少年の日の”逃走”
(一)
「不潔大魔王が来たぞ、逃げろぉ」
キイキイと甲高い声を発する私と同じ年の頃の餓鬼共が私から遠ざかってゆく。私はチィと舌打し、「吁何時もの事だ」と呟き、此の脂ぎって雲油だらけの髪を掻き毟りながら、歯を強くかみしめ、復「吁、そうだ、何時もの事だ」と言い聞かせる。
私には滝沢棄乍という名前があるが「不潔大魔王」復は其れに類するあだ名に慣れてしまい最早此方の方が本名ではないかと思う程である。抑々棄乍という名前には読んで字の如く塵取りに乗せられた赤子、詰まり間引く筈の子を表す名前だ。そう、私は望まれない子なのだ。
時は夕刻、斜陽が無機質な灰色の町を照らし、嘴細共がグワグワとしわがれた声を鳴らす。耳を震わせる其の音は汚らしいという意味のみならず私の心をに冷たい風を吹かせ憂鬱に為意味に於いても不愉快此上無い。
「じゃあな」
「おう、明日学校でなぁ。」
私と同じ年の頃の子供達は「復明日」と笑いながら夫夫夕飯時の良い匂いに包まれた家へと入ってゆく。彼方此方から同じ様に「復明日」「ただいま」「お帰り」などといった声が為る。
「帰る家か。」然呟き私は彼等を羨みながら独りふらふらと行く宛無く彷徨うばかりだった。私に親や帰る場所が無い訳ではない。
「本当の親はとっくのとうにおっちんで此処に居るのは親じゃない。」
然叫びたい位だった。勿論の通り本当はそんな訳無いのだが彼等らは私を、更には多分未だ小さい弟達をもそんな気にさせている。
そんな親だ。私が帰ったとこで親は優しい言葉など吐きはしない。恐らく「何故、もう帰ってきた」と乱暴に吐き捨てるだろう。抑々(そもそも)家に帰ったとこで飯など用意されているわけがない。用意されていても其れは兄の分と母の分と父の分、運がよければ弟たちの分、それで終わりだ。更に飯だけなら其処等の嘴細共が破り捨てたる袋から溢れる芥でも食えば多少は腹が膨れるからまだしも風呂にも入らせてもらえないのは割と痛手だった。併し風呂の事を考えると「ま、逆吊りよか増しだよな」と昔を思い出しながらつぶやいてしまう自分が怖い。
只、風呂に入れないことには沢山のデメリットが付きまとった。
先程、自分に「不潔大魔王」と言い放った餓鬼共のように其処等を通る人は私を芥のように見る。其れも其の筈だ。脂ぎって雲油だらけで強強とした伸びっぱなしの髪、汗と垢で黄ばみ黒ずんでいるうえに擦り切れて穴だらけの服とズボン。皮膚も垢で黒ずんでいる。誰がどう見ても乞食の子供にしか見えないだろう。一応公園の水で髪や顔等は洗えるのだが其れだけでは当然汚れや脂は落ちる筈も無く前述の通りに落ち着いてしまう。
結果として私の周りから人が消えて行き、私は独りになった。
何時の間にやらルビーのように赤々としていた町並みはすっかり夜の黒に染まり、沈黙とくすんだラピスラズリのような空が街を包み込んだで居る。夜の暗さと同じ位に暗く沈んだ私には街頭に集る小汚いフアレンさえも美しく見えた。どうせ今日も理不尽に怒られるのだろう。日が落ちる前に帰れば前述の通り帰ってくんなと怒られ逆に遅いと、「こんのだあほが、いつまでブラブラ遊んでんじゃ。」と怒鳴られる。
理不尽にも程があるのだが、黙って親の言う通りにしなければ背中の内出血を起こして浅黒くなった部分や直径5ミリ程のケロイドが復増えてしまうしそんな事になればまだ小さい弟達を怖がらせてしまう。
最も私自身小学生で未だ世間一般より見れば充分に子供ではあるがそういったことを受けているのはまだ私だけであり、弟達にはそういった思いをさせたくないと日頃から願い続け、
「耐える事こそ幸せに成る方法にあり」と自身に言い聞かせて堪えていた。
(二)
家に帰ると、やはり自分の思った通りだった。
扉を開けると煙草の煙が私の肺を満たし、煙たい部屋の奥、
母は塾から帰ってきたばかりであろう私の兄や私に比べると比較的扱いが増しな弟達と共に夕食をとっていた。下品にもヤニで黄ばんだ歯をむき出しにしながら兄に対して色々と話しかけていた。
兄は本当に親から愛されていた。いつだって温かい目で見守られている。併し幾ら羨んだところで私に愛が注がれる事がないのもわかり切っていた。所詮私はこの人達の奴隷でしかないのだ。
私が靴を脱ぎ玄関に上がると此処で漸く母は私に気づいたのか不機嫌そうな顔になった。私を見る両親の目は子供を見る親の目とはとても言えたものではなく、捨てた筈の畜生が帰ってきてしまったと言わんばかりの冷酷さを湛えていた。
「なんだお前か。もう帰ってきたんか。」
母は軽く舌打ちをし、口から煙草の煙を吐き出しながら気怠そうな声で言う。復、兄も私を吁、哀れな奴だと私とは何処か違う所から見下ろしている。兄の私を見る目も復、親となんら変わり無かった。
「ああ。なんか用でもあるんか。」
私の視線に気づいた親が私を睨み付け、復舌打ちをし、脅し口調で吐き捨てる。其れに対して私は自らの身、そして弟達の身を考慮し逆鱗に触れないようにと「あの、その、今日の御飯を。お願いします。」と弱々しく呟く。勿論、私にも自尊心と言う物は在る。故に不本意ではある。
然言って私が懇願為と母は「ああん、聞こえんなぁ、もう一度大声でゆうてみいや」
としわがれた汚い声で怒鳴る。
拒否されることは分かっていたが、此れは一種の儀式のような物で最初はこうしておかなければ両親の逆鱗に触れ、下手すると飯を抜かれてしまう為、この儀式は欠かせないものとなっていた。自尊心など自らの生命に比べれば安い物である。
「ど、どうか御飯をお恵み下さい。」
今度は地面に額をこすり付け大声で叫ぶ。
すると不機嫌そうな顔をしながらも私に干からび固くなった最早生芥と何ら変わりの無いパンを投げてよこした。
「ほらよ、此れで良いだろ。とっとと失せろ。」
母は「チィ」と軽く舌打ちし私など居はしなかったかのように兄と談笑を始めた。
弟達は私を憐みでも侮蔑でもなく未来を映す鏡として縮こまる私を見ていた。弟達は幼いながらに「吁、次は自分なのだ」と悟っていたのだろう。
「そんなことさせはしない。」
弟達に対してではなく、我が決意固めんと自分に対して言い聞かせ、私は彼らを背に家の隅に設けられた私の部屋とは名ばかりの芥溜めのような二畳も在るか如何かの物置部屋へと向かった。
居間の方から漏れる楽しそうな話声は私が向かう部屋へと続く真っ暗な廊下の奥へと私と共に吸い込まれていった。
(三)
新聞配達の原付の走り去る音で私は目を覚ました。此の部屋こそ暗いものの恐らく外はもう青白くなっている頃合なのだろう。私が寝る此の物置部屋の窓には分厚い合板が打ち付けられており朝になろうと昼になろうと暗闇に包まれている謂わば「常闇の空間」なのである。
私は足に絡みつく衣類を引っぺがし今日の荷物の教科書等を兄からの下がりものである至る所の塗装が剥げ白っぽく成った襤褸のランドセルに詰め込むとテレビの音と食事の音がする明るい居間を素通りし、玄関で此亦下がり物の襤褸靴を履くと玄関を開け、出て行った。
私の重く沈んだ気持ちとは裏腹に町並みはさんさんと降り注ぐ朝の陽射しを受けて青白く輝いていた。
教室に入ると何時も通りの声が聞こえてくる
「うわ、あいつ今日も来やがった。」
「近づいたら病気になるぞ、逃げろ逃げろ」
自分に「吁、何時もの事」と言い聞かせる。
こういった事に対しては最初の内は人並みに傷付いたり為たものの、今では最早極々日常的な物であり苛立つ事もなければ傷つく事もなくなった。
「おい、不潔野郎、聞いてんのか。」
只、こういった様に近づいてこられる事には対応が難しい。
こういった場合、無視を決め込んでも反論しても彼は争いを仕掛けてくるだろう。どちらが悪いかは見れば一目瞭然だ。私である。
世間というのはなんと理不尽なのであろう。
ごく一般的な少年と殆ど乞食の様な恰好を為た少年、例え前者に非が有ったとしても彼らは私を悪いというだろう。
身なりというものは大切である。
更に私の両親が両親なので誰も私の肩を持つ者等いない。
なので私は争い事は極力避けるように為ているのだが、前述の通りどちらの場合でも争いに発展為る可能性があるので困ったものだ。
「おい、聞いてんのか不潔。」
徐々に苛立ちを浮かべながら私に呼びかける。
「はい、聞こえてます。」
と恰も彼に従うかのような態度をとる。すると彼はフンと鼻息を鳴らし去ってゆく。此れが私には日常と化していた。
(四)
一限目が始まると先ほどまで騒がしかった教室は静まり返り教師がチョークを叩きつける音丈が響いていた。
「次の所、滝沢、お前が読め。」
私があてられると教室のあちらこちらでくすくすという嘲笑い声が響いた。
「読めません。」
私が言うとさらに教室はどっと沸いた。私が読めなかったから、いや私が読めるはずがないからだ。普通文字が羅列されているはずの教科書だが、私の其れは通常の其れとは違う下品な罵詈雑言が油性マジックで書きつづられ本来見える筈の文字が見えなくなっているからだ。
事情を知らぬ教師は私を不真面目若しくは無知な奴と思っているのか鼻で笑い「じゃあ次」と他の生徒を指名する。この程度最早痛くもなんともない、「何時もの事」と処理出来てしまう。
その時丁度のタイミングで授業終了を告げる鐘が鳴る。
其の鐘は授業の終了を示す物で有り、復、休み時間を告げる物でも有る。
おい、不潔、若し私が素早く姿を眩まさなければこういった具合で復絡まれてしまうだろう。前述の通り絡まれれば此方の分が悪い。
其れ故私は休み時間が始まると共に姿を眩ますのだった。
行先は憚りの個室か。否、其処は確実にばれる。其れどころか更なる虐めにシフトする恐れがある。
其れでは何処へと逃げるのか。
答えは無い。毎日何処へ行くかを変えているからだ。
場所を変えないと其の内特定されてしまう。其の為隠れる場所は毎日変わるのだ。
今日の隠れ場に付くと私はズボンの衣嚢より小さな時計を取り出すと其の場に腰を下ろしその時計をじっと見つめ、ぼうっと考え事を為乍時間が経つのを待った。
「棄てる」、「捨てる」その文字が示すのは文字通り捨てる事。
併し多くの人は「棄」や「捨」という文字に含まれた真の意味を知らずに生きている。その意味は途轍もなく惨たらしい物だ。
「棄てる」、其の意味は塵取りに赤子をのせる様子を表す。
「捨てる」、其の意味は布に包まれた赤子を投げ捨てる様子を表す。そう、「すてる」とは子供を捨てる事をかたどった象形文字なのである。何時の時代でも人類には、否、全生態系に於いて育児放棄、最近の言い方をするとネグレクトが存在為。
復、其れと同じく如何なる生物にも虐めは存在する。
此等は昔、図書室の図鑑、辞書で見たものだ。
「そうだ、僕のような者は必ずいるのだ。」
私は誰に言うでもなくそう叫ぶ。自分に言い聞かせるのか、其れとも誰かに助けてもらいたくて叫ぶのか分からない。
此処には誰も居る筈も無く来る筈も無い。其れにも関わらず私は唯そう叫ぶ、唯そう考える。
「滝沢棄乍」、自分に与えられた名前。踊って嘲笑う「棄」の文字。塵取りに乗せられた赤子、望まれない赤子。捨てられる赤子。其れが私である。
「其れでも、僕は生きていく。何時か変わる為に」
其れが私の意気込み。親から育児放棄、虐待を受けても、学校の面々に虐めを受けても学校に通い続ける理由。
「偉くなりたい。」、其れは漠然たる夢。偉くなれば私は家族から逃げる事ができる。弟達も連れて行き皆で幸せに成る事ができる。単純かもしれないが、此れが小学生である私の唯一つの夢である。自らの命を絶ちがりがりと削り描かれた直線から人生をやり直したいとも思わない。何故なら此れが唯一の大団円であるからだ。
「そろそろだな。」
時計を見ると長針は休み時間の終わりの五分前を指していた。
考え事をすると時間というものはやけに早く進むものである。
「さて、と。そろそろ戻るか。」
そう独り言を言って私は薄黄緑色の廊下を上履きでぺったぺったと鳴らしながら教室へ向かって行く。其処が悪夢と知りながら、一歩ずつ、ぺった、ぺったと、底なし沼に沈みゆくかの様に。一歩ずつ、一歩ずつ。
(五)
昼前のチャイムが鳴る。
「よし、給食だぁ。」
クラスの男子が叫ぶ。クラス全体も盛り上がり賑やかな雰囲気に成る。
給食は私にとって唯一真面と言える食物である。他は昨日のような芥である。
此の時間は私にとっても天国である。一つは前述の通り、もう一つは皆夫々机を付合、楽しく談笑する御陰で教師が余計な気遣いをしない限り私は独り孤島を作りこのクラスに居ないかのように成れる為である。
給食はあまり美味しく無いと言う人が居るが、生芥に比べればフランス料理に匹敵為位美味しい。但し若し本当に私がフランス料理を食べたのなら恐らくアントレを口に為た時点で美味しさのあまり倒れるだろう。先程私が学校に来るのは出世為為と言ったが若しかしたら此れも理由かもしれない。
食べ終えると「嗚呼、美味かった、牛負けた。」とぼそりと小声で美味かったと言いつつ上手くない洒落を言い食器を戻した。それから全ての授業が終わるまでは復地獄であった。
(六)
家に帰ると其処には誰も居なかった。恐らく家族で出かけているのだろう。最早自分が頭数に入っていない事等何一つ気にしていなかった。抑々親たちが居ないなら居ない方が好都合である。若し居てもただ傷痕が増えるだけであるだろう。
常闇の自分の部屋の扉を蹴り開け、当てつけであると言わんばかりにランドセルを投げつける。そして投げつけられたランドセルはあちこちに投げつけられた衣類にぶつかりぼふと言う空気が抜ける音を立てる。
「今日の晩御飯は抜きかぁ」
そう漏らす。けれど此の日私は充分物を食べていたので此れと言って困る事は無かった。
「はてさて」と言い懐中電灯を手探りで探す。この部屋に電灯は無い。両親が私には勿体無いと外してしまったのだ。
「あった」
懐中電灯は百円均一で買えるちゃちな物だが此の部屋には唯一の明かりである。安いプラスティックのスイッチを滑らせるとカチリという小気味良い音を立て明かりが灯った。そして其の光を使って先ほど乱暴に放り投げたランドセルを探す。探し乍も先程自分のランドセルを投げるという行為の浅ましきを思い知る。
「あった。此れだ。」
闇に黒色とは恐ろしく目立たない物である。其の中から無造作に教科書等を取り出すと時間割を照らし其れに対応した教科書をとってゆく。そして其れを開くと教科書のまだ読める部分を探し読んでいた。
此れも復将来出世為為である。私は兄の様に勉強に金をかける事が出来ない。其れに公立では勉強を不得意に為為に用意為たのではと疑わしい国のカリキュラムに従った質の低い授業しか受ける事が出来ない。其の為出世のためには自学自習を貫かなければ為らなかった。毎日約三時間と決め繰り返している。
そうこうしている内に数時間の時が過ぎた。未だ親達は帰って来ない。だが時計の短針は間も無く十を指そうと為ている。本来の子供であればゲームや本、漫画等を読み足りないと寝ることを拒もうと為るであろうが私は娯楽関係の物はあまり持っていない為眠ることにさして未練等なかった。
「さてと、眠ると為るか。」
懐中電灯のスイッチを切にスライドさせる。
良く小説等で寝る前の描写を描く際電灯を消すとあるが私の電灯は随分とちゃちな物である。昔スーパーで売られていた電灯が触れられる丈で明かりが灯るのを見て「いやはや、近頃の技術とは凄い物だなぁ」と驚嘆為るばかりである。
普通の親なら「また明日、おやすみなさい」と言った具合に子供に優しく呼びかけてくれるだろう。そう普通の親ならば。あの親はそんな事を為る筈が無い。普通の親は抱きしめてくれるだろうがあれの場合は精々焼きを押してケロイドを増やす丈だろう。正に鬼畜の所業である。
「吁、暗い、暗い。只々只管に暗い。」
親を見て思った事なのか部屋の事なのかは重く圧し掛かる睡魔や空腹による吐き気、腹痛の所為でよくわからなかった。
部屋の闇とは違う暗い闇が私を包み、引きずりこんでゆく。
「おいでおいで此方は希望の明日さ」
親の形に見えなくもない悪魔が言う。逃げても逃げなくても明日はやってきてしまう。希望の明日、其れは私が完全に親の奴隷と化す未来。確かに親にとっては日が経つにつれ目障りな糞餓鬼が何でも命令に従う奴隷に成ってゆく意味に於いては希望であろう。大抵こういった事を為る親は総じて子供は洗脳され逃れられないと思っている。
併し私は違う。洗脳等されない。私が親に従うのは親の希望の為ではない。私の絶望から逃れる為だ。
そういう意味に於いて私に希望の明日が近づきつつあるのだろう。
「油断は大敵。」
そういうと私は目を閉じ、眠りについた。
(七)
相も変わらず朝の教室は騒がしい物だ。まるで道端で芥を漁る鴉共の様だ。今日は何故か件の餓鬼も絡んで来ない。うむ、今日は良い日である。何時も此れならば良いのだがなとも思う。
「あ、そろそろ時間じゃん。」
「そうだね。もう行くかな」
「じゃあね。」
「おうよ。」
時計は朝学活始まりの五分前を示していた。其れを見た生徒達は皆自分の教室へと戻っていく。自分にとっては休み時間は苦痛な時間以外の何物でもないので別に終わることに対して何とも思いはしない、寧ろ微かに喜ぶ程である。
鐘が鳴り教師が入ってくる。今日の授業が始まった。
(八)
四時限目の終わりを告げる鐘が鳴ると皆真っ先に給食支度を始めた。結局他の休み時間も件の餓鬼がちょっかいをかけてくる事は無かった。
「さて」と言い自分の元に配られたシチーに匙を入れようとする。
おかしい。本来シチーの具は煮込まれ柔らかく成っている筈なのだが私の匙の先に当たった感触は其れではなかった。
護謨と、其れと固い物の感触。其の時、初めて朝よりの事に説明がついた。
「畜生共め、此の為だったのか。」
小声で呟く。そう私のシチーの表面を匙で取り除くと其処には馬鈴薯や人参では無く一面の画鋲で串刺しにされ丸くなった芋虫。其の光景からか奴等に対する怒りからなのか腹の底より胃液がこみ上げてくる。私は急いで便所へ駆け込み何一つ具の無い殆ど胃液の物を吐き出す。幾ら芥を食べ慣れてるとはいえあのような惨い光景を見せられたらたまった物じゃない。彼等は此の為に休み時間中ちょっかいをかけてこなかったのだ。すっかり油断為ていた。
私は自らの失態を悔やみ乍教室へ戻り無言で芋虫団子入りのシチーを捨てると何時もの様に校舎内を彷徨って行った。
(九)
「気をつけ、礼。」
クラスの日直がそう号令を掛けると急に皆畏まる。
「さようなら。」
子供らしく皆が声を合わせる。帰りの学活が終わると私はそそくさと自分の荷物を纏め一目散に教室を出て行った。
「今日どこで遊ぶよ?」
「富田ん家は?」
「今日は駄目だよ。お母さんが用事あるから。」
「そっか。なら俺ん家にしようぜ。」
「わかった。」
自分以外は小学生らしい今日を過ごしている。
一方私は今この瞬間も今日を一体どうやってやり過ごすかと心配しているのに。同じ一日の心配でも其の心配の種類は全くと言ってよい程に違っていた。
「チィ。どいつもこいつも楽しそうな会話しやがって。」
ぼそぼそ呟き乍穴の開いた襤褸靴を履き昇降口を出る。
先程の事件の所為で体の中に何も残されていない。只でさえ普段より栄養失調気味であるというのに困ったものである。
更に今日も恐らく飯抜きなのだろう。体力が持つ気がしない。
そこである事に気が付く。おかしい、やけに地面が柔らかい。其処には確かにアスファルトが張り巡らされている筈なのに雨上がりの山の土の様に踏み堪えがない。併し私はどうせ気のせいだともう一歩、もう一歩と踏みだしずんずんと帰り道を歩いて行く。だが、家まであと十分という所で急に世界がぐるんと回りだし私は熱されたアスファルトの上に叩きつけられた。体が動かない。世界もどんどん暗くなってゆく。
「吁、最早駄目なのか。」
世界の歪みは次第に大きくなり、私は其の儘身を任せぐにりぐにりとくねらすアスファルトの底無沼へと沈んでいった。




