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宿屋の娘 二

 暗くなりはじめて、ちょっと寒くなった頃、どこか外に行っていたらしい魔法使いが町に帰ってきた。私は窓の下で息を詰めて、じっと耳を澄ました。

 晩ごはんのおつかいの帰り道。大人たちが魔法使いが帰ってくるのを待って話をしているのが聞こえたから、お役場の庭に隠れた。大人たちには、見つからないと思う。多分彼にも。だって魔法を使わないから。

 千里眼でも、何でも見えるわけじゃないって言っていた。見ようとしないと見えないのだって。だから、私が居ることを知らない彼には、私を見つけられないはず。

 そうっと覗き込むと、彼と町長さんが向かい合っていた。この距離なら、声ははっきり聞こえる。

「交渉は決裂だ。どうする、お前たち」

 大人たちが皆、緊張しているのが分かる。何も言わないでじっと彼を見つめていた。でも、そんな人たちを眺めて、彼はちょっと笑った。

 何の話?

「あちらから攻めてくるのだ。こちらの方が分がいい。恐れることなどない」

 攻めてくるって、戦争の話? じゃあ――なのに、どうして笑っているの。

 どこと戦争をするんだろう。いつ始まるんだろう。学校で教えてもらったみたいに、人がいっぱい死ぬんだろうか。男の人たちが皆、居なくなって、女の人や子供は奴隷になって、町の壁が壊されて、町が空っぽになってしまって、町が一つなくなるのだろうか?

 先生が見せてくれた火薬が燃えるところを思い出して、ぎゅっと手を握った。私たちがお裁縫をしている間、外で剣術をやっている男の子たちも、一緒に行くのかしら。

 彼も、魔法使いも一緒に、戦争をするのだろうか。歴史の教本みたいに。

「この羽を矢羽にすれば必ず当たる矢ができる」

 声にはっとして部屋の中を見ると、いつのまにか、彼の足元に大きな木箱が現われていた。魔法に違いない。どうやったんだろう。

 箱の中から取り出された羽は彼の手のひらの大きさで、真っ青な、空みたいな色をしていた。少し光って見えるのは勘違いじゃないと思う。きっと、前に狩りで獲ってきた物。

「向こうも同じものを使ってくるのでは?」

「かも知れぬな。この化け物はあちらの森でも獲れる」

 町長さんが言って、彼が答えた。向こう、相手の町にも魔法使いが居るんだと分かった。

「逃げるか?」

 窓に背中を見せた魔法使いが大人たちに問いかける。逃げたい、と思ったけれど、誰もうなずかなかった。皆が緊張した顔のまま、首を横に振った。

 どうして? 大人も皆、戦争は怖くて酷いものだって学校で勉強したはずなのに、想像しただけでこんなに怖いのに。大人になったら、怖くなくなるのかしら。

 ……そんなわけないわ、先生だって、あんな顔してたもの。じゃあ、どうして?

「祖先の築いた町を捨てるものですか。貴方も居るんだ、守ってみせます」

「ですが……魔法使い、俺たちが死んだときは、家族を」

 大人は皆戦争をする気だった。隣町と戦って、倒して、勝つ気なのだ。

 でも勝つのと死ぬのとは、真逆じゃない。勝つから死なないとは限らない。戦争は決闘とは違って、そんなに単純では無いのだって、先生が言っていた。

 ぶるりと体が震えたのは、夜で、寒いからというだけじゃない。もしかしたら今、中で話している大人たちは皆居なくなってしまうかもしれない。大人だけじゃなくて、友達の男の子も。私たちは奴隷になってしまうかも。魔法使いも死んでしまうかも。それが、怖い。

 私は、黙っていた魔法使いが首を振って、皆を別の所に連れて行ってくれることを願った。それがきっと幸せだって、誰だって思うもの。大人だって強がっているだけ。そうに違いないのだから。

 けれど彼は、うなずいて腕を組んだ。

「そうはさせぬ。そうはならぬ。……だが、約束しよう。お前たちの家族は皆守ってみせる。お前たちもだ」

 ああ、あの人も逃げないんだ。どうして大人は怖いものから逃げないでいられるんだろう?

 彼の答えは恐ろしいには違いなかったけれど、言葉自体は、何よりも力強くて、あたたかかった。彼はきっと魔法を使ったのだと思う。火かしら、お日さまかしら、それとも毛布? 何を使ったらあたたかな魔法ができるのだろう。大人も皆、魔法を感じたかしら。

 背を向けた彼はまだ笑っていただろうか。

 話が終わって、彼が皆に見送られながらドアを開けたところで、私の膝からかくりと力が抜けた。

 すごい話を聞いちゃったけれど、お母さんとお父さんはもう知ってるのだろうか。こんなところでこっそり聞いたなんて怒られるから言えないし、知ってても、何も聞けない。きっと子供の私には教えてくれない。怖がらないふりをちゃんとできるのは大人だけだから。

 帰らないと、と思って、籠を手にしたけれど、力が入らなかった。町は暗くなってきて、お母さんとお父さんに怒られるし、きっともっと寒くなって、凍えてしまうに違いないのに動けなかった。戦争という言葉が胸に重たい。家に帰るのもなんだか怖いような気がした。

 でも、帰らないでどうするのだろう。何もできることなんてない。早くコショウを持って帰らないと。

 背中にトンと何かが触れて、私は飛び上がった。

 悲鳴も出なかった。急いで振り返ると、ドアから出たばかりのはずの彼が後ろに立っていた。庭を回るには時間がかかるはずなのに。心臓が止まるかと思った。

「阿呆め。また母様に怒られるぞ」

 呆れ顔で、川のような色の目で私を見下ろしている。立ち上がろうとする私の腕をとって引っ張って、落ちていた籠を拾い上げた。さっきの木箱はどこにも持っているようには見えなかった。

「戦争をするの?」

 渡された籠を抱えて、また腕を引っ張る彼の横を歩いた。返事がないので繰り返す。

「ねえ、戦争するんでしょう。何処と? 私たちより強いところ?」

 見上げてばかりいたらつまずいた。転びかけたけれど、魔法使いの腕があったから助かった。彼はやっと立ち止まって、溜息を吐いた。

 暗い中、出てきたお月さまの光で解れた銀の髪が輝いている。じっと私を見つめてから、彼はまた口を開いた。

「此処より大きな町など、千里行った先にしかない」

「じゃあ、大丈夫なのよね?」

「だから他の者に言いふらすのではないぞ。困るのはお前たちだからな」

 はっきりうなずいた彼に背を押されて、馬転びの急な階段をゆっくり昇る。上を見上げるとうちの宿の灯りが見えた。今日はお客さんがいっぱいいるから、どの窓も明るいのだ。外向きの魔法使いの部屋は見えないけれど、今は暗いだろう。

 ……ずっと暗いままだったらどうしよう。

「貴方も戦うの?」

「無論だとも。魔法使いは身を置く町を愛するものなのだ。町を守らぬ魔法使いなど、本来あってはならぬ」

 尋ねると、ろくに考えもせずに魔法使いは答えた。

 ――町を愛する、なんて、はじめて聞いた。

 でも知ったのははじめてじゃない。先生はいつも、私たちにこの町がどれほどの時をかけて作られたのか、どんなにいい場所なのかを教えてくれるし、大人は皆、誰も彼も、魔法使いも、ユルペンニアのために戦おうとしている。この場所と、私たちのために。

 愛する町。ここは、皆の愛する町なのだ。

 後ろから足音がする。魔法使いも重い足を動かす私と一緒に階段を昇って、うちの宿を目指しているようだった。今日はちゃんと帰るのだ。少し、安心した。

「案ずるな。愚かしい騎士の手では、一人とて死なせはせぬわ」

 騎士? と訊く前に髪を引かれて振り返る。さっきお役場の庭で背中に触られた時よりは驚かなかった。

 とてもきれいな魔法使いが、階段の途中、見渡せる町を背にして笑っていた。なんだかとても自信のある顔で、町はまだ静かで、点々と灯りが見えて、戦争の気配なんてないのが不思議だった。きっと大人たちは皆、知りはじめているのに。

「なあ、イダよ、お前のその髪結い紐、私にくれないか」

 魔法使いが言う。私は背中の上にある編んだ髪を引っ張って見た。暗いから目を凝らさないと、結んであるのがどんな紐か見えなかった。

 今日のは、いっぱい持っている赤い、普通の紐だった。別に特別なやつじゃない。そんなに新しくなくてきれいでもない、安い紐をお母さんが買ってきて、染めて切った物の一本だ。

「いいけど、どうするの?」

「魔法に必要なのだ」

「……女の子の髪結い紐が?」

「そう」

 変なの。髪結い紐で、どんな魔法ができるのかしら。

 訊きたかったけど、訊かなかった。訊くのは今度、来年ぐらいにしたかった。私は自分の髪から紐を外して黙って彼に差し出した。

 受け取った魔法使いは、それをどうするでもなく上着の中につっこんで、私の帰る背を押した。駆け上がった階段の終わり、ドアの前ではお母さんが待っていてやっぱり怒られたけれど、そのときはもう、彼は隣に居なかった。

 鳥になったなら、そこのところを見せてくれれば良かったのに。

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