっていくのがわかる。私が、ふたりを救うの。そうするとイチイもなぜか私のいる方へとやって来て、椅子に座った私の後ろに陣取った。でもね、頼りにしないからね、私。あんたのこと。そんなふうに思っていると、私の視線の真向かいにあるもう一つの椅子に美男子も腰掛ける。
「さあ、始めようか。レディファーストという言葉があるけれど、今回ばかりは私が先手だ。なにせ、そうしないと話が進まないようだからね。いいかな、お嬢さん?」
私がこくりと頷くと、美男子は満足げに微笑んだ。
「それと、この論争の決着のつけ方をちゃんと決めておこう。君の両親の処分は、ここにいる聴き手の判断に全てを委ねるということ。その最終的な判断には、君も、そしてもちろん私も、一切何の異議も差し挟めないということ。つまり、どうあっても民意を反映して執行する……また、せざるということ。そこを承諾しておいてもらいたい。盤上で駒を動かすならば、その盤の仕組みを、そして駒の動き方を覚えねばならないということさ。これは大事なことなんだよ。お嬢さん」
私が相槌を打とうとしたところで、私の肩にそっと手が触れる。イチイだ。なによ、という思いを込めてその顔を睨みつけると、彼は美男子のほうを見て口を開く。
「こいつはもっと根本的なここのルールを知らないだろう。説明してやらねばならない⋯⋯嘘つきでなくとも、手の内を隠すのがお前の十八番だということを俺はよく知っている」
「そう言われてもね、先ほど言った通りだよ。『決着をつけるのはここにいる聴衆で、我々は誰しもその決定に逆らい得ない』。それだけ。お嬢さん、いいね?」
「構いません。民主主義的だわ」
と私が答えると、美男子はまさに、と言って嫌味なくウインクした。するとイチイはなぜか私の後ろで苦々しい声を漏らす。それから美男子はゆっくりと話し出した。
「このふたりが一体なんの罪に咎められたか、そのことを話すにはね、まず前提となる知識というものがあるんだよ。そう、世間一般の、『事情』というのがね。まずはそこから、お話ししよう」
美男子の伏した睫毛が、ふわ、と瞬いた。
「昨今の帝都の医療事情はずいぶんと改善された。病院が患者を受け入れやすくなったそうで、以前とは様子が全く違うんだ。昔は病室が足らずに急病人が病院をたらい回しで、そのまま治療も受けられずに死んでしまうことさえあった。痛ましいという言葉では足りないくらい、悲惨な状況だ。では、一体どうしてそのようなことになってしまっていたか……君は、わかるかい?」
美男子は私に問いかける。
「お金が足りないから……」
「そうだ。この国の財政には決して余裕はない。正確に言えば、足りないのは医者の数だってそうなんだけれど、それは今もそれ以前も変わっていないんだ。にも関わらず、今は必要があればいつだって、ほとんどの病院でその日のうちに患者のために病室を用意できる。素晴らしいことだ、では、それがどうして可能になったか、わかるかい?」
「お金を、別のところから持ってきているから、でしょう……?」
自信もないからおずおずと答える私を見て、美男子はにこりと笑って私を指差してみせる。
「発想はいいね。そうだ。国の予算は限られているから、どこかを削るしかない。でもね、医療費に割かれる国の予算は、病室を増やして病人の全てを受け入れられるに足るほどには、以前と比べても上方修正されていないんだ。これは、政府の公開している予算編成の資料を調べればすぐに分かることさ。帝都には国営の図書館もある。まあ、そんなことは置いといてだね、では、やはりその限られた医療費の中でやりくりするしかないとして、どうやって空いた病室を作ったか」
答えをうながすような彼の視線に、私が何も答えられずにいると、美男子の目が輝いた。
「答えは、『患者の数を減らしたから』さ」
「減らした」という言葉に私が引っかかっていると、美男子はさらに続ける。
「君の両親は公人で、国庫の管理、つまり財務に携わる位置にいらっしゃって、最近は社会保障、とくに医療機関との交渉を行っていたようだね。立派な仕事だ。この国の人間の『豊かな』生活を保証するための、ほんとうに立派な仕事さ。普段からずっと、お忙しかったのだろうね」
そう言われて私がふたりの方を見ると、父さんと母さんはなぜか泣きそうな顔をして俯いている。布を咬まされたその口からは何の言葉も聞こえないのだけれど、私はそのふたりの顔を見てはいけないような気がした。美男子は先を急ぐように話し続ける。
「君のご両親は病室を『空ける』ために尽力した。前に病室にいた人間が、『いなくなる』ように」
ゆっくりと丁寧な一言一言が、彼の咎めるような眼差しと一緒になって私に突き刺さる。私の目を縫い止めるようなその冷たい瞳の色に、背中にぞわりと寒気が走った。
「一日の大半を寝て過ごす病人のほとんどが、その腕に点滴を繋がれているのは、君にも想像できるかな? では、もう少しその想像を広げてごらん。そうだ、点滴の針は、直接彼らの血管に繋がっている」
美男子は自分の左手を挙げて、少しだけ制服の袖をめくり、露わになった手首を自分の右手の指でなぞってみせる。
「点滴の袋の中身は、全く、ほんとうに、『そのまま』医者を信頼する健気な患者の血管に、『そのまま』流れ込むんだ。一滴残さず、全てが、その、体内に」
やめろ、と唸るような声が上がった。それはイチイの声だったけれど、美男子は語り続ける。誰も彼を止めることができない。聴衆は皆、美男子の放つ一言一言を逃すまいと聞いている。だめ、いけない。これ以上何も。
「もうわかるかな?」
美男子は微笑んだ。私に向けられたその微笑みは、間違いなく意地悪だった。
「九十歳、八十五歳……病院によってはもっと年齢を引き下げたところもあるようだね。もしくは、末期癌やもう助からない、ただ『ベッドで死を待つのみ』の『占拠者』を、君のご両親を筆頭に、公人たちは、表沙汰にならないペースで処分していった。簡単だ。点滴に、混ぜるだけ」
そのとき、半ばふざけたような顔でそう話していた美男子の顔から微笑みが消し飛んだ。彼は椅子から立ち上がり、氷のように冷たい表情で私を睨みつける。
「病人は生きるに値しないか? 老人は一刻も早く死すべきか? 不要な人間は排除されるべきか? 彼らは口をつぐむだろうさ。それがまさに彼らの本音であるから。そして、合理であるそれは、人の道理に反しているから」
大きく手振りをして尚私を、そして父さんと母さんを睨みつける彼の目は、間違いなく正義に満ちていた。
「彼らがやっているのは、生きる価値のない人間を選別し、その排除を実行した、実に合理的で、人の成すべきことの範疇を逸脱した、悪逆非道の大罪だ。そして、正義の名の下の告発で事実は白日の元に晒された」
静まり返った群衆。
「君の両親は、そうして、証拠隠滅のため、然るべくしてここに呼び出された。本人たちは、それを知らずにここに来てしまったようだけれどね」
受け止めきれないことが多すぎて、私は震える声を絞り出す。
「証拠はあるの? ずっとあなたが一方的に話してるだけだわ。証人は? あなたの言うことを誰かが保証してくれなきゃ……」
美男子は大きく息を吸い、呼吸を整えてから、また椅子に腰掛ける。
「証『人』はもういないけれど、『証拠』はあるよ。私がどうしてこの犯罪について知りえたかといえば、もちろん帝国の側からの通知書があったからだけれど、でも、それだけではないんだ。アカシ、『あれ』を持っているかい」
「はい」
美男子の言葉にすぐに返事をした制服の女は、胸ポケットから封筒を取り出して、彼に手渡した。美男子がそこから取り出すのは、白い、便箋。
「ここに一通の手紙がある。あるひとりの男の、あまりに悲痛な訴えがここにしたためられている。彼は、命をかけてこれを書いたんだ。ただ、正義のために。私がここでこの手紙の全てを読み上げるのに耐えられないほど、ここに書かれていることはあまりに悲劇的だ。今すぐ君に読んでもらったっていい」
彼はそう言うと、その便箋を制服の女「アカシ」に手渡した。アカシはゆっくりとこちらにやって来て私に向かってその便箋を差し出すから、私は震える手でそれを受け取った。
「でもね、今、君にそれを読んでもらってもあんまり意味はないんだ。なにせ、私が今までに語ったことは、彼のその肉筆を上からなぞったものとそう変わらないから」
広げた白い便箋の上には万年筆でつづられた文字が踊っている。
「その手紙の差出人は、そこにいる君の両親の同僚だ。綺麗な字で書かれた手紙だった。大変に、私的で、しかし民衆の誰もが無視することのできない、あまりに公的な問題がそこにはしたためられている。それは決して私に向けられて書かれたものではないけれど、私はその手紙を読むことができたことを、とても幸運に思う」
紙の上の「後悔」「懺悔」の言葉が、私の目に突き刺さる。
「少々調べてみるとね、彼の妻は末期の子宮がんで二ヶ月ほど前から入院していたのが、病状が『急変』してひと月ほど前、亡くなったそうだ。説明の必要もないかな。⋯⋯そして、その手紙の差出人と全く同じ名前の人物が、今朝、帝都の時計台から飛び降りた」
美男子のその言葉に、群衆のどこからか、ああ、という声が、はっと息を飲む音が聞こえて来る。
「これ以上、説明はいるかい?」
美男子は泣きそうにも見える顔の目元を歪める。私はそれから必死で手紙の文面を追った。まるで、私の視線の流れと並走するように、美男子の美しい声が書かれた文字を追いかける。
「『妻の点滴に毒を盛ること、その仕組みを作ったのは、他ならぬ私たちなのです。しかし、私が間違っていました。こんなことは、もうあってはいけません。私は自分で自分を裁くつもりです。そして、我々は皆、裁かれなければなりません。取り返しのつかないことをしました。本当に、取り返しのつかないことをしました』……」
手の震えが止まらない。
「さあ、君が両親を救わんとするならば、君自身の言でもってこの大衆を説き伏せ、彼らの、私たちの正義を覆してごらん。私の申し出を受けたのは、他ならぬ君なのだから」
一斉に刺しかかる群衆の視線に、私は縮こまっていた身をいっそうすくめるしかない。もうやめて、やめて。
「暴力ではなく言論で……『人間の手段』で、君の正義を勝ち取るがいい」
差し伸べられた彼の手は、真っ直ぐに私を射抜いていた。泣きそうな声が、震える口元から勝手に漏れてくる。
「殺さないで……殺さなくたっていいじゃない……私、ふたりが、生きているだけで、それだけでいいの」
「このふたりに家族を殺された人間のうち、一体何人がそう思っていただろうね。そうさ、君の言う通り『生きているだけで』それだけでよかったのさ」
群衆の誰かが、そうだ、と叫んだ。それに続く、酷い、という言葉が私の心臓をえぐるみたいで。
「そしてこのふたりの理論を借りるならばね、『生きているだけの人間』には、この国に居場所はない。だって彼らは、そうやって人を選んで、殺したんだから」
涙はこらえきれずに溢れた。顔を覆う私の肩に一層優しく手が置かれる。顔を上げると、イチイが私のことを見下ろしている。
「少々口を挟ませてもらおう。お前は、こいつの両親の罪を、何も知らない潔白なこのひとりの子供におっ被せて、この子供さえも苦しめようとしている。それは話が違うだろう。こいつはまだひとりでは生きていけない。親を失ってはどこにも行かれない。それはお前にも分かるだろうが」
美男子は鬱陶しそうに目を細める。それからその透き通った声が、「偽善者め」と震えるのが聞こえた気がした。
「イチイくん、君は、そこにいる彼女の無実に免じて、保護者として彼女の親であるそこのふたりを生かそうと、そう言っているんだね? では君は、彼女が無実の子供であるとして、その無実である彼女の正義と、この罪人ふたりに殺された恐ろしい数の人間たちの正義を秤にかけようと考えたことはあるかい?」
それから美男子は、イチイに向けていた視線を、まっすぐ私に向け直す。
「君のその無実で、このふたりにこびりついたあまりにも重い罪を、どれだけ洗い流せると思う?」
私は、白い病室を、その手首に繋がれた点滴の針を、ベッドの横で泣き崩れる家族を、想像した。
「この罪人ふたりをもし救うというのなら、差し伸べた無実の君のその手は、巡り巡って無実の君自身の首を絞めるだろう。この世は、悪人が善人を苦しめるようにできているんだ。悪たる罪人をひとり救うということはね、善なる無罪の人間をひとり見殺しにするということなんだよ」
彼の目からは、一筋の涙が溢れていた。彼はそれを拭い、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「黙っているだけでは生きてはいけないよ。ひとは常に海原で舵をとり、自分の航路を選びとらねばならない。判断をやめれば、君は海の上で路頭に迷い藻屑と消えるだろう。つまり君は、人として生まれたときに負った責務を果たさないまま死んでいくことになる。それは、君の生まれた意味の全てを否定することだ。生まれなかったのと同じことだよ。お嬢さん」
涙でつまった私の喉からは、何の言葉も出てこない。
「答えは出たね。さあ、このふたりが死すべきでないという方は、今、その手を高らかに打ち鳴らして、どうぞここで訴えてください。さあ」
美男子のその言葉に応えてただ一つ響くのは、イチイのたったひとり分の拍手の音だった。水を打ったように静まり返った広場の中で、その乾いた音の響きは、あまりに痛々しかった。
私は母さんがギロチンの下に寝かされるのを見ている。私だけではなく、周りのひとたちが皆、それを見ている。父さんは群衆をかき分けた壁の前に立たされて、そのままうなだれている。優男が胸ポケットから銃を抜き出した。彼の銃を握る腕がゆっくりと上がり、その銃口が、迷いなく父さんのことを狙っている。私は夢中で走り出し、その銃口の前に割って入ろうとした──けれど、体は恐ろしく重くて、私は実際には立ち上がろうとした椅子の横に転がっただけだった。どうして、なんで……頭はこんなに冴えているのに。
「やめて、やめて、おねがい」
まともに声を出すこともままならず、優男の指が引き金にかかるのを、私は動かない体でじっと見ていた。目隠しの下で伏した父さんの目は何も語らない。ギロチンの下で、目と口を塞がれた母さんは何の言葉も発さない。母さんはもう死体になってしまったみたいに、ぐったりと仰向けになっていた。優男が引き金を引く、仏頂面の男が刃を落とす。私は、気がつくと叫んでいた。
「愛してる。私、それでも、愛してるわ」
目隠しの下の目が、私のほうを向いたのがわかった。きっとこれは、私にしかわからなかった。でも、間違いなかったんだ。私の視界の外で美男子がそっと呟くのが聞こえた。
「ここでは、死のすべてが華々しい」
ぷつん、と何かが切れる音が私の頭の中に響いた。それは、何だったんだろう。
その一瞬後には、父さんはもう父さんではなくなっていたし、母さんも、もう母さんではなくなっていた。
泣きじゃくる私を連れてイチイは広場を出たらしかった。私はいつのまにか、引きずられるようにして群衆の中から抜け出していたのだ。
「わたし、わたし……」
イチイは何も言わない。ただ、私を引きずって、人気のない夜の街を黙々と歩いていくのだ。
ひとのいない路地で、イチイは私の手を離した。それから私の前にしゃがみこんで、私を見上げるようにして話し出す。
「お前の両親を救ってやることができなかった。すまなかった」
「私、わたし、なんにも……」
知らなかったんだ、というかすれ声は夜風がさらっていってしまう。
「お前は、死にたいか? いや、決して死んではいけない。お前の両親は、愛するお前の目の前で罪を暴かれて、あれだけコケにされて死んでいったんだ。お前は、それの全てをその目で見届けたんだ。それは、そうやってお前が両親に愛を示したことはな、誰がどう言ったって、誇るべきことなんだ、だから、お前はあのふたりのために、生きなければならない」
生きなければならない、と金色の目は私をしっかりと見据えている。私ときたら、肺が震えてまともに言葉が出ない。
「早くここを出て行け。よその人間はこの街には留まれない。すぐに朝がお前を連れにやってくる。早く、逃げて、誰でもいいから助けを求めるんだ。そして、自分の足で立って、生きていくんだ」
イチイの手が、立ちすくむ私の両腕を痛いほど握りしめる。
「俺は、ここから出て行けないからな」
どうして、とまともに声にもならなかった私の言葉をイチイはしっかりと聞きとった。
「きっと俺が、『ひとでなし』……日陰者だからだろうな。俺が昔言われた言葉をそのまま使うなら、『日陰者は陽の光を浴びられない』ということだ。お前の住む明るい世界には、俺たちの居場所はない。さあ、これ以上話しても真人間のお前には関係のないことだ。街のはずれまで送っていく間に、少しでも覚悟を決めておくんだ」
***
散り始めた広場の人混みの中、美青年は椅子に腰掛け、煙草を吸っている。彼の目線の先では、部下のふたりが二つの死体を引きずって麻袋に詰めることに務めていた。
「あーあ」
と気だるい声に彼が顔を上げると、彼の部下のひとりである体つきのいい優男が彼の横でわざとらしく伸びをしている。青年はそれを一瞥して、淡々と白い煙を吐いた。
「お前も板についてきたな。悲しくなるくらい周りの連中はお前の思惑通り。右を向けといえば右を向く、左を向けといえばそれもまた同じように」
そう言われた青年は、肩を揺らしてふ、と笑った。
「歯向かうならば叩きのめすのが大衆の正義さ。それを一体、私なんかがどうやって覆せる? 私にできるのは殺したがりをけしかけることだけ。大衆を前にして、私たちはいつだって『無力』だ」
「猛獣使いを無力と呼ぶか」
優男のおちょくるような表情を意にも介さず、青年は煙草を足元に捨てて、軍足の踵でこすり潰すように火を消した。
「私は無力な存在なりに『努力』をしているというだけだよ」
「才能のあるやつは言うことが違う」
「世辞はいいよ」
青年は立ち上がり、広場から散っていく人の流れを温度のない目で見渡した。
「そんで、あの娘は逃がして良かったのか」
優男の問いに、青年はあぁ、と気の抜け切ったような声を出す。
「言われた通りの人間を殺すことが我々の仕事だろう。越権行為は許されない。まあ、それ以外に理由がないこともないけれど……。それに、帝都から送られてきた処分リストには彼らふたりの名前しかなかったし、添付されていた戸籍謄本にもあの娘の名はなかったよ。あんなにそっくりな親子、そんなにいないと思うけどね」
きょとんとした顔の優男は、それから一瞬間をおいて、周到だな、と呆れたような笑みで返す。
「彼女が成人になる頃合いにどこか他所へ逃がそうという算段だったんだろう。あんなに危ないことに関わっていてはね。だが、人間ひとりの存在を政府に悟られないように育てていくというのは、どれだけの心労を伴うだろうね。よくそんなことが出来るよ」
青年は、深いため息をゆっくりと吐き出し、隣で頭を掻く優男を見やる。
「なぜだと思う」
なぜ、そこまでできると思う、と付け加える青年のその問いは、まるで問いではないかのようで、その言葉はますます冷たく沈んでいく夜気に溶け込んでいく。優男は、その溶け出した言葉を掬いあげるように、神妙な顔で口を開く。
「愛、だろうな」
ぽつりと呟かれたその言葉に、青年はうんざりと顔をしかめる。
「私には理解できないところのものだね」
「違いない」
優男は声を立てて笑う。広場から人はほとんど引き払って、その空気は閑散の色を纏い始める。
「君には……わかるのかい、彼らの法、理論⋯⋯気持ちが」
「……でも俺は、そんなことで踏み違えたりはしないぜ」
即座に返された優男の言葉を受けて、白んだ青年の表情に、幾らか色が戻ったように見えた。
「そうでなくてはね、私の友人。我が、同志」
友人ふたりはただ、はにかみを交わすのだ。
***
街のはずれで、私とイチイは立ちすくむ。「纏わりつく夜」のせいで、私は、外に出られない。見開かれる四つの目、そしてひとつの口が、絶望した様子で、また開く。
「『ひとでなし』」